人間の行動を簡略化して図式的に説明すれば、

外界からの情報を受け止める感覚器官と、外界に働きかける行動器官があり、
その感覚器官と行動器官の間には心があって、行動に指針を与え制御しています。
つまり、心では何をするかを決め、行動器官で行動し、行動しながら感覚器官で情報を受け止め、
また心でどう行動するかを決定します。それを繰り返しながら行動しています。


しかし、それだけでは自分一人の世界でしかありません。
そこに言葉が加わることによって、人間は他人との繋がりが生まれ、社会を作ることができます。

自分の心で判断できないときには、例えば「明日の天気予報は晴れでしたか」などと、誰か(他人)に聞きます。
自分の心に代わって誰かが判断をしてくれます。

 

自分の行動器官で行動できないときは、例えば「お風呂にお湯を張っておいて」などと、
夕食の支度で忙しい妻が言います。
命令を受けた私が、妻に代わってお風呂にお湯を張る行動をします。

このようにして、言葉を使うことによって、本来自分がすることを他人に代わってもらえます。
言葉を使うことで、本来自分がしなければならない目的が、自分を離れて、
人々の間を移動してゆきます。

 

毎日毎日人々は、言葉を使ってコミュニケーションしています。
ある人は、商品を仕入れるため電話で話し、ある人は、恋人にプロポーズするためメールします。
またある人は、航空機の安全を守るために、言葉を使って管制します。
そしてマスコミは世界の出来事を言葉で報道し、国は国民の権利・義務を言葉で制定します。
このようにして、自分を離れた目的は世界を駆け巡るのです。

 

この記事は2005.11.25.に書いた記事ですが、若干訂正して再投稿したものです。

 

「これは赤い」と言うとき、何を意味しているのでしょう。

その言葉を聞けば、大方の人はその意味を即座に理解できます。

それはどうしてなのでしょう。


そのことを理解するのに最もよい例が、比較するものがない状態を考えてみることです。
例えばこの世界がすべて赤い色で出来ていたとすればどうでしょう。
「赤い」ということは認識できるでしょうか。

 

「これは赤い」ということに意味があるでしょうか。
おそらく赤い色は認識できないし「赤い」という言葉も意味がないでしょう。

こういう言い方をすると「赤い色は存在しない」と言っているように受けとる人があります。

しかし、そうではなく、

比較するものが無かったら、という仮定のもとで存在しないと言っているもので、
現実には比較するものがあるので赤い色は存在しています。

「これは赤い」という言葉の意味は、

赤でない色も知っており、それと区別が出来ているということで、

しっかり「赤い」と理解していることです。

このようにこの世界はすべて何かと比較されて存在しているのです。

すなわち、相対的に存在しているということです。
比較するものがあって初めて存在するのです。

 

この記事は2006.6.に投稿したものですが、加筆訂正して再度投稿したものです。

 

こころは寂しがり屋で、ひとりが苦手です。
ひとりになると、ものごとを悪く考えてしまいます。
だからこころには仲間が必要なのです。

他人のこころは見えません。
他人のこころは言葉として表され、その言葉でこころをみます。
だから、自分を知ってほしいのであれば、言葉で表す必要があります。

黙っていたために誤解されたことありませんか。
黙っていなくてもぞんざいな言葉で誤解されたことありませんか。
だから丁寧に言葉でこころを表現しましょう。

 

この記事は2006.7.22.投稿したものを再投稿したものです。

どう読み返してみても、自分に言い聞かせている文章に思います。

それでは・・・。

 


ジェットコースターは「信じる」ことができれば乗れます。

ジェットコースターに乗るのは非常に勇気がいると思っている人が多いようで、

「とても私は乗れない」と思っている人もいるようです。

しかし、これからの話を理解出来たら、きっと乗れるようになれます。


一般的に男性は女性より勇気があるように思われていますが、
しかし、ジェットコースターに乗ってキャーキャー騒いでいるのは、
女性が多いように思いうのですが、どうしてでしょうか。

私もジェットコースターに乗ったことがあります。

恐くないわけがありません。
必死で足を踏ん張り、腕で体勢を立て直そうとするのですが、どうにもなりません。

ジェットコースターは自分で何とかできるものではないのですね。
女性はジェットコースターの性能を信じて身を任せているのだと思います。
だからジェットコースターを楽しむことができるのだと思います。


