米中のエリート学生の民主主義観の程度 サンデルの白熱教室


 NHKのEテレ『マイケル・サンデルの白熱教室2022「民主主義への挑戦~戦争~」』、『同「民主主義への挑戦~コロナ~」』を視聴しました(続編「中国って民主主義?」も視聴しましたが、民主主義ではない両極を論じる点では基本的に変わりなかったのでその感想は割愛します)。
 アメリカのハーバード大学、日本の東京大学・慶応大学の混成、中国の復旦大学からそれぞれ学生が6人ずつリモートで参加し(日本と中国は6人がそれぞれ同じ場所に集まり)、サンデル氏の進行により意見交換が行われる番組でした。
 特にコロナ編ではハーバード大の学生と復旦大の学生で、国柄が強く反映され民主主義についての考え方の違いが明瞭でした。そのことを中心に書きます。なお、日本の学生の発言は本稿ではほとんど省略します。

 端的に言えば、自分勝手を民主主義と呼ぶアメリカと、全体主義を民主主義と呼ぶ中国という違いがエリート学生たちにも明瞭にありました。私はどちらも民主主義とは言えないと思います(後述)。どちらも自由主義(不寛容に他者の自由を奪う利己的なあり方)であり、「両極端」なだけです。民主主義は「中庸」という絶妙に狭い領域にあり、彼らの言うように「あれも民主主義、これも民主主義」ではないと私は思います。

 ハーバード大の学生は、アメリカでは個人の自由を「行動の縛りが一切ないこと」と捉える傾向が強いとはっきり言っていました(アメリカの学生が言うのですから間違いないのでしょう。「やっぱりそうなの」という感じです。)。そして「お互いに対する責任感がない」とも言いました(だからワクチン接種もマスクもしないと)。これを個人主義だと言っていましたが、私が思うに、相互に個人を尊重するのが個人主義とするなら(後述)、政府があたかも個人を尊重するかのような部分は一見個人主義的でも、個人が互いに無責任であるがゆえの行動選択は個人主義ではなく利己主義つまり自分勝手です(その行動を不快に思う他者である個人を全く尊重しないからです。あるいは不当に自由を奪われた者を助けず自分勝手を放置して自力で自分を救済せよということです。)。これは自由主義と言えます。このように自分勝手を放任するということは、自己責任を強要しているのと同じで、この「強要」と「尊重」とはかなり違うからです(自分勝手のためにコロナに感染しても、自分勝手な人から感染させられても、自己責任と決めつけるなら、不本意に感染させられた人はどうなのかという話です。そもそも国民皆保険が実現しない国です。)。これを個人主義と呼ぶハーバード大の学生の認識はどうなのでしょう。正直、「その程度の理解?」という印象を持ちました。アリストテレスの言葉「孤独を愛する者は野獣か、そうでなければ神である」を思い出します。動物的な自由主義という意味で。
 一方、中国の学生は、国民全体の利益を追求するのが民主主義だと言いました。民主主義か専制主義かというレッテル貼りは心外のようです。そして、個人主義では国民全体の共通の利益を追求できず、したがって個人主義は民主主義ではなく、むしろ民主主義をポピュリズムへ導くものであり、ポピュリズムもまた民主主義ではないという主張でした。私が思うに、まず国民全体の利益が第一となると、個人は否定され民主主義というより全体主義に近づきます。学生の言葉には「共通の利益」という表現もありましたが、それがどのように導かれたものなのかにより意味が違ってくるでしょう。政府の誘導により「思い込んだ」ものなら全体主義です(「独占」を「共有」と錯覚した状態)。また、本来の個人主義は民主主義の前提となるにも関わらず個人主義を(「自分勝手」の意味に)はき違えている(後述)上に、確かにポピュリズムは民主主義とは言えませんが、中国では国家そのものが激しいポピュリズムをやっていることに学生は全く気がついていないようです。ポピュリズムは大衆扇動を伴い「決めつけ」(前々回の記事参照)により自由の独占を行うことだとすると、例えば香港の出来事を見れば、一国二制度を突如破棄して、体制に従わない者を「悪」と決めつけ弾圧し(恐怖で支配するのは、恐怖で煽って同調させるという扇動の一種ですし、示威行動というデモの一種でもあります)国家が自由を独占するのは、まさに国家によるポピュリズムです。他国のポピュリズムや抗議デモの混乱を他人事のように批判しながら、自分たちの国家が行っている強烈なポピュリズムやデモを自覚できないのは自由主義的な人に起こりがちな現象に似ています(安倍元総理の「印象操作」批判の例など)。もしくは、気づけないといったほうがよいのかもしれません。中国では政府に反抗しない限り一見すると平等であり、実は多くの自由を奪われていることに人々は気づくことができず満足し(仮に気づいたとしても声には出せず)基本的に政府を疑わない(または疑わないように見せる)状態があるからです(そのため政府に疑いを生じさせるものに対して、政府は異常なまでに過敏です。香港はまさにその標的にされたのでしょう。異常な不寛容は強烈な不安の裏返し、つまり「騙して」自由を奪っている疾しさの証拠です。)。続編「中国って民主主義?」でも、中国の学生は「中国では政府が国民全体の利益を考た政策を効率的に実行できる」ことを信じ、疑いなく一貫して主張していました(疑いを表明すれば身が危うくなるのもあるでしょう)。これは資本主義において、働いて稼げば一見豊かさを享受できるために搾取に気づくことなく(気づいて声を上げると自由主義的な人々の中ではやはり潰されるため)資本主義を疑わない(疑わないよう行動する)のと構造的には同じで、要するにどちらも人々が家畜化されたような状態(自由を奪われていることを自覚できない)であり、とても主権を持っているなどとは言えず、どちらも民主主義とは言えません。資本主義(経済)は自由主義(政治)と一体であり、同じと言ってもいいでしょう。中国やロシアが国家資本主義と言われるのはこうした構造からきているのだと思います(単に国家が経済を独占している意味だけでなく、こうした状態=全体主義のことを含めてそう言うこともできる)。
 独裁には確かに効率性はあっても、この効率重視はかえって本来の効率性を遠ざけるでしょう(独裁の効率性は資本主義にもあるような短期利益の追求になりやすく、人命軽視(弾圧、粛清により)、発明発見の自由につながる個人の尊重の軽視など将来の成長の源泉を軽視するため、長期では成長が阻害されます。独裁だからこそ長期視点が可能という反論があるのでしょうが、その内容の妥当性が検証されない点を無視しています。「たまたま」当たれば大満足、外れたら大惨事です。)。小選挙区制も瞬時にしかもはっきり勝ち負けを決める効率性重視であり、実は独裁の要素を持っています。実際、アメリカでも皆保険が実現せず人命が軽視されています。米中の学生はこの同質性には気づいていないようでした(中国の学生は「アメリカのような民主主義は一部の人しか代表していない」という主張)。


