人間の心というのはつかみ所がなく、一口で心と言ってもいろいろの状態があります。
一般的には記憶機能とか論理機能も心の働きとしますが、
ここでは行動に直接結びつく判断機能を取り上げることとします。

1、事実判断 
  「正しい」「間違い」「等しい」「異なる」などという判断をする。

2、価値判断 
  「良い」「悪い」「好き」「嫌い」などの判断をする。

3、感情 
  「おいしい」「まずい」「怖い」「悲しい」「寂しい」「苦しい」「惜しむ」「怒る」「憎い」
  「喜ぶ」「楽しい」「驚く」「痛い」「暑い」「美しい」などという判断をする。

4、信疑
  「信ずる」「疑う」などという判断をする。

5、賭け 
  「困る」「悩む」「迷う」などいう心の状態から脱却するために、
  「賭ける」「懸ける」などという判断をする。

6、欲望 
  「欲しい」「望む」「願う」などという判断をする。

7、自我 
  「誇る」「ぐれる」「恥じる」「照れる」などという判断をする。

8、祈り
  「祈る」「念ずる」「崇める」などという判断をする。

以上8つが心の主な働きです。他には現在のところ見つかっていません。

「正しい」という言葉を価値判断にも使われることがありますが、
価値判断は絶対的判断ではなく、「正しい」と言えることはありませんので、その用法は間違いです。

 

(この記事は2006.1.22.に投稿したものですが、若干訂正して再投稿したものです。)

 

この頃はね雨の日が増えてきて、

空が暗くて時間の感覚がくるってきますね。

その上、コロナですからね。

生活パターンもくるってきます。

 

家にいる時間が多くなり、

暇つぶしに寝たりしますと、

さらに生活パターンがくるってきます。

今日は七時ごろに目が覚めて、

「朝だ」と思っていたら夜だったのです。

 

この頃は、日が長くて七時でも明るいのです。

それで勘違い。

 

年寄りはつらいよ。

最近思うのですが、

パソコンの初期設定のところで、

パソコン使用者の性格を入力できたらいいのにと思う。

 

パソコンを開いたとき、瞬間的になにか表示がでることがよくありますが、

私が読み切らない内に消えてしまうのです。

使用者の性格「①愚図タイプ」「②せっかちタイプ」とか。

私はもちろん①の「愚図タイプ」です。

 

年寄りはつらいよ。

現在の哲学で一番の問題といってもよいものに「心身問題」というのがあります。
心と身、心と物の関係についての問題ですが、
心のありかを問う問題といってもよいと思います。

科学は「物」については解らないところがないと言ってよいほど解明されていますし、
「身」についてもかなりのことが解ってきていますが、
「心」との関係はまだまだ解らないことが多いのです。
景色を眺めている人の、脳を開いて観察した事実と、
その人が今ありありと見ている景色の感覚(クオリア)をどう関係付けるか、
この難問には全く答えられていないのです。

人間の感覚器官は身体の外に向いています。
外の景色を眺めたり、音楽を聴いたり、臭いを嗅いだり、
すべて外からの情報を受け止めているものです。
そして「心」では、
美しい景色が見え、楽しい音楽が聴こえ、不快な臭いが感じられているのです。
これがクオリアでそれを自分の心として感じているのですが、
それは外界を観察して得た結果です。


観察することとその結果を無理やり分けると、
その結果がクオリアとなるのですが、本来観察と結果は分けられません。
となると、いかなる方法を取ってみてもクオリアを観察することは不可能だということになります。
景色を見ている人の脳を観察しても、景色のクオリアは見えません。
なぜなら脳を見ているのであり、景色を見ているのではないからです。

それでは心のありかを知るのに、どんな方法があるのでしょうか。
結論は、ほかに確認する方法は、人間には与えられていません。
論理による推理は経験を超えることはできないのです。
 

この記事は2005.08.05.に投稿したものです。

 

「悟ったようなことを言っていてはダメ」と最近よく言われるのですが、
私は悟っているつもりはないのです。
許容できる範囲が広いだけで、許して受け入れているのとは少し違います。
「許容」という字から判断すると同じように見えますが、許しているつもりはないのです。
「許す」というのは言わば上から目線で、本来ならダメだけれども、大目に見るという態度です。

