品川宿から羽田道を天空橋へ | 降っても晴れても

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山に登ったり走ったり、東へ西へ・・・

今日は街道を歩きます。その名は羽田道。この道のことを発見したのは家内だったが、今日は事情によりソロで辿っていきます。昨日の疲れがまだ残っているのを感じながら。

 

【2024年4月26日(金)】 品川宿~旧東海道~羽田道~天空橋 13km

 

品川駅から第一京浜へ躍り出る。この大都会の雑踏にはいつもそこはかとない空虚感を味わう。そんな気分は一瞬で通り過ぎてゆき、信号待ちの人だかりを後にした。

 

北品川商店街=旧東海道へ入っていく。何度も走った道。朝9時すぎなので、人通りもまばらだった。ここから商店街は延々と続いている。

ちょっとお休み処もある。

昨日は白井市の神々廻という所で、田舎の風景の中を歩き回った。しかしそういう起伏や変化のない景色も疲れるもので、今日は繁華な場所を歩いてみたくなったのだ。

 

少し先で京急を西へ越えれば品川富士があるのだが、街道をゆく身にはめんどくさい。代わりに左手には江戸三十三観音霊場の一心寺を見る。

 

街道の面影を残す、商店のファサード。広重の五十三次の日坂(にっさか)が描かれていた。品川なのに何故日坂宿の絵なのかと思ったが、静岡の日坂あたりは御茶どころである。

 

新馬場駅の東側で目黒川の品川橋を渡る。

 

次なる店舗。右は茶箱という名のカフェで、左は印房だった。

昔ながらの畳屋さん。

 

青物横丁は3km地点だ。左手には品川寺(ほんせんじ)があって、門前には巨大な鋳銅製の大仏様が座している。ここは江戸六地蔵第一番である。これも以前全部巡った。

そして東海三十三観音霊場の21番札所にもなっている。この霊場も走って満願しました。

 

門前には溺死者供養之塚が立っていた。どんな災難だったのだろうか。

 

境内にはこんなすごい庚申塔もある。塔身が自然石そのままだ。延寶年間と読めるが、文字がシワの所に当たってしまって読み難い。お寺のHPでもこれについては触れてない。

 

さらに歩く。商店街はどこも食事のいい匂いが漂ってくる。鮫洲と立会川を過ぎて浜川橋を渡る。すぐ右手に天祖神社がある。日差しの眩しそうな狛犬、慶應3年。

 

そして第一京浜と合流する地点が鈴ヶ森刑場跡だ。水難者供養塔。

面白い馬頭観音もある。

 

刑場遺跡にまつわる話は悲しすぎて、読むに忍びない。

 

しばらくは第一京浜で、大森海岸駅を過ぎる。平和島口信号先で左の美原通りに入る。これが旧東海道だ。分岐点の真ん中に交番が建っている。

 

再び商店街になってきます。

買っていくべきか、やめようか。

 

平和島駅東方に当たる名和医院あたりで、品川駅から6.5km地点。ここからゴールまで6km+αである。道沿いにはコンビニも公園トイレもたくさんあるので、その都度用事を済ませればよい。環七を横切った先で内川を渡る。

内川はこんな小さな流れである。

 

さて旧東海道をたどるのもここまで。内川橋を渡ったらすぐ左折する。なんと、羽田道の名前が出てきた。そんなに公認された名称だったのか。ここからは人通りがほとんど絶えて、静けさに満ちてくる。いよいよ羽田道の始まり、未知の街道の始まりだ。

 

魅惑のY字路。東海道にもこんな風景がたくさんありますね。ここは右へ。

 

道なりで左に巨大な厳正寺を過ぎて(入ってみる雰囲気でない)、ちょっと道筋を東へそれた所に貴舩神社がある。

幟の陰に明治33年の狛犬がいた。

 

羽田道はけっこう複雑に曲がりくねっている。詳細なマップはないので、ネット上の概略図をマピオンに慎重に落とし込んできた。なので絶対に迷わない。

南下して都道131産業道路に出そうになる所に、三輪厳嶋神社が建つ。白を貴重とした明るい境内だ。ここは大森海苔の守護神という由緒がある。この界隈では漁業が幕府から推奨されて、漁師ではなくて猟師として尊称されていたという。

 

産業道路には出ないで左折する。大森南3-27のY字路に道標あり。ここは右へ。

側面に彫られた、羽田道の説明。漁業の物流を支えた道だったことがわかる。

 

その区画の東寄りに浦守稲荷神社がある。社名にも磯の香りを感じるようだ。

きつねがたくさん、大切にされていた。

 

セブンの前を斜めに進んで、新呑川の末広橋を渡る。東糀谷1丁目で一筋東へクランクして、郵便局前から「変なホテル」へ至る。まもなく京急大鳥居駅で産業道路に出る。

 

産業道路を南へ一直線、多摩川の大師橋手前で左の側道に入っていく。側道内の信号を左折したら、いよいよ終盤だ。だいぶ疲労を感じるようになってきた。

 

直線道路で首都高横羽線をくぐってしばし、右手からの道と合流したらこんなものがある。レンガ積みの低い塀みたいだが、延々と続いているではないか。これは何かの土木構造物に違いない。

 

人が立っている道からこっちへ歩いてきて振り向いた写真。左は一段低くて多摩川側だ。塀を一部で切ってある。これは単なる塀ではなくて、かつては多摩川の堤防だったのである。その後巨大な堤防が建造されて役目を終えた。旧河川敷に建物が建つようになって、レンガ壁を切ったのだ。古い階段も見える。

大正7年から16年掛かりで建設された。当時は多摩川の氾濫もしばしば起こったそうだ。これは仕切り板を嵌めた跡。びっくり仰天して声も出ない。

 

多摩川側の宅地際を歩いてみた。もっと上流側には、水位レベルに向かって曲線を描いて立ち上がっている遺構があるそうだ。思いがけないものを発見した。

 

本チャンの多摩川堤防に上がって、来た道を振り返る。

行く手には羽田飛行場や天空橋も見えてきた。

 

土手の左下には玉川弁財天がある。

 

一旦陸地側に入り込んだら、白魚稲荷神社

 

辯天橋を渡る。一気に空の面積が広がった。

橋の手すりに嵌め込まれたレリーフ、いろんな種類がある。

 

海側の眺め。多摩川河口付近。鳥居は旧穴守稲荷赤鳥居だ。

 

橋を渡った所が広大な天空橋で、羽田イノベーションシティが無味乾燥な表情を見せている。ここで品川宿から天空橋への短い旅は終わる。400年くらいの時空を歩いてきたような気がしないでもない。

 

かつてここに開拓された三つの集落は海苔漁で栄えた。しかし戦後に進駐軍により強制退去させられて、その数は三千人に及んだという。

縦に長い、絵巻物のような今日の行程図です。概略のみ表示。

 

おわり