投票率向上が民主主義の向上とは限らず/縄文人に民主主義のヒントが

(最終改訂 2022/8/4  17:42)

 扇動で感情や思考を操作された人は道理として(法的なことは別として)「主権者」とは言えないとするなら、その人が投票しても(道理として)民主主義とはなりません。民主主義(国民主権)の成立には、選挙の投票以前に扇動で操作されない理性、知性がまず必須、大前提であるということです。それがないとただ投票率を上げても、操作されやすい人が多数派の集団では全体主義を招くだけとなります。扇動自体が全体主義の現れ(個の否定)で、そのようなことをする候補や政党は全体主義を志向しているため、そこへの投票は全体主義に繋がるということです。
 (「ナチスは民主主義から生まれた」と言われますが、この考え方によればそもそも民主主義は成立していなかった可能性があります。主権者たり得ない人による投票は「形だけ」の民主主義であり民主主義とは言えないでしょう。法的にではなく道理としてです。もう一つ、「操作されやすい人が多数派の集団」という考え方の必要性です。人類皆同じではなく、遺伝的に傾向が異なる地域集団があるという現実を直視しないと悲劇が起こるということです。北欧の真似を日本で行っても同じにはなりません(後述するように、「自由主義=非民主主義の担い手と考えられるY染色体ハプログループKの系統」ではない人々、つまり民主主義を担い得る人々がいくらか残っている点は日本と北欧は共通していますが、北欧では系統だけで見ても半分近く残っているのに対して、日本では系統だけで見てもKの系統であるOの系統の人々がはっきり過半数となっており全体として自由主義化=非民主主義化しています)。今で言えば、特にマイナンバー関係のデジタル化は、現状で自由主義が顕著になっている日本においては、搾取の強化は必ず起こり、自由主義の無責任さから、システムの不備不具合それに対する備えの不備による安全上の支障、不正の拡大が起こるでしょう。搾取とは一方的に奪うもの、高福祉高負担の「負担」は民主主義の納得=社会を共有し責任を共有することを実感できる国民性の上にあります。)。
 誹謗中傷も、愛国教育、道徳教育も扇動の可能性がありますが、これらは分かりやすい類の扇動で、実際はもっと巧妙かもしれません。例えば、「古い政治(は悪)」というレッテル貼り(決めつけ)も明らかな扇動です(誹謗中傷に近い)。物事が因果関係の連続で起こることを無視し、特定の人や事が全て「悪い」と決めつけるのは自由主義の責任転嫁そのもので、現状への不満を刺激し特定のものと関連づけ、加罰感情を煽るメッセージです(漠然としていて根拠がわからないのに「そうだそうだ」と思わせそうな内容ですよね。「漠然」はテクニックとも言えます。真偽不明性も扇動の要素だからです。真偽不明ゆえに惹きつけられるということに、そして信じる人信じない人の分断、つまり破壊を生みます。2020年アメリカ大統領選挙が典型例で、「選挙が奪われた」という真偽不明が議事堂襲撃まで起こしました。)。確かこれを掲げた政党がありましたが、この政党の昨年の選挙での政策提言を見た時、多くの項目が全体主義に繋がっていることが理解できました。見てもいない人、見ても全体主義に繋がっているのが理解できない人も多いかもしれません。
 国家が愛国教育、道徳教育を始めてしまったら、国家の圧力に反抗するのは困難かもしれません。その状態は既に全体主義に入っており、そうなってしまってからではほぼ手遅れです。不安や恐怖に囚われやすい人が多い集団では、扇動は不安や恐怖を巧みに煽るものなので扇動で操作されてしまうか、たとえ疑問に思っても怖くて言い出せず全体主義を追認してしまいます。
 自由主義が強まるのは全体主義の予備段階です。選挙で自由主義の政党の躍進に協力したということは、自由主義の自己責任(騙されたほうが悪い)を認めるということになり、自由主義の勢力は堂々と嘘をつくようになります。そんなことを認めた覚えがなくても、自由主義を増長させるとはそういうことで、自由主義の本質の一つ「責任転嫁」は他者に向けた「自己責任」と同じになるわけです。つまり、騙す政治に国民自らお墨付きを与えてしまっているということになり、自由主義が躍進する今の日本の状況はその傾向があると言えます。そして、自由主義の勢力が憲法を変えることにとても熱心なのは、全体主義の方向に不可逆的に国を変えていく、自由主義へのブレーキを壊し、民主主義を壊していく目論見があるということだと思います。教育無償化は自由主義の手にかかると教育への介入の口実になるかもしれませんし(全体主義化)、ベーシックインカムや税のフラット化は、一見すると平等でも、フラットな制度は競争を邪魔しない(格差是正機能がない)ため資本主義を強め格差は拡大しますし、ベーシックインカムは「生かさず殺さず」支配するツールにもなります。消費税も同じで、上げても下げてもそれだけでは格差を拡大します。経済の独裁と政治の独裁は手を取り合うというわけです(後述)。
 自由主義がどうとか、そんなことより税の負担感など目の前の実利であったり、不祥事への加罰意識であったり、候補者の個人的魅力であったり、実際の投票先を決める要素は多々あると言われそうですが、自由主義への着目は日本人では重要です。
 後述するように「抑制的な自由主義」は必要で、必要悪と言っても良いですが、自由主義に傾き過剰になっていくことは全体主義に近づくことを意味し危険です。自由主義自体に無責任の要素があり、全体主義とはその化け物で、生活も生存も脅かされることになります。自由主義に傾きやすい集団では(日本人は遺伝的な多数派の性質により、そういう集団だと思います)、自由主義を抑制することが最も最優先な視点だと私は思います。

