山中伊知郎の書評ブログ -173ページ目

もうひとつのアンパンマン物語

もうひとつのアンパンマン物語―人生は、よろこばせごっこ/やなせ たかし
¥1,223
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 アンパンマンの作者・やなせたかしのエッセー集。すでに16年前の本で「今日の流行児も明日はオチメということはいつも覚悟しています」と書いているように、まだアンパンマンが「国民的キャラ」に成りきる前のものだ。

 話はアンパンマンだけでなく、ずっと著者が編集を続けてきた雑誌『詩とメルヘンのことや、子供に何をどう教えるかの教育論、第二の人生をどう生きるかの人生論にまで及ぶ。

「ボクは大芸術作品をかきたいと思ったことはいちどもありません」

 というように、マンガや絵本だけでなく作詞などに至るまで、みんなが喜んでくれるような作品、それでいて子供が大人になってふりかえったらなつかしくなるようなものを作りたい、と語る著者。そこには一貫性がある。

 これはもう、実際にその通りのことをやっているのだからたいしたものだ。

 ただ、やたらと「自分には才能がない」という記述がたくさんあるのは、やや気にかかった。

 それは誰と比較して「才能がない」のだろうか。手塚治虫より下、とかそういう意味なのだろうか。アンパンマンで成功して、『手のひらを太陽に』も当てて、雑誌の編集でも多大な功績を残した著者に、「自分は才能がない」といわれたら、他の多くの人々は、それをどう受けとったらいいのかわからない。

 才能のあるなしをはかる大きな基準が「結果」であり、この著者は、現代でも珍しいくらいその「結果」を残した人なのだから。

 アンパンマンの元ネタがフランケンシュタイン、というもの、アンパンマンファンには常識となっている話なのかもしれないが、私は初めて知る。言われてみればなるほど、と思った。

お騒がせ贋作事件簿

お騒がせ贋作事件簿/大宮 知信
¥1,890
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要するに、骨董品や美術品には、シロートは手を出さない方がいい、ってことだろうな。

 画商や、コレクター、贋作作家など、様々な人間像が入り乱れてのニセモノの世界を、豊富なエピソードによって浮かび上がらせている本。

 

 とにかく、どう考えても詐欺だろう、と思うような、ニセとわかったものを平気で何百万、何千万の値段で売りつけてもほとんどは刑事事件にならない摩訶不思議な業界なのはよくわかった。ダマされたとわかっても、画商、ブローカー、コレクター、みんなプライドもあるし、商売上、ニセモノをつかまされたとわかると信用問題になるしで、みんな口をつぐんじゃうんだな。

 つまり、トランプのババ抜きのようなもので、結局、最後にババをひいた者が大損をかぶるわけだ。

 美術館、博物館にあるものだから大丈夫とはいえない、銀座などの一等地にある画廊だからといって安心してはいけない、そんなことをいわれたら、何を信用して行ったらいいか、まったくわからなくなってしまう。

 でも逆に、そういう世界だからこそ、中にいる住人は、毎日、騙し合いのゲームに参加しているようなもので、楽しくて仕方ないんだろうな、とも思う。

 登場する人間像の中で、特に私が興味をもった人物が2人。

 その一人が、鎌倉時代に作られたとされる「永仁の壺」のニセモノを作り、まんまと重要文化財に指定させてしまった加藤唐九郎。バレた時、

「本物の永仁の壺なんてないんだから、あれはボクの本物の創作」

 と言い放ち、かえって、その名声があがったというのだから、世の中わからない。

 また、パリに住み、ルノワールやシャガール、ドガなどの贋作を描きまくった超一流贋作画家・滝川太郎の「オリジナル作品」を、あるコレクターが買ったが、値段は一万一千円だったという。その贋作の方が億単位で取引されているの比べて、何という違いか。

 世間の人が、どれだけ絵そのものではなく、「名前」にカネを払っているかがいやっていうほどわかる。

おづる婆っぱ

おづる婆っぱ―方言で綴る600字の物語 もんぺと地下たび/嶋 均三
¥1,260
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 栃木放送でパーソナリティとして活躍する嶋均三氏の本。


