北口本宮富士浅間神社と船津胎内樹型 | 降っても晴れても

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山に登ったり走ったり、東へ西へ・・・

甲州扇山に登って富士みちをめぐった翌日は富士吉田をめぐっていきます。山に登るという案もあったけれど、非常に冴えない天気でモチベーションも上がらなかったので。

普段は通り過ぎてしまうようなスポットも、意外と面白い。世界文化遺産の構成資産だらけですから。

 

その洞窟は世界文化遺産!

 

【2024年2月17日(土)】 北口本宮富士浅間神社~新屋山神社~船津胎内樹型~

 

まず朝一番で、北口本宮富士浅間神社へ参拝します。北口というのは富士山の吉田口登山道のことで、南口は富士宮側になる。実際私もここから歩いて、或いは走って富士山に何度か登った。冬が5回、富士登山競走が4回、トレーニングで3回くらいか。全部が登頂はしてないですけど。知人のyamajogさんは100回登ったと言っていた。

 

登山のついでではじっくりと参拝することもなかった。今日は初見みたいなものである。まず国道138に面した鳥居をくぐる。この柱は銅板巻きだろうか。石灯籠が延々と続いている。

杉並木も荘厳だが、3株並ぶと一層重々しい。こんなふうに1本、2本、3本とまとまっているのが不思議だ。

 

礎石が6つ並んでいる。かつては仁王門・鐘楼・三重塔もあって神仏混淆の姿を見せていた。明治の神仏分離令ですべて取り払われたという。誠に愚かな政策であった。

その仁王門を守護していた仁王像の絵が残っている。仁王門は下吉田の月江寺が護持していたので、仁王の台座に月江禅寺と書いてある。ちなみに仁王像も切り倒された、とのこと。

(富士山世界遺産センターの展示より)

 

参道を進むと大鳥居が現れます。木造鳥居としては日本最大規模らしい。他にも日本一の名のりを上げる鳥居は、全国津々浦々にある。だが客観的数値で比較すると、確かにここが日本一なのである。両部鳥居です。

日本一の鳥居の神獣。

 

高さ18mを支える根元もすごい。各所の水切り屋根も立派です。

 

その先には随神門。随神門だけで、これだけの圧倒的迫力です。これは神仏分離でも、神の部類だから残ったわけですね。

 

拝殿と御神木の冨士太郎杉、樹齢千年。

その根回り。正に神宿る、という感じです。

 

重要文化財の拝殿は、建築彫刻も見事です。見るものすべて、普段見てる神社とはスケールが違う。包み込まれている感覚です。

 

冨士講中による奉納額の数々。

神田小川町の酒造の奉納額も印象的。

 

身を清められて、参道を戻ります。富士講開祖角行の立行石があった。角行は慶長15年冬にこの地を訪れ、石の上で裸身爪立ち30日の荒行をした。

他にも不眠で18,800日、断食300日、富士山登頂128回に及ぶ。106歳で大往生した。

このような姿だったでしょう。

(画像は角材で立行したものを加工しています。元画像はふじさんミュージアム展示より。)

 

国道の斜向かいに建つ西念寺に立ち寄ってみた。ここで富士山行者が精進潔斎してから登拝したという。今はそんな面影はない。

門前のお堂に石仏が集められていた。

 

 

浅間神社の南方に新屋山神社が鎮座している。ここの社叢林は溶岩流の上にあるという貴重なもの。溶岩流の上に登っていく感じです。

 

いかにもパワースポットらしい、きらびやかな拝殿です。駐車場も超巨大、シーズン中はそんなに参拝者があるのだろうか。金運上昇・商売繁盛を謳い文句にしているし、公式サイトにも力を入れている。商売上手だ。

 

 

 

では改めまして、船津胎内樹型に行きます。名前だけは聞いたことがあったが、来るのは初めて。どんなものだかも知らなかった。

無戸室(むつむろ)浅間神社・胎内神社というのが歴史的名称だ。

境内には大日如来石像などもある。

この拝殿正面の穴から地下洞窟へと入っていきます。普段は9時からなのが今日は10時からになっていて、さらに受付で「水かきしているのでもうしばらくお待ち下さい」と言われた。

 

拝殿内にはいろいろ面白いものが飾ってあった。

字面を眺めてみると、なるほどという感じがする。実際こうやってたくさんの登拝者がやって来たわけです。しかし昨今の夏の混雑ぶりとは、イメージが結びつかない。

 

歌川貞秀による安政5年作の、冨士山體内巡之圖。手にはろうそく、膝に草鞋をつけている。なぜならば膝で這いつくばって進むからだ。

こうやって最奥部の室で祈りを捧げるのです。父の胎内と母の胎内がある。

 

待つこと15分、やっとゴーサインが出た。母の胎内ではすれ違いができないから入口で声かけ合って下さい、と言われた。汚れても大丈夫な服装で、とも。一抹の不安がよぎった。

 

溶岩流が大木を取り囲んで固まって、その大木の形が残ったものが溶岩樹型と呼ばれる。そういう特殊な成立過程を持っているが、江戸時代には信仰の対象になったわけだ。

さてヘルメットで前進、ここはまだ広い方。

こちらは行き止まりの穴、敢えては行かない。

 

これが分岐する母の胎内20mだ。途中からは這いつくばらないとキツイ。それなら受付で膝用の草鞋を貸してくれればいいのに。5mで引き返した。無理ですよ。

 

本洞に戻って振り返ると、左上に小さなトンネルがあった。細い樹形がここで交差しているのだ。

 

進行方向は父の胎内。

そこで見上げると、こっちにも細い樹形が延びている。入ってしまったら出てこれない。

 

やっと出口が見えて安心です。胎内樹型探検でした。

 

今日はこのように、完全に富士山に浸り切る一日となります。

まだしばらく続いていきます。