ジオパーク秩父を、長瀞から皆野へ巡り進んできた続きです。岩の模様ばかりを見つめるのも飽きるので、ちょっと宝登山に登ってみます。まず麓の寶登山神社から。
【2024年7月9日】 ジオパーク秩父~宝登山~秩父34番水潜寺~川の博物館
寶登山神社は江戸末期から明治初頭にかけて造替された。建築彫刻を手掛けたのは、熊谷在武州明戸の彫刻師飯田岩次郎とのこと。平成21年の改修工事の際に彩色が施されて、かような姿となりました。
狛犬は昭和12年。体格が良くて、年間100万人以上の参拝者を見つめている。
手水鉢は川口市の講からの寄進だが、鋳物の街にふさわしい出来栄えだと思う。真ん中に寶登山の寶の一文字も刻されている。
拝殿前の桶も同様である。昭和33年奉納。
彫刻のテーマは「二十四孝」だが、各所の文様も見事。向拝廻りには圧倒されます。
本殿の床廻りも随所に仕掛けがあって、玉垣の隙間から覗き見る。
時間をかけてじっくり見るのが面白そうです。
では本日のスケジュールに沿って、特別にロープウェイで宝登山に登ります。貸切便でした。
5分で到着。誰もいません。週末や梅の季節は人出がすごいでしょう。
山頂駅広場からの展望は、これだけ見えるらしい。今日は曇り空でよくわからず。それにしてもここは涼しいです。下界の暑さなど、本当に忘れてしまう。風が気持ちいい。労せずに登ってるからなおさらです。
武甲山は削られてもそれなりに美しい。
山頂へ向かう途中で奥宮に参拝していく。
宝登山神社には山犬伝説がある。ここにオオカミ像一対。
奥宮の脇から登るとすぐに山頂でした。前回登ったのは7年前、下から歩いて往復だった。ここだけを目的に来ることはほとんどないです。
武甲山は霞んだまま。
せんだって登ったのは両神山の八丁尾根だった。
下りは一便見送って、のんびり涼んでから降りることにした。
次は秩父霊場34番札所水潜寺へ行きます。三度目か。ここは秩父観音霊場巡礼ランニングで二巡した。そうやって巡礼の満願として御朱印を頂いていくのが、この寺にはふさわしい。今日は車で来て、ジオサイトを観察していくのが目的だ。
境内の右手奥に「水潜りの岩屋」という鍾乳洞と、その背後の岩壁がある。この岩は石灰岩が泥岩中にチャート等と共に混在したもの。海洋プレートが海溝に潜り込む時に形成された、メランジュ(混在岩)である。2億年前の話。
生成過程のスケールや時間概念が大きすぎて、観音霊場とは不釣り合いな気もする。しかし秩父霊場の札所の多くは、こうした岩と関わり合っている。
巡礼で訪れた時には、岩は岩としてしか見ていなかった自分だが・・・
満願の札所水潜寺も、今日はそういう雰囲気が感じられなかった。ひっそりと、ただ静まり返っていた。
日本百観音、つまり西国33+坂東33+秩父34ということ。我が家にはRUNで巡った三冊の御朱印帳があります。ここを打ってから坂東1番の鎌倉杉本寺まで走ってつないだこともあった。
なつかしき、巡礼の道。
そして次は、秩父華厳の滝のメランジュへ。34番からわずかに奥へ走った場所にある。全国10番とはどういう基準か知らないが、言う人によってぜんぜん違うだろう。
遊歩道を5分ほど歩けば滝に着く。こういう観光地的なフォルムの滝は、私はあまり好きではないですけど。
赤い岩盤はチャートで、放散虫(プランクトン)の骨格である二酸化ケイ素が深海底で堆積したもの。それが何故赤いのか? それよりもこの滝壺の深さが気になる。
これにて今回のジオパーク秩父 長瀞・皆野エリアは終了です。ジオパークという概念が未だに観光の一端としての地位を得ていないのは、その難しさにあると思った。学術的内容やアクセスや整備状況など、逆にたくさんの人が訪れても困ってしまうだろう。
そういう意味では、自分たちにとってはそこそこ楽しむことができました。また奥のエリアへとチャレンジしてみたいと思う。
ほどよい時間の余裕があったので、最後に川の博物館を訪ねた。花園ICに近い、荒川のほとりにある。通称は「かわはく」だ。
敷地内にある巨大な白い帯状構造物は、「荒川大模型173」だった。実物の1000分の一の模型である。荒川の長さは173km、全国15番目に長い。(出典によっては18番目)。1番は信濃川で367km。信濃川の模型を作ったら大変なことになる。
ほぼ水源の甲武信岳より。
では見学していきます。今は「今も残る養蚕習俗」の特別展をやっている。
養蚕護符なるものが発行された。蚕という字はいろんな種類があって面白い。神の下に虫と書いたり、いろいろ。蚕神の像容も種々ある。
右の護符は蠶の字が使われている。
蚕影山(こかげやま)とは石碑でよく見るが、左のものは神+虫の字になってる。
ネズミは蚕の敵だ。ネズミを駆逐するためネコが飼われて大切にされた。ネコも護符となった。
その他いろいろ、新たな養蚕関連資料をカメラに納めて常設展へと進んでいった。
荒川上流の中津川において、木材搬出のために鉄砲堰が利用された。人為的な鉄砲水によって木材を下流へ押し流したもの。荒川本流へ流れ下ったら、筏流しにしたという。この技術は「山稼ぎ」で全国を渡り歩いていた職人が伝えたもので、元は大井川上流で行われていた。私は昔、大井川西俣の源流で残骸を見たことがある。
最近水路にハマっている土木女子は大喜びでした。9月からの荒川放水路展には絶対また来るそうです。
おわり
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