性能を信ずることができるということは、

ジェットコースターを設計した人、作った人、運転する人を信じているということです。

ジェットコースターは「信じて」身を任せるしかないようです。

自分に自信があればあるほど、他人が信じられなくなるもので、
自分の力で何とかしようとするものですが、

ときには他人を信じて身を任すことも必要なようです。

これは何も女性に限ったことではなく、男性でも同じことです。

ジェットコースターを信じるときのように、
成り行きに身を任せてみると、不安も小さくなると思います。

 

この記事は2005/8/8に投稿したものを加筆・訂正して再投稿したものです。

もし「福山雅治を見た」と聞いたら、何と思いますか。
多分、どこかの街角で福山雅治を見かけたのだろうと思いますね。
まさか雑誌のグラビアで見た、とかテレビで見たとは思いません。
どうして「街角」なんでしょう。

街角で見たということは、直接目で福山雅治を見たということですが、
グラビアやテレビで見たのは、見たことにはならないのでしょうか。
直接目で見たものは「見た」、直接でなかったら「見た事にはならない」のですね。

それならメガネを掛けていたらどうでしょう。これはまだ「直接」でしょうね。
それでは顕微鏡や望遠鏡はどうでしょう。メガネより多少度が強いだけで、やっぱり「直接」でしょうか。
電子顕微鏡はどうなるでしょうね。光の変わりに電子線を使っていますが、
電子線は人間には見えないので、電子線に感応するフイルムなどに感光して、それを見るのです。

ノーベル賞を受賞した小柴先生が造ったカミオカンデは、素粒子のニュートリノを見る装置だそうですが、
ニュートリノというのはとりあえず小さなもので、もちろん目に見える訳がなく、
ニュートリノが水中を通過するときに電子と衝突して、

その電子が発する光の軌跡を読んで、ニュートリノの軌跡を推測するのだそうです。


これら電子顕微鏡やカミオカンデで見たものは、一体何なのでしょうか。
グラビアやテレビで見た福山雅治と同じで、見た事にはならないのでしょうか。
一体「見た」とはどういうことなのでしょうね?

 

この記事は2006.5.23.に書いたものを、追加・訂正して投稿しました。

知っていることでも、自分で確認したことと、誰かに聞いたことの二種類があります。

その一つ、親や学校の先生などから教えられたり、
本を読んだり、インターネットなどで学習して知っていることですが、


親にしても学校の先生にしても、本を書いた著者にしても、

たいていは自分よりは偉い人であり、「偉い人の言う事であるから間違いはない」と、
そのまま間違いの無いものとして受け入れることが多いのです。
「どうしてそうなの」と聞かれて「誰それが言っていた」と偉い人の名前を出すと、

たいていは納得してもらえます。

しかし、それでは自分の考えというものが何処にもないことになります。
たとえ偉い人の考えに賛成でも、自分なりに納得して、賛成しないと自分の物にならない。
科学者などの偉い人は、我々凡人などがとても敵うものではありませんが、
それでも、自分で確かめることも大切と思います。

人間生まれたときは丸裸です。脳も白紙の状態です。
そこへ知識を蓄え、考える能力も習得してゆきます。
学んで得た知識は、自分の考えの土台になっています。
学んだ知識を土台にして、それを出発点にして、自分の考えを積み上げる、

それで自分の考えというものが出来上がってくるのではないかと思う。

私の知り合いに、本ばかりを読んでいて、その読んだ本の記事などを、

「誰それがこう言っていた」とか、よく紹介されているのですが、
「あなたのご意見は・・・」と聞いても、はっきり答えられない人がいます。
知っている他人の知識の上に、考えた自分の意見を積み上げて、

自分の考えを持つようにしたいものです。

 

この記事は2006.3.31.に投稿したものに加筆・訂正して再投稿したものです。

昨年末ごろからスポーツジムに通い始めました。

ジムに通い始めた理由は、糖尿病にならないためで、

医師のすすめもあって通い始めました。

 

食べ物は何とかこれまでの習慣を変えることができますが、

身体を動かす、スポーツらしいものは何もしてなかったので、

家でストレッチとも思いましたが、家ではだらだらと成果が期待できず、

ジムへ行くことにしました。

 

血圧の高い方が160以上あるときはジムはできないのですが、

幸い、ジムができないほどの血圧にはならずに続けています。

 

