朝一番の千曲市力石養蚕民家群の探訪を終えて、同じく千曲市の稲荷山へ向かいます。
昨日歩いた小田井宿は中山道、海野宿・小諸宿・上田宿は北国街道(善光寺東街道)で、稲荷山宿は北国街道(善光寺西街道)です。信州の諸街道を歩いていきます。
圧巻の山丹(旧呉服商)!
【2024年5月2日(木)】 千曲市力石養蚕民家群~稲荷山宿~その他~
R403の稲荷山交差点北側に本八日町商店街駐車場があるので、車はそこへ。そして稲荷山宿へ飛び出した。しかし表通りは車の大洪水、平日の朝のラッシュアワーだった。とりあえず歩を進めていく。まず少し、南側へ行ってみます。
稲荷山の町は天正10年(1582)に上杉景勝が稲荷山城を築いてから城下町として発展した。江戸時代になると善光寺参りの旅人が行き交う善光寺西街道として栄えていく。
そして明治時代になると繭・生糸の集散地としてさらなる飛躍を遂げる。平成26年には重伝建の認定。しかし重伝建ではあっても車の往来は多いし、電線地中化というわけにはいかない。
右手の八十二銀行の奥に蔵が連なっていた。さり気なくのっぺらぼうで、何の建物かわからない。
左手の極楽寺の参道に入ってみた。脇道はとても細い路地で、どこにつながっているのか。
境内に立つ巨木、その背景はどっちを見ても蔵ばかりだ。
境内に隣接する巨大な土蔵。その二階部分のガラス窓には目を瞠る。このデザイン感覚は尋常ではない。
土壁に古風なガラス窓。中には何があるのだろう。
細い参道にはなまこ壁の蔵もあった。
道標に従って幅三尺ほどの路地を鍵の手に進んでいった。街道に戻った所に上八日町の地蔵尊があった。通りは相変わらず車だらけでうんざり。日曜日の朝にでも訪れたほうがいいだろう。
治田町交差点界隈にて。こういった隣りが歯抜けになった区画が多いので、妻側の奥行きがよく見える。
さっきの地蔵尊の向かいの、旧六十三銀行本店だった梅沢屋。そういうことは建物に書いてないので、マップと照らし合わせないとわからない。
極楽寺入口を挟むようにして、大屋根の商店が並んでいる。もう看板も出してない所も多い。
その向かいはかなりの圧倒もので、カフェ風雅という。軒先は五段くらいの重厚な装飾が施されている。堅牢な造りなのだろう。
軽トラの防犯委員ふうの方が降りて声をかけてきた。「重伝建マップは持ってますか、この裏の道は歩きましたか」などと、目を輝かせていた。「車が多くてすみませんね」とも。
茨城の真壁でもそんなふうに声をかけられて、案内までしてもらった。やはり目つきや素振りで分かってしまうのだろう。怪しまれないだけいいけれど。
稲荷山交差点まで戻ってきて、北西角の名も無い建物。ブリキ張りの雨戸や窓桟が印象的だ。
以下、説明は省略&簡素化させていただきます。
宿場内を北へ歩いていくと次から次へと興味深い建物が現れてくる。以前善光寺西街道をランニングした時は、こんなに見どころがあったのだろうか。
すばらしいです。
東側の脇道へ入ってみる。表ほどの喧騒はないものの、絵画的喧騒に満ちていた。
本陣跡にたどり着いた。冠木門が傾いていて、廃屋なのかと思ったら違った。松木家住宅である。
宿場中間の枡形を過ぎていくと、右手に山丹(旧呉服商)の建築群が他を圧倒していた。明治・大正期に栄えた、北信有数の呉服商だったという。蔵も相当豪華だし、
母屋も格調高い。
土壁アート。
稲荷山宿蔵し館、まだ9時前で開館してなかった。
向かいの建物を眺める。
北はずれの大きな枡形には、なまこ壁が延々と続いている。なんだろう?
その先には松葉屋(旧料亭)があった。明治時代の料亭だが、どんな人が来たのか。
角地の向かいから見たところ。
宿場の北側を西の裏道へ回り込んでいく。ルート取りはパンフレットの推奨コースで行きます。庚申塔や石造物もある。
善光寺地震供養碑があった。善光寺地震は弘化4年(1847)に発生した。火災も起こって、宿場は壊滅的被害を受けたとのこと。
ふる里漫画館を通過する。9時前だったので、シルクカードはゴール後に車で来訪し直した。山の端に朧月夜のハイセンスなものだ。輸出先のニューヨークなどでも、日本人の感性を称賛されただろう。
たまち蔵道から戻っていく。まっすぐでない道にも味わいがある。
いろんなファサードが楽しめる。
ひときわ輝いていた蔵。
駐車場裏のゴミステーションも蔵でした。我が家にも蔵を一つ建てようと思います、いつか。
稲荷山宿散策を心底堪能して、あんずホールへ。このマンホールは稲荷山宿で見つけたな。モノトーンだったけど。
ではこれで、千曲市のシルク回廊も終了です。まだ9時10分です。旅の最終節は須坂市へ。
つづく