そうではなくて、自分の悪いところが見えてくると、
相手の良いところが見えてきて、ウラヤマシクなることが増えてきたのです。
相手のちっょと意外な言動も、「そういう手があったか」と学びに変わったりします。

相手が異物が付いたお皿を出してきても、
そのお皿に付いた異物を、ティッシュで拭いて使います。失敗とは思ってないのです。
レストランで出てきたお皿ならウチのカミさんは店員さんにお皿を変えてもらいますが、

それよりお皿をティッシュで拭くほうが簡単です。ズボラな私には・・・。

ここで「相手」と言っているのは、たいていウチのカミさんのことですが、
「心が広い」なんてカッコいいこと言っても、要するに私はズボラなんです。

 

この記事は2016.01.09.に投稿した記事で、加筆訂正して再投稿したものです。

世の中にはいろんな職業があり、いろいろの人が働いています。
そして、一般的には社長さんや代議士や大学教授などは偉くて、
一般社員などの方々は下っ端なのです。

しかし、世の中は社長や代議士や大学教授だけでは成り立たないのです。
リーダーばかりでは会社は上手く行かないもので、
リーダーの指示を実行する下っ端がいてこそ会社は成り立っています。
また、人が嫌う仕事でもプライドなど気にせずにできる人がなくては社会は動きません。


物理学者のアインシュタインも研究室の他の研究者の協力があって
優れた論文が書けたのでしょうし、料理を作ってくれる人のおかげで
研究の力も湧いて来たのでしょうし、

その他いろいろアインシュタインの支えになった人は沢山いたと思います。

アインシュタインの相対性理論もそうした支えになった人と共に作られたものです。
理論はアインシュタインのものだけではないのです。みんなで作り上げたものです。
みんな必要な人で誰が一番かなんてことは考えなくても
出来上がったものは世界の財産になるのです。
 

この記事は2015.08.15.に投稿したものを加筆訂正して再投稿したものです。

「できるだけ迷惑をかけあいましょう」

こういうタイトルをつけると批判的なご意見をいただきますが、

その方が同じことを違った角度から見ていただけるので、

私はよく使ったりしますが、それが元で印象を悪くしているようです。

それでもあえて使うところが、私の頑固さかもしれません。

 

できるだけ迷惑は掛けたくありませんね。
なぜなら、迷惑を掛けたら謝らなければならないし、プライドが許しません。
できたら誰の世話にもならずに生きたいですね。
なぜなら、世話になったら負い目ができますし、その人には頭が上がらなくなります。
そう思うことありませんか。残念ながら私はよくあります。

しかし、迷惑も掛けずに、世話にもならずに生きるなんてことできるでしょうか。
現代社会は貨幣が間にあり間接的ですので、世話になったという意識がわきませんが、
毎日事務をしているだけで、何でも手に入るのは、多くの人に世話になっているからです。
完全な人間はいませんから、どこかで迷惑もかけるものです。
それはみんなそうなのです。

だから遠慮は必要ありません。できるだけ迷惑を掛けあいましょう。
できるだけ世話になりましょう。
そして迷惑をかけたら「ごめんなさい」、
世話になったら「ありがとう」をわすれないことです。

 

最近、それを忘れていることに気付き、改めるようにしていますが、
そうは言っても中々できるものではありません。
それを邪魔しているのが「プライド」です。
プライドは生きてゆくうえでは大切なものですが、
強すぎると、謝罪や感謝の気持ちまで駆逐してしまいます。
気をつけたいものです。

 

この記事は2005.10.04.に投稿したものですが、加筆訂正して再投稿してものです。

 

恐怖や不安というと、普通は外の世界から来るものです。

幽霊もそうですし最近の台風も恐怖ですね。

今、日本を襲っている新型コロナウイルスも不安です。

みんな外の世界から来るものです。

 

しかし、ここで書こうとしているのは自分自身の心から生まれてくるものです。

端的に言えば生きることへの不安であり、死ぬことへの恐怖です。

 

思春期を迎えるころに、人は誰でも「自我」に目覚めます。
日常生活に紛れていると、自分も他人と同列に並べてみていますが、
或る日突然、この世界の中で体の内側から見ている人間は、自分だけであることに気づきます。
まさに世界の中心は自分にあり、自分はこの世界の中で一人であることに気づきます。
そしてここに存在することの意味を問い、この世界が何であるかを問いはじめるのです。