ジムに行くのは初めてなのですが、初めてのジムの印象は「孤独なスポーツ」です。

例えば、自転車にしても風を切って景色を眺めて走るのが自然ですが、

ジムでは器械を眺めての運動です。

だからなんですね。前にテレビがついています。

余裕が出て来たらそれを見ながら走るという仕組みになっているようです。

 

それでも少し成果は出てきていて、足などはかなりしっかりしてきました。

今は無理をせずに「しんどい」と思ったら休憩して、

一回30分くらいで引き上げてきています。

それでもあくる日には身が入って疲れていますね。

 

糖尿用の薬が必要なくなるまでは頑張ります。

私は記憶力が悪いことでは、ちょっとばかり自信があります。
何か買い物に出たとします。きっちり一つは買うものを忘れてきますし、
ひどいときは、買い物そのものを忘れて帰ってきます。
年のせいではありません。若いときからそうだったのです。

記憶力が悪いと、現代のような受験社会では、あまりよいことはなさそうですが、
この忘れるということは、非常に優れていることなのです。
人間は生まれてから毎日毎日どれほどのことを記憶していることでしょう。
これらすべてを忘れることなく記憶していたら、頭の中は混乱してしまいます。
古い記憶は古いように、大切な記憶は大切さに応じて、
記憶が鮮明であったり、曖昧であったりしているから、頭の中は混乱しないのではと思っています。
実際には記憶自体は鮮明でも曖昧でもなく保存されているようですが、
今必要なものだけが、その度合いに応じて意識に上るようになっているから、
つまり、必要のないものは忘れていられるから、人間の頭は混乱しないのです。

ところが、この記憶が忘れられないで困っている人がいます。
その人というのはロボットのことです。
つまり、ロボットに組み込まれたコンピューターということになりますが、
そのコンピューターは記憶を忘れることなど絶対にありません。
だから、何か判断をするにも、いちいち記憶している内容をすべて繰らなければなりません。
今のところロボットはおもちゃの段階に止まっており、

記憶の内容も少なく、すべてを繰ったとしてもたいしたことはありませんが、

将来ロボットが人間と同じレベルになろうとするなら、膨大な量の記憶が必要になります。
その膨大な量の記憶を、その都度繰っていたら、大変無駄なことになり、
また、即座に反応ができなくなります。これがロボットにとって大きな問題なのです。

 

この記事は2005.7.17.に投稿したものです。

くしくも、一月十七日は神戸・淡路大地震の起きた日で、

毎年、この日の前後になると「記憶を風化させないため」とかで盛んに放映されています。

それとこの記事とを比べることはないのですが、思い出してしまいました。

この「風化させない」という言葉ですが、人の心の中とか、社会の視線とか、そうしたものを指しているのだと思いますが、

今日では、地震の時の映像であるとか、そのときの記録は行政その他の機関で保存はされていると思うし、

被災した人の心理の変化など、その他思いは日記などの文章にされて残っているので、簡単には風化はしないと思う。

私はどちらかというと過ぎ去ったことは気にせずに、前に進むことを考える個性ですので、

忘れないようにするのは、キャッシュカードの暗証番号くらいです。(笑い)

その他は成り行き次第というか、「覚えなくては」という強い意識はないようです。

 

みんなと一緒でないと仲間はずれになったような気になる。

人と違うということは、人にはない個性を持っているということ。
その個性を活かさない理由はないと思う。
その個性は短所でもあるけど、長所でもある。
それは持って生まれたそのままの姿を示せばよいことなのだ。
それほど楽なことはない。

 

最初は違和感があっても、その個性がみんなに認められるようになる。
「あの人はああいう人だ」と軽く受け止められるくらいで、決して憎まれることはない。
これが一番楽な生き方だ。
神から与えられた個性そのままで生きるのだから。
気楽に生きることにしよう。

 

この記事は2005.12.29.に投稿した記事を追加・訂正して再投稿したものです。

 

 

 

空よ 水色の空よ 雲の上に 夢を乗せて
空よ 私の心よ 思い出すの 幼い日を
  ■ふるさとの 野山で
  ■始めて芽生えた 
  ■あどけない二人の 小さな愛
空よ 教えて欲しいの
あの子は今 どこに居るの

  ■ふるさとの 野道で
  ■堅く 手を握った
  ■あの頃の二人の 小さな小さな愛
空よ 教えて欲しいの あの子は今 どこに居るの
どこに居るの どこに居るの