 


 自由主義と全体主義の本質は何か、いくつか言及したので、ここでまず概略を書いておこうと思います。仏教で三毒と言われる貪瞋痴(とんじんち、貪る・憎悪・妄想と無知で愚か)ととても似ています。
 「過剰な不安や恐怖心」が自由主義、全体主義の全てのもとで、イライラや恐怖が根底にあり、そこから逃れようと、すがって依存したり、責任転嫁して他者を激しく攻撃したりします。責任転嫁は「決めつけ(レッテル)」により起こり、因果関係の連続である現実を無視した「偏見による不寛容な攻撃」を導きます。不寛容さ、それによって他者の自由を奪う点は一貫しています。また、「尽きない不安」は「尽きない不満」となり飽くなき利益の追求(資本主義に)、飽くなき領土の追求、潔癖さ、過剰さに繋がります。そんなことで他国を侵略し、町を破壊し、人々の命を奪っているのです。全体主義を自由主義の極端な姿として自由主義の一つと考えてよいと思います。自由主義、全体主義の本質、特徴は、
①不寛容(以下全てに共通)
縄張りを作って生活する生き物の特性を過剰にしたような、同類他者を不寛容に攻撃して自由を奪うこと、そして支配すること(同類他者と見なした相手を攻撃するので、相手を否定する言葉がそのまま自分に当てはまり、言行の倒錯が顕著。「反共」は典型例...共産主義も潔癖性から自由主義になり、「保守」は一般的にも自由主義と認識されるとおりで、後述しますが自由主義の結果の一つが「保守」。この自由を奪い支配する特性が経済で発揮される資本主義とは一体不可分。資本主義の「搾取」は自由を奪い支配すること。「尽きない不安」→「尽きない不満」→飽くなき利益の追求=資本主義。貪るような自然界からの略奪、採り尽くす、開発し尽くす。)
③責任転嫁(他者に向けた「自己責任」とも言い換えられる。因果関係の連続である現実を無視した「決めつけ(レッテル)」による偏見、それが不寛容な攻撃となる。「人のせい」=責任を「共有」しない=無責任。すがり依存するのも責任転嫁の一種で、扇動による操作のされやすさや自発的な全体主義にもつながりますし、熱狂も強烈な依存心であり、カルトにマインドコントロールされることにもつながります。日本人はこれが顕著かもしれず危険な要素です。真面目に見える人がカルトに引っかかるのは案外不安が強く依存心が強いのかもしれません。騙されて一見すると人のために奉仕しているようでも、肝心の最初のところで不安から逃げて他者にすがり、自己を放棄してしまっているので無責任なのです。また、善か悪かなど二元的な思考は④の潔癖にも通じますが、レッテル貼りによる責任転嫁にも通じます。二元的な峻別自体が両極端を取り出すため、Aを取ってもBを取ってもどちらの極端も自由主義、保守も共産主義も自由主義のように、自由主義を取り出すフィルターの働きをします。小選挙区制は⑥と相性のよい一人勝ちの制度なため、②により同類や身内まで指さして「悪」のレッテルを貼り悪者に仕立て上げた者が勝ちます...例えば小泉政権→醜い権力闘争を起こやすく勝者に正統性を感じにくいのが小選挙区制です。新型コロナ対策で「人流」に感染拡大の原因を求めるのも、もはや「決めつけ」と言える状況になっています。)
④潔癖(妥協がなく不寛容=相手の自由を奪う。尽きない不安→尽きない不満→妥協がない。「〇〇は健康にいい」という情報により、そればかりに傾倒してしまうのも、潔癖や⑤の過剰で、まさに扇動されやすく、むしろ求めた方向と真反対になる人たちだろうと思います。また、宗教と呼ばれるもののうち寛容さがなく潔癖を求めるものはカルトであり、国家を主体としない自由主義、全体主義となり社会を破壊します。)
⑤過剰(潔癖=妥協がない=際限がない。尽きない不安→尽きない不満→過剰な追求。)
⑥独占私物化(①の「支配」から。奪われる不安に対して「排他的に独占支配=私有」。利益だけでなく責任も他者の痛みも「共有」しない。)
⑦放置(助けない←責任を「共有」しないから。無慈悲←他者の痛みを「共有」しないから。)
⑧嘘をつく(虚勢の「自画自賛」は顕著。②による言行倒錯も嘘と映る。全体主義では自分たちの民族の優越意識が必ず伴う。)
⑨扇動、熱狂(極端な依存心)により拡大(特に負の感情を刺激し、不寛容を増幅させる。真偽不明性は扇動の典型要素でテクニック、人は真偽不明なものに惹きつけられてしまう、信じる人信じない人の分断つまり破壊を生む→前述の2020年アメリカ大統領選挙の例。)
 自由主義がもたらすものとして、理性やモラルの喪失(我を失う)、「破壊が破壊を生む、自由主義が自由主義を生む(自動拡大)」があります。 北欧のNATO加盟への動きは、ロシアの自由主義が自動拡大したものと理解できます。自由を奪われたことに対して「戦って奪い返す」、脅威を与えられたことで軍事同盟で対抗する、逆に「すがる」場合は全体主義化となりますが、結局いずれも自由主義です。安倍元総理の事件も、旧統一教会による破壊(この団体の思想も明らかに自由主義)が自動拡大したという理解もできます。扇動や熱狂(これは強烈な依存心)によっても連鎖的に自動拡大します。
 これとは別に、戦場などで起こる残虐行為は、自由を奪われた相手を見て「もっと奪ってやれ」という快楽に似た心理が誘起されることでおそらく起こります(脳における何らかの反応)。これは破壊により他者の「平和的な自由」を奪うと、それが次の破壊を起こす「破壊的自由」に転換される現象としても理解できます(→以前の記事の中の数式。これも「破壊が破壊を生む」。)。かつて日本は日中戦争で南京陥落により国民は熱狂したのです(まさにこの特殊な心理と前述の「自動拡大」が同時に起こりました)。


