梓川村の道祖神をめぐる | 降っても晴れても

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山に登ったり走ったり、東へ西へ・・・

南安曇郡梓川村も2005年になくなってしまった。松本市に編入されたのです。梓川村自体は三郷村と区別がつかないくらいにくっついていたのに、あっちは安曇野市でこっちは松本市です。
だからこっちはまるで、安曇野(広義の)ではないような感じになってしまいました。
そんなことを考えるのは私だけかもしれないけど。



さて三郷村(現:安曇野市)の道祖神No.843からの続きで、松本市梓川倭に入る。
ここからは安曇野道祖神マップはなくて「石仏地図手帖長野篇」がたよりとなるのだが、これまた位置を特定し難い代物である。
そして道祖神の密度は極端に薄くなってくる。

県道48号を南西に進んで、そのまま県道278号を突き進む。左手のやまと歯科診療所を過ぎて250mの左手奥に文字碑が3基並んでいた。特別変わったものでもないが。

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さらに県道を150m先の左手路傍に、やっと双体道祖神が現れた。正月吉日と彫られているが、資料では「おそらく天保年間であろう」という。なぜわかるのか不思議だ。
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後ろから見るとこんな形で、まさにどんな石にでも彫ってしまうのだ。
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その前の小道を複雑に北へ入り込んだ路傍にもある。これは弘化3年か。
ストリートビューであらかじめ探しておいた。もう1基は見つからなかった。
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元の県道をさらに南西へまっすぐ。立田上手町交差点よりしばらく先の新屋敷バス停の所に道祖神群があった。単純明快な彫りである。文化年間の握手像。
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同じ敷地に徳本塔もある。この文字には存在感がある。
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立田上手町交差点に戻って左折して坂道を登っていく。坂の途中の右手には石仏群がある。
右手の物はおそらく蚕神であろう。
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県道25号を北西へ登っていくと大宮熱田神社の手前のT字路を左の細道へ入った所に、文政7年の握手像がある。文政のものにはこういう雰囲気の物が多い気がする。
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これも横顔は力強い。
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すぐ北が大宮熱田神社だった。典型的な安曇野の神社。
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小室のふるさと公園の東方で右手の道に入っていくと左手に、文久3年の跪坐像がある。
女神が跪いたこのタイプは今回は初めてだった。
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石工の腕が良くないと彫れない構図であろう。
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また県道に出て道なりに行くと南黒沢橋の先右手に、中塔の道祖神がある。
男神の手が下へ伸びているそうだ。全体の醸し出す雰囲気がいい。
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梓川村の道は以上で終わりとなる。県道は北へ向かって、三郷村へ入る。
まもなく琴平口バス停の所で大室古原集会所があって、百体観音石仏の一部が並んでいた。
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三面六臂の馬頭観音は、双体道祖神を意識したような彫り方となっていた。
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目の前の道を東へ、坂道を下っていくと室山にぶつかる。
あまりの暑さに疲れたせいか、最後の急坂はもう歩いて登ることになってしまった。
これにて安曇野最南部の道祖神巡りは終了です。
やはり信州は期待を裏切らないのだ、と感じました。