信州シルク紀行(最終日)雪の糸都、岡谷 | 降っても晴れても

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山に登ったり走ったり、東へ西へ・・・

信州の旅、三日目は岡谷です。

近代絹産業の礎を築いた片倉兼太郎は1850年、岡谷市に生まれた。片倉組を創業し、日本から世界へ羽ばたいたのでした。というわけで、岡谷市内では『近代化産業遺産群』15ヶ所が認定されている。シルク岡谷は糸都(しと)であります。

 

まず岡谷蚕糸博物館に車を置かせてもらって、「絲(いと)まち西廻廊」という推奨コースを歩いていく。

①旧岡谷市役所庁舎

昭和11年に製糸家の某氏が市制記念に寄贈した。昭和62年まで市役所として使われていた。外壁にはスクラッチタイルがふんだんに使われている。

スクラッチタイルというのはタイル原料の粘土を成型して機械から押し出す時に、出口に並べた釘状のもので表面を引っ掻くわけです。それから焼成するとラフな引っ掻き面状のタイルが出来上がる。この現場のタイルは高遠の窯で焼かれたというから驚きだ。普通は常滑とか多治見の大きな工場で大量生産されるのですから。

しかも上諏訪の片倉館のタイルも同じ高遠窯で焼かれたという!

さらに正面玄関左手には、巨大な三波石が据え置かれていた。群馬県鬼石町で産出される庭石です。ちらっと見えてますね。重さは10tくらいあるだろう。

 

その向かいの三角地帯には蚕糸公園がある。桑が植えてあるようにも見えないし、糸都的なモニュメントもないようです。ちなみに新旧岡谷市役所の前のこの道は初期中山道といって、塩尻宿をショートカットしていく脇往還だった。

雪が、、激しく降ってます。朝から下がっていたテンションも、歩き始めたら上向いてきた。

 

②中央通り商店街

ここは産業遺産ではないが、マップ曰く「工女さんでにぎわった商店街」とのこと。華やかなりし日の面影が感じられるだろうか。そんな目で見ながら歩けば、感じられなくもない。

右のスナックの看板には「次の晴れた日に」と書いてある。うら若き工女は通わなかっただろうが。斜めにまっすぐ進む道です。

呉服店でも覗きながら歩いたか。

女性的な色使いの、ちょっとしゃれた商店街でした。

 

③丸山タンク

中央通りが終わって、イルフ童画館の南西側の古い住宅密集地の中に遺跡めいたものがある。製糸工場に給水するためのタンクで、天竜川からポンプアップした。大正3年築造。

現在は直径12mの煉瓦造基台のみが残っている。かつてはこの上にタンク本体が乗っかっていた。雪の中で荘厳な趣があった。

向こうは中央本線岡谷駅方面。

窓があった。

内部は三重円筒型になっている。絹遺産というより、廃墟の香りがする。

 

タンクの丘を取り囲む住宅密集地には3本くらいの細い通路がある。かつて、タンクを窓から見ながら生活してた人々がいた。

 

岡谷駅に到着です。9時になったので観光案内所でいろいろ情報を集めて、生糸商標カード(シルクカード)ももらった。

観光案内所の人が雪かきをしていた。昨日の夕方は中央線の単線区間で車が線路に転落して、たいへんな騒ぎになっていた。その事故の現場を横目に見ながら走っていて、ほんとに驚いた。

岡谷ジャンクションも吹雪いてます。初期中山道は、あの下もくぐっていく。

 

④十五社神社

ここはマップには書かれていない。駅前通りの突き当り、本町1丁目交差点の目の前だ。裏手の考古館側に何か呼ばれたので近寄ってみると。歳月に摩耗した双体道祖神だった。

隣りには蠶玉大神の碑もあった。観光案内所でゲットしたパンフの中には「蚕玉さまMAP」もあるので、いつかまたじっくりと来てみよう。

 

拝殿正面へ回り込んでみると、狛犬が耐風姿勢を取っているではないか。

さすがは諏訪地方、ミニ御柱もあった。

 

⑤蚕霊供養塔(照光寺)