 では民主主義とは何か、ひとまずシンプルに「民主」から 国民主権と言い換えてよいでしょう。それ以上でも以下でもありません。もちろん、多数派を作り多数派が支配するとか、全体の利益を最大にするとか、そんなものも自動的には導かれませんし、程度にもよりますが私は入っていないと思います(全体の利益の最大化も多数派支配もほぼ同じことで、後述するようにそれは必ずしも民主主義を導きません。だから、多数派支配を特に意図的に作る多数決、小選挙区制は本当の民主主義とは必ずしも言えないでしょう。)。国民と主権に着目し、「国民」については一定の地域に複数の人々が「共存」する状態、さらにもう少し積極的に協力し合い「社会を成す」状態が考えられます。そして「主権」が重要なポイントです。
 例えば、冒頭のように、煽られて感情や思考がその影響を強く受け、理性を失い自己喪失のような人は、道理として「主権者」と言えるだろうかと考えた場合(法的にではないです)、私は言えないと考えます。
 そのような人は、投票前から既に自ら「扇動者が所有するただの数」と化してしまっており、責任を伴う主権者、責任ある「個人」とは言えないからです。そのような人の投票は全体主義(=非民主主義)に寄与します。扇動そのものが「個人」を否定する全体主義の現れで、それを行う政党や候補者は全体主義を志向しており、実現を目論む政策には往々にして全体主義が含まれるからです。
 
 主権者であるための条件(=民主主義が成立する必須条件)として私が思うものは、

①自己(個人)を保持していること(自己を失い理性を失った人は責任を持った判断ができない→「無責任に行使する」ものを主権と言えるのか。また、互いに「個人を尊重」する必要がある。)、
②社会(自然を含む)を「共有」している感覚(「複数の人々」が社会を成し、その社会に対して主権を持つには「共有」が必要。人が増えればその分限られた土地で完全に独立して自給自足により生活することは難しくなり協力が必要。「私有(排他的独占支配、資本主義の基礎)」の対象が簡単に取り引きの対象になるのに対して、「共有」では難しく、つまり奪われにくい。社会に少しも意思を反映できないなら「共有」の感覚はない。原始宗教などで自然への感謝の儀礼は自然への「意思表示」であり相手への尊重なのでは。独り占めしないこと、つまり「抑制的な」自由主義であること。「公共の福祉」による抑制。採り尽くさない、開発し尽くさない。)