 私は、今度、11月13日に黒磯文化会館で『栃木・福島対抗 健康お笑いライブ』というのをやる予定。で、そのMCを嶋さんにお願いしている。この本は、そのライブの打ち合わせの際にいたたいだものだ。


 嶋さんの特徴は、栃木の、それも那須などの北部で使われる独特の方言。本人もしゃべり、方言について調査、研究までしている。


 この本は、そうした嶋さんの原点ともいえる、ご自身の祖母「つるさん」について書かれたもの。春夏秋冬とコーナーは四季に分かれていて、その折々に、まだ子供たった著者と、おづる婆っぱとをめぐるエピソードが、2ページに1話ずつ綴られていく。著者が、いわゆる徹底したおばあちゃん子だったのが、よくわかる。


 「ごじゃっぺ」(テキトー、いいかげん)「デレスケ」(バカモノ)「えんがみだ」(ひどい目にあう)なんてのはもちろん、「結納」のことを「くちがため」というなど、栃木北部方言が、溢れんばかりに登場する。


 それはそれでとても興味深いのだが、やはり本全体の魅力になっているのは「おづる婆っぱ」の人間像だろうな。けっこうシャレがきいているバアチャンなのだ。


 たとえば有名な昔話である「鶴の恩返し」を孫に聞かせやる時も、元の話とはちょっと変える。恩返しに来たはずの女がいつになっても機織りをしないのを不審に思った男が、「オメ、何で機を織んねぇんだ。オメは鶴だんべ」というと、女は「・・いいえ、わたしはサギです」。まるで落語の小咄みたいにしてしまう。

 それが孫が「婆ちゃんそれ、こじゃっぺだんべ(いいかげんたよ)」というと、涼しい顔で「かんまごとあんめ(かまうことないよ)」と答えたとか。


 しかも、その「むかし、むかし」が、「おづる婆っぱ」は「むかし」ではなく「むがーし」となるのが、何ともいえなかったらしい。


「下駄とか草履かうときはなっ、二足いっぺんに買った方がいいぞ。二束三文つってな」

「あの医者は土手医者だ・・・・ヤブより低いがら」

「普通に生活して普通に勉強してだら、普通の人間にしかなれねぇ」

「世の中はなあ金持ち、気持ち、日持ちって言うんだぞ」

「コオロギはな、寒くなっと「スソとって肩つげ、スソとって肩つげ」って鳴くんだぞ」


 などなど、人生哲学というか、単なる語呂合わせというか、そういう婆ちゃんの言葉の数々もまた味わい深い。


 読みつつ、アタマの中に、井上陽水の『少年時代』が流れてきそうな、ちょっとノスタルジックな、少年と「おづる婆っぱ」の物語ではあった。

 

無縁社会

無縁社会/NHK「無縁社会プロジェクト」取材班
¥1,400
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昨年1月、NHKのドキュメンタリーとして放送され、流行語にまでなった「無縁社会」。その単行本化バージョン。これもまた売れた。

 私は、どうせテレビで見たから、としばらく読んでいなかったが、今、改めて読み直し、あの番組を見た時と印象が変わっていないのを実感した。


 率直にいおう。NHK的には、「無縁死=孤独=悲惨」というトーンでくくっているが、私は、この本に登場する「無縁死」「行旅死亡人」の人たちが悲惨とか、かわいそうとはまったく思わないのだ。

 かえって羨ましい。こういう死に方に憧れさえ抱く。


 たとえば一人の部屋でテレビもついたままで、風呂の準備もされていたとしたら、死ぬギリギリまで、どうにか最低の生活ができるくらいに体も動き、いわば死はポックリ死のようなものだったに違いない。