自分が生まれたとき、自分には何の「力」もなく、すべては母親の手の中にありました。
生まれたときは感覚器官で感じられる範囲が世界のすべてであり、
「時間」の感覚はなく、只今現在があるのみでした。
それが成長するにつれて、自分に「力」ができてきて、その「力」で何かができるようになります。
そしてその「力」で欲望を満たすことができることを知ります。
「明日はあれをしよう」と希望が生まれ、「時間」の感覚が生まれてくるのです。

「時間」の感覚が生まれたことによって、自分には未来があることを知り、
その未来に希望を抱き、夢を描くが、同時にやがて死に至ることも知るのです。
希望や夢、そしてそれを可能にしている身体が、死によって失われることへの恐怖と不安が、
自分の目の前に現れてくるのです。

自分が成長することによって現れてきた「力」「時間」「自我」が、哲学的疑問の起源です。
哲学はあくまでも自分の「力」でその疑問を解こうとしますが、
宗教は、その疑問の起源・原因になっている「力」や「自我」を取り除くことにより、
疑問自体を解消しようとするものです。

どちらの道を選ぶか、もっと違った道へ進む人もあるでしょう。

それは人それぞれです。
 

 

この記事は2005.10.05.に書いたもので、加筆訂正して再投稿したものです。

「本音で話そう」などとよく言いますが、「本音」って何でしょう。
何かに対して思う気持ちは、一つとは限りませんね。
むしろ複数の気持ちを持つことの方が多いと思います。

例えば、子供がお菓子を持っていて、友達に「お菓子、欲しい」と言われたとします。
お菓子を持っている子供は「お菓子が減る」とも思いますが、
「友達だし、お菓子、あげたい」とも思うと思います。
そして両方を天秤にかけて重い方を行動に移します。

別の例をあげましょう。
一生のうちには「あんなやつ殺してやりたい」と思うこともあると思いますが、
「殺したら警察に捕まる」と思って、たいていの人はそんなことはしません。
天秤にかけたら、捕まりたくないと判断するでしょう。

よくある例で言えば、
人と話をしていて、相手の話に「同意できない」ときなどでも、
「相手と仲違いしたくない」と思って、相手の話に合わせることがあります。
やはり天秤にかけて、仲違いしない方を選んだのでしょう。

これら三つの例の「 」で囲った気持ちの、どれが本音でしょうか。
私は、天秤をかけて重い方、行動に移した方が本音だと思いたいのですが、
一般的にはそうでもなさそうですね。

 

一般的には、「本音」というのは心の奥にしまってあって、

言葉として出てくるのは建前という事になっているように思います。

世間に気を使って「本音」が言えない、生きて行くのはシンドイというのが相場です。


私の考え方では「本音」にはならないですね。「本音」って何なんでしょうか。

 

この記事は2005.8.30.に投稿したものを再投稿したものです。

 

現在自分が知っていることの中で、一番多くの部分を占めているのは、
親や学校の先生やマスコミなどを通じて、教えられて知っていることです。
書物などから学習して教わったことも、インターネットなどから教わったことなどもです。
そしてそれらから取捨選択して信じて、自分の知識としています。

 

例えば、物理学のいろいろな法則や、歴史上のいろいろの出来事、
すべて自分では確認していないのに、自分は知っています。
また私は、この日本の国から出たことがないのに、世界の国のいろいろのことを知っています。
これらは誰かに教わって、知っていることです。

 

教わったことにしても、学習したことにしても、疑えば疑えるのですが、
どういう訳か、たいていのことはそのまま信じているのです。

このように改めてみてみると、自分で直接確認して知っていることは、

ごく僅かであることが分かります。

 

人間社会というのは如何に信頼関係で成り立っているかが分かります。
人を信じられなければ、自分が今持っている知識は崩壊してしまいます。
よく「人が信じられない」などという人がいますが、
本当に人が信じられないなら、自分自身も成り立たないと思います。

信じられないのは極一部の人のはずです。

 

知識は信頼の上にあります。もしそれらがそれらが信じられなくなったとき、

頼れるものは何なのでしょう。

 

この記事は 2005/12/27、に投稿したものですが、加筆訂正して再投稿したものです。