 このように非常にシンプルです。②のための一つの方法が選挙であり、投票で代表者を決め代表者で話し合って社会運営のための意思決定してもらうことです。しかし、①を満たさない場合には、そもそも主権は成立しないというのが私の考えです。
 また、小選挙区制のような代表者の決め方では、勝ち負けを決め過ぎて「独占」(多数派支配)を作るため、②の「共有」に反し主権を成しません。

 英米の人たちは各々自分勝手なことを民主主義と言い、中国人は全体の利益の最大化が民主主義だと言います。しかし、どちらも(程度により)民主主義とは言えないと考えます。前者については、各々が無制限に自由を追求することは、地球という環境に依存し、集団で生きるよう進化した人類には現状不可能で、それでも追求すれば必ず自然を破壊したり他の人たちの自由を奪うことになります。他の人たちとの共存を壊すということは社会を破壊すること、社会的生物であることの自己否定になり、「人々」の共存がなければ民主主義の「民」という前提が壊れるため、民主主義とはなりません。後者については、日本では信じてしまう人も多そうですが(多数派支配を作る多数決や小選挙区制を当たり前に民主主義だと思い込んでいる人が多そうなので)、全体の利益最大化は多数派支配とほぼ同じことで、ということは少数派は抑圧、弾圧の対象になり得るということです。国民の中に国民でない(意思を反映できず、事実上主権がない)と見なす人を作ることであり、これも「民」を壊す作用をするため民主主義とは言えないでしょう。この「(少数派には)耳を貸さない」政治=「支配」で、耳を貸さないことにより潔癖性を増し、全体主義になります(こうなると完全に「個」の否定となり国民の側に主権者は存在しなくなります。誰もが被支配側で、支配する国家権力側の意図のまま。つまり民主主義ではありません。)。今なお「ゼロコロナ」を続ける中国は、本当に全体の利益最大化になっているでしょうか。全体の利益最大化を追求しているつもりが、潔癖のためにそうはならない可能性があります。全体主権により、社会的生物として獲得した生得的普遍的モラルも失われ、あるいは国民性としてもともとそれを失っている結果としての全体主義の面もあるのかもしれません。
 世界的に見ても民主主義が何なのか、こんな単純なことがわかっていないかのようです。これは、後述のように遺伝的性質(特に不安や恐怖への過剰な反応=自由主義)が関わっているからに違いないと思います。根っからの自由主義の性質の人にとっては自由主義が民主主義、それが自分の意思と思い込んでいるからでしょう(永遠に民主主義がわからない)。残念ながら遺伝的性質を変えることは困難です。だから戦争はなくならず、世界は何度でも分断されます。

 日本では、保守による「反共」プロパガンダにより、共産主義(特に中国や旧ソ連)は社会主義で自由がなく「悪」であるとレッテルが貼られています(社会主義に対する偏見につながっています。むしろ「抑制的な自由主義」を必要とする本来の民主主義に社会主義は不可欠です。)。しかし、共産主義は社会主義とは言えません。どこに「共有」があるでしょう。共有の名の元に国家が排他的に(国民の意思を反映させず)諸権利を独占しています。その潔癖性からも社会主義ではなく自由主義(資本主義と一体)です。保守は後述するように自由主義から導かれるものであり、自由主義の性質として同類他者を攻撃しているのが「反共」です。イデオロギー対立でも何でもなく、ただいがみ合い、奪い合いの闘争が世界を分断するのです。


