明治時代の女性の若さと結婚観 ① 20代前半で「老嬢(オールドミス)」と言われた時代でした!  | 化粧の日本史ブログ by Yamamura

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◆若さの賞味期限は20歳?「20歳で色香が失せる」と書いた新聞も!

 

こんにちは、山村です!


昔の化粧について調べようと、

100年以上前の新聞や雑誌を読んでいると、

つい別の記事に興味を引かれることが

よくあります。

 

私の場合は、美人についての記事や、

結婚や仕事など、

女性のライフスタイルに関わるものが

多いのですが……ニコニコ

 

今回とりあげる

「老嬢(ろうじょう)」もそのひとつ。

 

今ではまず使わない言葉ですが、

デジタル大辞林でひくと、

意味は皆さんお察しの通り、

「独身のまま婚期を過ぎた女性。

年とった未婚の女性」とあります。

 

この「老嬢」にあてはまるのは、

いったい何歳なのか

というのが、私の頭に浮かんだ疑問でした。

 

そういう視点に立って思い出したのが、

芸妓万龍の結婚騒動をスクープした新聞記事ビックリマーク

 

以前紹介した万龍は、

江戸小唄の「間がいいソング」に

「酒は正宗、芸者は万龍 

唄ははやりの間がいいソング…」

と唄われた売れっ子の有名芸妓キラキラ 

 

芸妓の写真美人コンテストで1位になり、

全国的に絵はがきの写真が出回った

アイドル的存在でしたドキドキ

 

数えの14、5歳と思われる半玉時代の写真には、

少女と大人のはざまで、

ゆらゆら揺れている、

あやうい美しさが漂っています下矢印

 

 

万龍は、明治43年の夏、

箱根の福住楼に滞在中に起こった

水害に巻き込まれ、

その時助けてくれた帝大生と恋に落ちます。

 

結婚したくても、

置屋春本から提示された

身請けの費用は1万円。

その他、引き祝いに5千円が必要と言われ、

帝大生は金策に奔走。

万龍自身も自殺未遂を引き起こします。

 

ふたりが結婚できたのは、

出会って4年後の大正2年のことでした。

 

このてんまつを記事にしたのが、

大正2年3月27日の『東京朝日新聞』。

記事では万龍が結婚を決めた理由について、

 

その身の色香も昔のごとくならず

一二の旦那筋さへ永くは持てじと

心細い矢先なるより、

心から身をまかせる料簡となりしを見て…」

とあります。

 

万龍はこの時、数えで20歳か21歳。

満年齢なら19か20歳。

現代だったら、まさに青春真っ盛りのはずビックリマーク

 

こんな記事が堂々と新聞に

掲載されているのをみると、

大正初期には、

これが世の中の一般的な考えだったのでしょう。


次にあげるのは、

明治45年3月に出版された『若き女の手紙』より、

もう老嬢(オールドミス)株ですわね

からの引用です。

 

「女学校を出てからもう丸三年。

あなたは直ぐお結婚になる。

友達の多くも大抵はおかた付きなすったのに

私ばかり相も変わらず小学教員、

夏休みもこれで三度目ですわ。

 

二十二と云へばもうオールドミス株ですわね

いつまで他人の子供を育てているのかと思ふと、

呪われた運命に思はずほろっとする

ことがありますわ」

 

女学校を卒業して小学校教員歴三年。

友達の結婚を喜びながらも、

独身の自分の境遇をなげく文章は、

読んでいて切なくなってしまいます汗

 

ここでは、

老嬢にオールドミスとルビを振り、

数えの22歳を老嬢株と言っているのです。

 

22歳で老嬢はさすがに早い方ですが、

当時の新聞・雑誌では、

数えの24、25歳を過ぎて独身だったら、

老嬢扱いされてしまっています。

 

20歳で容色が昔のようではないと言われ、

24、5歳で老嬢あつかい……。

当時の人々が考える、

女性の若さの賞味期限は、

ことほど左様に短かいものだったのですガーン

 

続きます。

次回も女性の若さと結婚をテーマに、

令嬢の結婚について。

 

6月11日更新予定。