◆明治末期のNo.1芸妓、芸妓は現在のアイドル的な存在でした!
こんにちは、山村です!
今日は明治時代を代表する美人をご紹介しましょう
まずは下の写真をご覧ください。
彼女の名前は万龍(まんりゅう)。
長谷川晴雨の『近代美人伝』のなかで、
「芍薬(しゃくやく)の中の類稀(たぐいまれ)な絶品」と、
たたえられた美人芸妓(げいぎ=芸者)です
明治27年(1897)生まれの万龍は、
明治40年、数えの14歳の時に、
赤坂の置屋春本でお披露目をしました。
写真は、芸妓見習いの半玉(はんぎょく)時代。
おそらく、数えの14、5歳の時に撮られた、
写真の絵はがきです。
肩揚げをした子どものような着こなし、
刺しゅう入りの半襟、花飾りのついた櫛、
小犬を抱いたポーズなど、
全身で半玉ならではの可愛さを強調しています
明治時代になると写真の時代がやってきます。
うりざね顔に細い目、おちょぼ口といった、
様式化された浮世絵美人の時代は終わり、
四角い写真に切り取られたリアルな美人が、
メディアを介して人々の注目を浴びるようになるのです
写真の大衆化が進むにつれ、
人々の興味の的になったのはやっぱり「美人」
明治なかばには、
写真による美人コンテストがはじまります
その対象は、最初は芸妓でした。
宴席にはべり、
美しさや芸を売り物にする芸妓は、
顔と名前を売るのも仕事のうち
その姿が写真として
世間に公開されることに対しても、
一般人のような抵抗感は少なかったのでしょう。
明治24年、
東京浅草にあった十二階建ての凌雲閣で、
客寄せのためにおこなわれた
「凌雲閣百美人」コンテストが、
写真による美人コンテストのはじまりといわれています。
この3年後に生まれた万龍は、
明治40年(1908)11月に
月刊誌『文芸倶楽部』が主催した、
美人芸妓の人気投票にエントリーされています。
3千枚の応募写真から選ばれた
100人の写真を付録につけて、
翌年に読者投票で順位を決めたのですが、
ここで見事1位に選ばれました
当時は、写真の絵はがきが大ブームで、
とりわけ美人芸妓の写真は大人気
そのなかでも
「万龍のように売れた美人はない」
といわれたほど人気の芸妓で、
多くの絵はがきのモデルになっています。
性格はおっとりして、
お客に合わせて話ができる
話術の巧みさがあったそうです。
万龍は絵はがき以外にも、
花王の前身・長瀬商店の
「花王石鹸」や化粧水の「二八水」、
三越呉服店、カブトビールのポスターなど、
企業の広告モデルに採用されました
写真時代の到来を背景に、
明治末期には、
リアルな女性モデルが求められるようになったのです。
切れ長の二重まぶたに自然な太い眉、
ぽっちゃりした顔立ち……。
姿は和風ですが、
今の基準でも十分通用する美人といえるでしょう
うりざね顔の浮世絵美人から
健康的な近代美人へ。
明治維新以降、
一気に流入した西洋文化の影響を受けて、
美人の基準も少しずつ変わっていきますが、
写真によって、
具体的な美人像が提示されたことは、
その後の美人の系譜をたどる上で、
大きな意味がありました。
次回も美人芸妓について、続きます。
5月26日更新予定。