 自由主義の根源が「過剰な不安、恐怖心」であるのに対して、民主主義は「国民主権」という理念だとも言えますが、民主主義を成立させやすい性質はあり、まさに自由主義の反対「過剰な不安、恐怖心がない」ことだろうと思います。ほどほどに相手を信じ、協力や②の「共有」を可能にする、「尽きない不安→尽きない不満」がないことで飽くなき利益、領土の追求がない(「独占がない」)というものです。これは「抑制的な自由主義」の一つで、独占や略奪に対して抑制的、無制限の自由を追求しないということであり、民主主義の感覚としてとても重要です。日本国憲法の「公共の福祉」もこれです。また、専守防衛の武力や人権を抑圧しない程度の警察権力も必要不可欠の「抑制的な自由主義」と言えます。
 実は縄文人は「抑制的な自由主義」の感覚を持っていたのではないかと、最近見たテレビ番組でも感じました。今までの記事では、アイヌの「イオル」という共有地の例を挙げていましたが、先日のブラタモリ「能登半島~なぜ能登の風景は人の心を打つのか?~」の中で紹介されたこと、能登の内浦に4千年間定住したという縄文人の自然の恵みへの考え方が今の「定置網漁」(取り尽くさない、持続可能)に残っていると言う話を追加します。アイヌの熊送り、鯨送りの風習(命の糧となった鯨に感謝し鯨の魂に見立てた柱を神の国に送るという儀礼)も例に挙げて、能登にも鯨送りと同じものがあったということでした。縄文人には自然から命を奪い自分たちの命の糧とすることへの特別な感覚、感謝のような感覚があり、そこに「抑制的な自由主義」の本質が宿っていたのではないかと私は思いました。
 後述のようにY染色体ハプログループKの系統(子系統)の人々にはそれがない。日本で言えば中国や朝鮮半島のOの系統の人々の渡来人(弥生人)です。農耕という「自然の支配」、生産、生産物を通じた「人の支配」があり、「不安が尽きない=不満が尽きない」によって飽くなき利得の追求、領土の追求があります。

 Y染色体ハプログループKの系統とは何か、分子人類学の知見の蓄積により、人類の血統を何万年も遡れるようになっています。母親のミトコンドリアが子にそのまま伝わることから、ミトコンドリアのDNAを使った女系の祖先を辿る手法と、生殖で入れ替えがない男性のY染色体のDNAを使った男系の祖先を辿る方法があり、これ(Kの系統)は後者による系統の一つで、約4万7千年前の中東のあたりで生まれた系統です。
 ミトコンドリアでもY染色体でも混血の影響がどうなっているかまでは分からず、あくまで直系を辿るだけなことに変わりはありませんが、女系で辿る場合、侵略などにより侵略した側との混血がその場所に居ながらにして起こる場合があり、常染色体の移動経路、拡散の状況、系統の性質がやや見えにくい感じがします。
 さて、そのY染色体ハプログループKの系統の子孫にはR1b(イギリスや南欧の一部で高頻度)、R1a(東欧やロシアで高頻度)、N(北ユーラシア、つまりロシアで高頻度)、O(中国や朝鮮半島、東南アジアで高頻度)、Q(アメリカ大陸の先住民に高頻度)、MS(オセアニア)などがあります。それ以前に住んでいた人々を駆逐し圧倒したと思われますが、島国などでは以前の人々の系統もいくらかは生き残っています(日本人では縄文人の系統)。
 私が考えているのは、この系統(Kの系統)の人々は「過剰な不安や恐怖」を生じる遺伝子を持つ人々であろうということです(私見です)。この考えも一種の「決めつけ」で自由主義的ですが、裏付けの確かさが自由主義を抑制するのだろうと思います。大航海時代を牽引し植民地を開拓、産業革命で資本主義を爆発的に進展させ搾取を拡大、中国やロシアは全体主義(国家自身が強烈な自由主義を行い、覇権主義や侵略戦争に)、古くは、採り尽くす文化、効率優先と過剰さでマンモスを絶滅させ(私見です)、農耕を開発し自然や人の支配を始めたのもこの系統だろうと思います(私見です)。この系統の人が他の地域より少な目で、半分くらいな北欧では民主主義(社会民主主義)が発達し、幸福度が高い(過剰な不安がない)という現実も、この考えの理由となっています。不安や恐怖が過剰では、相手を信用し協力し合うことも、幸福感もありません(尽きない不安は尽きない不満に)。それから、中国やロシアの全体主義のありよう、アメリカの自由主義のありようが、今も昔も変わりようがないこと、それは理屈ではなく、遺伝的に導かれているとしか言いようがありません。絶望的になってきますが。