 それで1週間も10日も放置されようが、本人にとっては、すでに死んでいるのだから、どうだっていいではないか。無縁死の遺骨は、なかなか引き取り手がない、なんて話も、どうせ本人は死んでいるのだから、どうなろうと、死んだ当人には後日談に過ぎない。


 たくさんの家族に囲まれたとしても、仮に延命治療を施され、何年も管だらけになって生きながらえているのに比べ、「無縁死」の方がよっぽど幸せではないか、と私は思う。


 「周りに迷惑をかけたくない」として一人暮らしを選び、その末に無縁死を迎える、といった人々の気持ちも、よくわかる。「迷惑をかける」ことは、回りに申し訳ないというよりも、自分自身が、そういう状態になるのがイヤなのだ。特に、「あなたのために手助けをしてあげますよ」と、いかにも同情の籠った態度で接しられたりしたら、

「オレの世話なんかしなくていいから、どっか行っちゃってくれ」

 と突き放したくもなる。


 一人で、誰にも気兼ねせずに生きていく快感を知ってしまったら、もう「無縁」でも何でもいいや、という気になる。日本の急速な単身世帯化の要因の一つが、わずらわしい人間関係から解放された喜びをみんなが知ってしまったことにあるといえる。


 「野垂れ死に」って、悪くない死に方ではないか。仮に、好きでもない人間に何年も世話になりつつ、苦しい思いをしてただ生きながらえているより、勝手に一人でポックリ死ねる方がずっといい。


 ただ、恐ろしいのは、脳梗塞など、なかなか死にきれない病気にかかっちゃうことだな。私は「無縁死」なんかよりも何十倍も、この「死にきれない状況」に陥ってしまう方がコワい。


 とにかく、趣旨は賛同できないが、「死」というものをじっくり考えさせてくれるという意味で、この『無縁社会』は、読む価値はある。


  

世界リンチ残酷史

世界リンチ残酷史 (河出文庫)/柳内 伸作
¥767
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こういう本の場合、多くは著者もやや興味本位のスタンスで、いわばいろんな資料からエピソードを集めてみました式の、「刑罰拷問雑学集」になる。

少なくとも、残酷なリンチや刑罰を肯定的にとらえるケースはあまりない。 


ところが、どうもこの本の著者は違う。一歩踏み込んで、「リンチや拷問、刑罰も、あってもいいのではないか」と言いかねない記述が、しばしばみられる。


 たとえばひどく残虐に見える処刑についても、著者はこう語る。


「現代の先進国の処刑に対する制度は、被害者の感情より生きている凶悪犯の命を大切にしているようだが、犯罪人の命を獣と同じレベルで取り扱う考え方のほうが、人類史上はるかに長く支持されてきた」


 まるで、そっちの方が正常じゃないか、といわんばんり。日本伝統の敵討ちについても、


「私なら敵討ちを子供には要求しないが、法を乗り越えても敵討ちをしてくれるなら愛情を感じないわけにはいかない。また、自分の愛する者のためには、法を度外視した正義が存在するのであって、そして事実、正義が行われれば苛烈を極めるのである」


 エピソードとしても、人間を食い殺した豚が人間並みに処刑される話や、死刑囚が縛り首にされた縄や骨などが病気に効く薬になるとして売られた話、生きた人間の各部分を切り取りつつ料理に使った話など、気味悪いながらも興味深い話も少なくない。


 でも、この本に関して言うと、こうした著者の、現代人離れした「リンチ肯定」ともとれるスタンスがなかなか惹きつけられるね。


「反ユダヤ主義からユダヤ人虐殺に至る犯罪もそうだが、現在からありかえれば非人道的と感じる行為であっても、当時はそれが社会常識に反する感情では決してなかったということである」


 なんだか、ユダヤ人組織から抗議されそうな文章だが、私は、全面的に否定する気にはなれない。時代によって、ものの価値観が変わるのは当然で、おそらく200年前のアメリカの白人が黒人奴隷を虐待しても、良心の呵責は感じなかったろう。

 現代人の感覚で、その白人を「ヒドいヤツ」とは攻撃できない。