生きているうちにしかできないことがある。
いや、生きているからこそ出来ることがある。
自分で自分の声を聞くこと。
ただ、自分の声を聞くこと、
自分を大切にすること、という言葉でも
どうやら周りとは
その意味が違うみたいだな…と
なんとなく感じていました(^◇^;)
今日、それがなんだったのか見えてきました。
監督する者の立ち位置としては、
相手に自分の声を確認してもらい、
自律を促すこと。
自分の体の声は、自分しか聞いてあげることができない。
熱い、痛い、
苦しい、悲しい
気持ちいい、嬉しい
快、不快、好き、嫌い
何事も熱ければ良いというものではないし、
ぬるければいいものでもない。
ただ今の自分にこれが合っている、もしくは好きだから、といって
それを押し付けるのも違う。
全ての判断は、大人になれば結局自分で判断と選択をしなければならなくなるから、
判断力を育むことは大切なこと。
知らない世界を知ろうとする意識は、
大事なことだった。
これを知覚というのだろうか。
それがその世界を知らない"子ども"であれば尚更、その世界の"親(監督者)"の責任というのは強くあるものだ、
と確信しました。
その世界が
初めての方=赤ちゃん、子ども
と、慣れてきた方=学生さん、では
対応も違うし、付き合い方も変わってくる
ベテランさん=自立した方
とも違う。
その日の身体の状態とバランスを確認し、
補うための時間、自律を高めるなのだろうなと。
自分の体の監督は自分でなければならない
その世界の監督は、自分の体を自律できているものでなければ
生きているうちにしか使うことのできない、正しい判断力を育むことができない。
何が正解か分からない、
救いを求めてそこへ来る方もいるのかもしれないけれど
だからこそ、正しい道を示してあげなければならない。
私たち人間は「生きた肉体を持っている」
からこそ、
「生きた脳を持っている」
からこそ、
できることがあって、やれることがあって
やらなければならないことがある。
病気だから仕方ない、
そういう人たちが来る場所だから仕方ない、
そうやって諦めるのではなくて
私たちはここにいる以上
肉体を持って生きているのだから
優しくするだけが愛ではないのだから。
その道具を通し、対話を通し、
迷っている人の道を案内して
行くべきところへ案内する
本来あるべき場所へ戻す
そんなことが大切なのではないかと感じる
厳しさが必要な時代、
厳しさが愛となる時代もある。
みんなに同じ対応をすることが大切なのではなくて、ひとりひとりの状態に適した対応をする力が大切なのではないか。
それが、多様性を尊重するということなのではないかなと思う。
取り返すことが出来なくなってからでは遅いのだから、厳しいと感じられても仕方ないけれど、ときに、相手にとって厳しくしないといけない時もある。
本気で相手と向き合っているなら、尚更。
自分の嫌だ、をきちんと伝えられることは
正常で、一人の人として向き合えていること。
生きているからこそできること、
自分で自分の声を聞くこと。
自分の中心へ戻すこと。
自分で自分の声を体に反映させること。
そうやって体を動かすこと。
自分の体は、自分の魂の器。
もっと欲しい、はキリがない。
痩せていればいいわけでもない。
熱ければいいわけでもない。
ぬるければいいわけでもない。
人がいいというからいいわけでもない。
人の中にいる時こそ、
自分を冷静に見ることは大事だと思う。
自分の丁度いい、
その感覚を知っておくことが大事。