 日本人から縄文人の遺伝子(Y染色体ハプログループDの系統)はかなり失われており(系統だけで見れば、沖縄、アイヌでは高頻度。沖縄の基地問題は縄文系の多い沖縄と、弥生系の本土中央政府の違い、縄文系と弥生系の違いが顕わになっているのでは)、渡来人(弥生人)の遺伝子(Y染色体ハプログループOの系統)により、日本人は全体主義を助長する傾向の人が多数派です。つまり、小選挙区制をやればまず自由主義(保守)が圧勝しますし、しかも、小選挙区制自体が独占を作り自由主義を助長させます(小選挙区制の選択導入自体が自由主義の傾向がもたらしたとも言えます)。つまり、現状のままただ投票率を上げてもかえって全体主義に近づいていくことになります。共産主義も私の解釈では自由主義ですが、一般的には保守の「反共」プロパガンダが効いて「自由主義の敵だから自由主義でない」と思われています。アフリカから続く古いD(Y染色体ハプログループ)の系統がチベットや日本など孤立的にしか残っていないのは、高地や島国の一部以外ではOの系統に駆逐されてしまったのだろうと思います。在留外国人に多い中国、ベトナム、韓国の人々はほとんどOの系統です。そういう意味で今なおOの系統による侵食は続いていると言えるのかもしれません。
 北欧では、系統だけで見てY染色体ハプログループR1bの系統(Kの系統)など(おそらく自由主義)と拮抗する程度にKの系統とは異なる同Iの系統(おそらく非自由主義)が残っており、民主主義(社会民主主義)が成立しています。半島であり、さらに半島の付け根の地域に冬季は厳しい寒さがある点が、日本よりも非Kの系統を守る要素になったのかもしれません。

(自由主義について、もう少し詳細に)
 自由主義の根源は、不安によるイライラ、恐怖心の過剰さにあります。そう考えると自由主義も全体主義も遺伝的なものである可能性にご納得いただけるのではないでしょうか。それだけのことで、町が破壊され人が殺されます。遺伝的ということは、考え方によっては是正が困難ということでもあります。戦争体験者が自由主義を抑制し得ること(日本では昭和の終わり頃までは、今よりも現行憲法への肯定的な空気が社会全体にあったと思います)から考えると、自分自身が骨身に染みて痛い思いをしないとわからない、つまり自由主義自体に恐怖感を持つほかないということになります。他者の痛みを「共有(共感)」できないのが自由主義だからそうなるのでしょう。
 前述のとおり、縄張りを持つ生き物が同種の他者を警戒する感覚を過剰にしたようなものが自由主義にはあります。過剰なため我を失い知能低下のような状況が伴います。警戒対象に自己を投影し、それを敵として激しく攻撃するため、相手を否定し攻撃する言葉がそのまま自分自身に当てはまるという、顕著な言行の倒錯が起こり、これは自由主義の一大特徴です(鏡像認知できない動物のように、自分を投影したものだと認識できず攻撃し続けるかのよう)。かつて兄弟と言われたウクライナをナチスだと言って攻撃するロシアのほうがよほどナチスみたいになっている状況、冷戦時代のアメリカの赤狩りは全体主義国家の粛清そのものだったことなど。潔癖な保守派の「反共」攻撃は実は同類、つまり自分自身への攻撃と同じことです。同類他者への攻撃という点では、「骨肉の争い」として源頼朝など源氏の例がありますが、当時、桓武平氏とか、朝廷や武家の支配層には既に政略結婚のような形で大陸の血が入っていました。

 ユダヤ教はおそらくこの自由主義の性質の獲得を「原罪」と呼んだのだと思いますが、一神教自体が排他性や権威主義、潔癖性から自由主義的で、しかも自由主義を「罪」と呼んで人々を怖がらせ「支配」しようとするのも自由主義ということになり、キリストはこの自由主義を修正しようと試みたのだろうと思います(ユダヤ教の厳しさに対して寛容さを取り入れようとした)。しかし、自由主義は理念ではなく遺伝的性質なため変えることはできず、後世、キリスト教の名で自由主義が堂々と行われています(カトリックも正教会もカルヴァン派も自由主義だと思います。派閥闘争をしている時点で自由主義であり、そこに「相手を許す」精神はありません。ルター派だけは個人による信仰を重視しており異なるイメージがあります。)。仮に自由主義を「原罪」としたのなら、仏教でも自由主義とほぼ同じな貪瞋痴(とんじんち、貪る・憎悪・妄想と無知で愚か)を根源的な三毒としており(仏教の初期から)、中東でもインドでも既にはるか紀元前の大昔から問題とされていたわけです。ただ、これらも内省的に潔癖になると、かえってその害のほうに近づいてしまいます。
 ある傾向の人が絶対的過半数の時、その傾向を「国民性」と呼ぶなら、自由主義、全体主義は国民性によって形成されます。スターリンがいなくても共産主義でなくても全体主義を復活させた今のロシアがそれを物語っています。特定の独裁者が全体主義にしたのではないという認識を持てないと(「独裁者のせい、国のせい」と言っていたら)、永遠に「反省」はできず、何度でも全体主義はやってきます。日本も他人事ではありません。
 人間性の劣化、知能の劣化かのような状況も起こし崩壊もする(100年続かない)全体主義ですが、何度でも復活してしまいます。短期的には力づくで破壊して奪うのが得意な自由主義、全体主義は、民主主義に対して優勢です。相手を尊重する民主主義と一方的に略奪する自由主義では民主主義に勝ち目はなさそうです。だからと言って、弱肉強食は自然界の競争原理として普遍的なものだと正当化するのは早計だと思います。集団で生きる人類ゆえに獲得したのが民主主義的な特性であるとするなら、自由主義は人類の自己否定、劣化という見方ができるからです。自然界からも貪るように略奪し、自らの存立基盤を壊しているのも自由主義です。基本的には自由主義は「劣化」と思われ、民主主義のほうが本来は優れているのだと思います。しかし、悪貨は良貨を駆逐するが如く自由主義が拡大しています。