北へ進んで本町2丁目の照光寺は広大な寺院である。石段途中の左手に二層の塔が建っている。昭和9年に3万人からの寄付を集めて、お蚕様の霊を供養するためだけに建立された。本尊は馬鳴(めみょう)菩薩で蚕神の一つである。

見上げた景観と、おそらく「蠶霊塔(これいとう)」と書かれた扁額を貼っておく。

 

本堂の建つ境内へ上がっていくと、奥の方になにやら石仏が見える。やっぱり守屋貞治だった。解説板によると、佉羅陀山(きゃらだせん)地蔵大菩薩という。左側のものだ。文政10年の造立。佉羅陀山というのは須弥山の類の霊山の名である。同名の地蔵尊で貞治作のものが他所にも数体あるようだ。ひと目でそれと分かる、高遠の貞治の作風である。

 

さらに伽藍にはいろいろあって、薬師堂の十二神将と十王様たち。

登っていくと鬼子母神堂もある。見ごたえのある寺院だった。

 

西回廊巡りもあとわずかです。

⑥丸十繭倉庫

明治期の建築で、旧サスダイ中村甫助製糸所が㈱金上繭倉庫となり、現在は上記の名称でレコード店になっている。いずれにしても繭倉庫の遺構だ。

 

⑦旧山一林組事務所・守衛所・岡谷絹工房

道なりにゆくと右手に見えてくる。これまた立派な建築物で、大正10年の建築。国登録有形文化財になっている。内部の岡谷絹工房では予約制で体験見学もできるが、今日は外観のみを眺めて先へ進むことにした。

外装はリニューアルしたのか、普通のタイル張りだった。

 

新屋敷会館の前を通り抜けようとしたら、何かが注連縄に巻かれている。巻かれるのは道祖神だと思うのだが、敷地の奥には蠶玉大神の文字碑もあったらしい。

 

そしてここへ戻ってきました。予定よりも大幅に時間がかかってしまった。でも今日はここをじっくり見学して、あとは帰るだけです。

岡谷蚕糸博物館

 

生糸の水分検査器です。明治5年富岡製糸場創立時にフランスから導入した、日本第一号。側面には和洋折衷の意匠が七宝焼で描かれて、芸術品になっている。

中山社商標。当時の、はやり顔でしょうか。

 

商店街双六。工女たちが闊歩したという中央通り(さっき歩いた)の店の名もちらほら見える。富岡にもこんなのがなかったかな。

 

スクリーンに印刷されていた渓斎英泉の塩尻峠あたりの風景。

これも同じ渓斎英泉だが、版元が違うのか。馬の鞍のマークが、絲のようだ。

 

諏訪式繰糸機で使用した陶器製の鍋。こういうものがたくさん生産されたということで、関連産業も栄えただろう。

こんな鍋もあって、面白い。

 

これも国産の水分検査器。最初に見たものよりシンプルな外観です。

 

繰糸機各種。昭和期に改良されてきたもの、ということです。

巨大な陶器製鍋は滋賀県で焼いたという。

叡智の詰まった繰糸機

 

博物館の一画は㈱宮坂製糸所が操業していて、動態展示エリアとなっている。今日は日曜日だから二人だけ。

 

壁に架かっていたのは与謝野晶子の歌。

諏訪の湖 天龍となる 釜口の 水しづかなり 絹のごとくに

この額装の生地は絹布紙で、額材は女桑(めぐわ)だそうです。

 

館内の奥に「カイコふれあいルーム」がある。手を消毒して入ってみたが、カイコが見当たらない。よ~く探してみたら、ガラスケースの中に小さな棒状のものが散らばっていた。それがお蚕様で「おかいこさまカレンダー」によると、20日目・4眠の状態とのこと。体長は15ミリくらい。これから8センチくらいに成長する。体重は生まれた時の1万倍になる。

エサやりができるのかと思ったが、ガラス越しに見るだけだった。黒い粒は糞でしょう。

 

二月の初めに上武絹の道を旅して、今回は信州シルクロードを旅した。膨大な絹遺産を見てきて、最後の最後に本物のおかいこさまに会うことができた。

あまりにも奇跡的な、長旅の終わりでした。

 

じゃあ帰りましょ

 

おわり