明治時代の女性の若さと結婚観 ② 令嬢の結婚 | 化粧の日本史ブログ by Yamamura

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◆令嬢の適齢期は10代後半!

 

こんにちは、山村です!

 

今回は、明治時代の「令嬢」の結婚について。

 

男性中心社会の明治・大正時代に

女性の地位は低く、

女に生まれたからには結婚して家を出て、

婚家において良妻賢母となるのが、

あるべき姿とされていました。

 

ちなみに、明治時代の民法では、

女性が結婚できる年齢は15歳かビックリマーク

 

とはいえ農村などでは、女性は貴重な労働力筋肉

小学校卒業後に労働力として働き、

そのあと良縁を探すケースも多く、

結婚が20代なかばになることも、

ままあったようです。

 

そのほかにも、口減らしのために、

都会に働きに行くこともあるなど、

すんなり結婚できるかどうかは、

それぞれの家庭の経済事情が

深く関係していたのですショボーン

 

逆にいえば、

働かなくてよい裕福な家に生まれ、

女学校に通う「令嬢」にとって、

望まれる将来の選択肢は、

結婚しかありませんでした

 

明治後期の女学校は、

だいたい12歳から15、16歳

(卒業時は17歳)までの、

4年か5年が修業年限ビックリマーク

 

黒岩比佐子氏の『明治のお嬢さま』によると、

当時の適齢期は数えで17から19歳ぐらい。

 

セレブが通う女学校の頂点、

華族女学校(明治39年から学習院女子部)では、

生徒は卒業後すぐに結婚するか、

在学中に縁談がまとまり中退→結婚

の道をたどったそうです。

 

明治末期の女性誌には、

皇族女性の写真や、

華族・政財界の大物のファミリー、

あるいは令嬢写真が載っていて、

セレブの生活の一端を見せてくれます。

 

下の写真は、

『婦人世界』明治44年12月号に掲載された、

旧大名家鍋島直彬子爵の養子、

直縄氏(23歳)と政子夫人(17歳)の結婚写真。

 

政子夫人は、長州(現在の山口県)藩主だった

毛利家の一族、毛利元秀子爵の妹。

 

17歳という若さで、

同じ家格の子爵家に嫁いだ彼女は、

令嬢のなかでも勝ち組といえるでしょうクラッカー

 

 

当時の女学校では、

嫁を探す母親や有力者などの

授業参観が認められていました。

 

女学校は嫁候補を見つける場でもあり、

選ばれるかどうかの大きなポイントは容姿だった

と、井上章一氏は『美人論』で述べています。

 

美しい娘から見そめられ、

結婚を理由に退学していく結果、

卒業まで残った女学生は卒業面

(そつぎょうづら)とよばれたとかむかっ

 

女学校を卒業した「令嬢」たちは、

花嫁修業にはげみつつ縁談を待ちます。

 

家に居続けて肩身の狭い思いをするよりはと、

当時の女性がつける数少ない専門職の

小学校教員になったとしても、

そのまま独身だと、

前回の話のように、たとえ「令嬢」でも、

いきつく先は「老嬢」と言われるのですガーン

 

さらに上の女子師範学校や女子大学に行く、

向学心に燃える女性に対しても、

世間の目は厳しいものでした。

 

明治末期の新聞には、

日本女子大学のことを、

「目白の姥捨て山」

(日本女子大は目白にある)と評判だったとか、

女子の高等教育は、

「老嬢を養成するまでだ」

といわれていたなどと書かれていますビックリマーク

 

女性が結婚せずに勉強を続けるのは、

それだけ周囲からのプレッシャーが

強かったということ。

 

「老嬢」と呼ばれてつらい思いをした

明治時代の女性の目に、

平均結婚年齢29.4歳の現代は、

どのように映るのか、

できることなら尋ねてみたいものです。

 

次回は、サントリー美術館で開催中の

「神の宝の玉手箱」展について。

手箱に入っている化粧道具を見てきましたニコニコ

 

6月16日更新予定。