 日本人は相当努力しないと民主主義は実現できないでしょう(遺伝的な多数派からして困難です)。この困難さから、自由主義に対抗して潔癖に民主主義を求めようとすると、むしろ民主主義からは離れ自ら自由主義、全体主義のほうへ近づいてしまいます。民主主義は「中庸」という絶妙な領域にあり、自由主義に偏った人が多くては非常に難しいということです。孔子の時代、中国は既にY染色体ハプログループOの系統の人々が圧倒していたでしょうから、「中庸は最高の徳なのに廃れてしまう」と孔子は嘆くことになったのでしょうし、Oの系統が多数派になってしまった日本においては、論語に書かれた教訓は説得力を持つということになるのでしょう。Oの系統だけが圧倒的な社会では、非自由主義を説いた孔子やその弟子たち自身に社会的成功はなかったけれども、その思想自体は説得力があるために残り、しかし時々の為政者に弾圧されたり改変されたりして、孔子の教えとは異なる儒教になりました。日本には朱子学として伝わり、それが水戸学となり幕府を自壊させ、明治以降の全体主義、昭和の戦争まで精神の支柱となり、つながっています(覇道はダメで王道が正しいという二元的思考が「潔癖」を生み、自由主義を導いてむしろ自らダメなはずの覇道になってしまう、つまり前述のような「自由主義の反対を追求したつもりが潔癖ゆえに自由主義になる」の典型で、水戸徳川家による幕府の自己否定と破壊、明治以降の全体主義を招いた)。孟子が覇道とか天道とか二元的な思考を入れた時点で儒教は自由主義に変質し、その思考自体が扇動の要素でもあり、感化されやすい人を通じて拡散し、日本では戦争まで起こしたということになります。宗教にしろ思想にしろ政治体制にしろ、その国民性に見合ったものにアレンジされてしまうものです。


 これまで何回か言及していますが、明治維新が日本を近代化させたという思い込みも自由主義を支持する空気を作っていると思います。
 明治政府は国学や水戸学の国粋主義的な部分を柱とした全体主義、軍国主義の体制でした。前述のとおり全体主義と自由主義は同じで、自由主義による規制緩和を行った結果が、新興財閥の出現による独占です。近代化(産業、社会制度)は、たまたま産業革命を先に起こした西欧との格差があって、それを借用して起こったもの(産業革命の疑似追体験)であり、規制緩和の成果ではありません。たまたま同時に起こったため明治維新の規制緩和の成果と誤解され、その評価が広がってしまいました。規制緩和が起こすのは、既存の秩序の破壊による争奪とその先の独占です。激しい競争はイノベーションではなく「搾取」によるコスト圧縮を起こし(非正規雇用の拡大が象徴的)、労働者は貧しくなります。そうなるとデフレの原因にもなり、経済は縮小低迷します(イノベーションがないため成長もない)。中曽根政権、小泉政権など新自由主義がもたらした結果がそれを証明しています(借用できるものがない純粋な規制緩和の結末)。争奪戦を活況と勘違いし浮かれていたのでは。
 統制や自由を制限するイメージのある全体主義と自由主義の自由競争がなぜ同類なのか、ここでもまだ疑問に思われるでしょう。自由主義の「自由」には自由競争のように、政府が関与せず(コストをかけず)市場原理に任せるという意味があると思います。そのように政府ができる限り関与しない「小さな政府」とはどういうものか、様々な関与を削った末に残る、国家として最小限必要なもの、それは国防と治安維持(体制維持)ということになります(政治家の意識、関心がこの分野に偏るということでもあります)。ここに軍国主義があり、警察権力の抑圧性の高さがあります。全体主義でも実際そのようになっているのではないでしょうか。体制維持ですから警察権力は今の警察よりもずっと抑圧的だった(全然違った)はずです。体制維持=保守ですから、自由主義の結果が「保守」なのです。自分たちの主義主張に過剰に潔癖なだけで、本当の意味で伝統を大切にしているかはわかりません(アメリカなどでの宗教がらみの争いもそうでしょう)。いずれにせよ「小さな政府」では権力集中が必然的に起こります。また、市場原理に任せた自由競争でも弱肉強食により次第に独占が作られます。独占による「支配」は「抑圧」と共鳴するでしょう。自由主義と資本主義は一体的。明治期は中央集権化と資本主義の拡大が同時進行しましました。現代日本で、新自由主義と、一強、官邸支配の強まりが同時進行したのも当然です。政治の独裁である自由主義と経済の独裁である資本主義は互いに邪魔せず共鳴し合い共存している、「手を取り合っている」とも言えます。それを理解した論調はあったでしょうか。

 金融政策に関して以前の記事に書きましたが、

 お金を利用しにくくする「利上げ(金融引き締め)」は「自由の略奪(剥奪)」で、お金を利用しやすくする「利下げ」は「自由の解放」、本来は利下げで経済が拡大して良さそうなのに(バブルでは過剰反応して虚構の急拡大を招いた)、バブル後の日本では利下げをしても経済の縮小傾向(悪いデフレ)が改善しなくなってしまった。これは、バブルのショックが大きかったのもあるとして...

 やはり、自由主義の国民性があることは、極端(バブルもデフレも)を招くというのがあるでしょう。思い込んだら潔癖、過剰に同じことをし続けてしまうからです(今はインフレの急拡大の要素でもあったバブルとその崩壊の痛みを体験し、バブルを極度に恐れて利下げでも動かない)。もう一つは、金融緩和は「政策」つまり政治としては経済を縛らない自由主義なのではないか、先ほどの政治と経済で独占独裁を棲み分けているという考え方からすれば、経済で独占が進行するのを妨げないことになります。ということはお金は独占主体に吸い取られるということになり、デフレは改善しないことになります。

 安倍元総理の事件について、テロではないという理解になっているようで、それはおそらく実際正しく、その冷静さは破壊を拡大させない意味でも良いことだと思います。犯人は恨みを晴らすことにただ一心で、政治的なことや教会の社会的糾弾のようなことを考える余裕は無かったに違いないと思います。しかし、一方で少し見方を変えると、自民党は統一教会に関心を持って欲しくないために「騒がず冷静」なのではないか(「特定の宗教団体」を団体自身が名乗り出るまで明かさなかったこと、おそらくそういう圧力がかかったと想像させることからも)とも思われ、そう考えると複雑です。

 

 テロでないということは、やはり日本ではテロは起こりにくいということで、日本はまだ平和であるということか、もしくは全体主義的な見かけの平和があるということか(地下鉄サリン事件はテロでしたが)。カルトへの規制がなく、政治家も関わりを持つという、社会としてカルトを許容しているかのような不明瞭さ自体も自由主義、全体主義を助長します。安倍元総理の事件のようなことが起こるのも当然な気がしてきます。

(追記2022/7/28  安倍元総理の事件の模倣をほのめかしメールで市長に辞職しろと脅す事件も起きてしまったようです。これは政治的意図があるのかもしれません。触発によっても「破壊」は自動拡大するようです。起こったのはやはり関西でした。東大大学院の調査において、全ゲノムの一塩基多型の多変量解析で近畿四国は北京の漢民族に日本の中では最も近いということでした※が関係あるのかどうか。新自由主義の政党が大阪で躍進しているということは、扇動されやすい人が多いということでは。※:東京大学大学院理学系研究科理学部サイトから2020/10/14「都道府県レベルでみた日本人の遺伝的集団構造~縄文人と渡来人の混血がもたらした本土日本人内の遺伝的異質性~」https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/press/2020/7056/ )

 

 Kの系統の人々、その遺伝的影響(特に不安や恐怖への反応)を受ける人々は世界的には少なくとも既に半分以上に拡大しているでしょう(ユーラシア、アメリカ大陸全体では系統だけで見ても過半数になっていると言われます)、民主主義というものは失われる可能性があります。民主主義が多様というよりも、民主主義が何であるかわかっていないのだと思います。自由主義の自由という言葉に惑わされ過ぎです。本稿で書いてきたように自由主義に傾き過剰になると全体主義という非民主主義となります。本稿では自由主義と全体主義を同じものとしています。「抑制的な自由主義」を「必要悪」程度に含むのが民主主義です。自由な市場経済が民主主義の一面と捉えられていますが、抑制が効いていなければ民主主義とは言えません。

 

カバー画像はアラカシ(縄文人をイメージして)

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(参考)再掲