 「パンデミックに対して民主主義は弱いか」という番組での問いに対する私の考えは、アメリカにおけるようなコロナワクチンの接種率の低さや感染による死者数の多さは、自分勝手を放任して自己責任にしてしまう自由主義的な体制や国民性のためであり(ヨーロッパにおいて侵略が繰り返された歴史的な経験から抑圧を極度に嫌い、何者にも縛られないという意識が強いというのもあるかもしれませんし、もともとの遺伝的なものかもしれません。私は、侵略戦争も自分勝手も自由主義なので、遺伝的な自由主義だと思います。)、ワクチンやワクチンパス義務化への抗議デモも過激になればやはり自分勝手な自由主義と同じで、これらは民主主義とは言えないという点がまずあります。
 「抗議の声を上げる権利を守ったことを支持するが、主張している内容(ワクチン義務化などへの抗議)は支持できない」とするハーバード大の学生がいましたが、「意見が違うことこそが民主主義」と言うハーバード大の学生がいたのと同じで、民主主義を完結させる気がなく無責任でご都合主義的な態度(自由放任の延長)にも見えます。違いを認めることは確かに個人の相互の尊重の第一歩で、個人の尊重は民主主義の大前提である「共存」の要素であり、全体主義回避の要素ですが、それだけでは「主権」については不十分です(何らか方法で個人の意思をほどほどに反映し、また自由をほどほどに制限することで、社会や自由を「共有」することが「主権」を持つためには必要、自由は有限なので・・以前の記事参照)。抗議デモについては、後述するようにその不寛容の度合いによって民主主義とするか否かが分かれると見るべきです。そもそも不寛容の度合いが非常に強い場合、冷静さや理性を失っている可能性があります。もう一つは、資源が枯渇しそうな場合、力づくで先に奪った者が勝ってしまうと考えれば、同様にパンデミックという危機においても力づくで対処した者が勝つということがあるのかもしれません。そうした意味では、確かに民主主義は危機に対して弱い可能性はあります。ただし、「共存」が大前提である本来の民主主義において、「共存」を第一とすれば自ずと厳しい感染対策も選択肢となるはずで、民主主義だからできないというものではないと思います。アメリカ大統領選挙など小選挙区制的な制度は分断を煽り不寛容度がかなり高まるため(つまり「共存」第一からは外れ)、民主主義からは外れると言えます。別の言い方として、少しでも自分の自由を侵すものはたとえ民主主義でも許さんというのがいかにもアメリカ的なあり方なのですから、やはりそれは民主主義ではありません。また、誰にも支配されないという自信過剰で剛直な人ほど、蟻の一穴から崩れて、かえって支配されやすいのかもしれません。

 抗議デモに関しては、意見の一致を重視する(意見が一致するのが民主主義と主張する)中国の学生、意見が違うのが民主主義だと主張するアメリカの学生で評価が完全に分かれました。
 サンデル氏による中国の学生の意見の要約の日本語訳(字幕や吹き替え音声)が「合意形成」とされ、実際、中国の学生とサンデル氏で実際言い方に違いがあったのかはわかりませんが、中国の学生が言った「意見の一致」(agreement of opinionと言ったのか?)、サンデル氏が言ったのかもしれないconsensus building(複数の人による合意、完全な一致とは限らない)では状況が違うように思います。中国の学生は完全一致に近いものを意図しているように聞こえましたし、サンデル氏は好意的に解釈したようにも見えました(だとすると歪めている)。この違いは微妙な違いに見えて実は大きな違いで、完全一致とは限らない合意形成なら条件により民主主義的ですが、完全一致を指す場合は条件により全体主義的になります(たまたま一致すれば良いでしょうが、完全一致を第一としそれなりの効率でそれを求めると全体主義になります)。そこが誤魔化された印象でした。一方で、ハーバード大の学生が「意見の不一致こそが民主主義」と言いましたが、確かに個人の尊重としてそれは民主主義の基礎にはありますが、「民主」の「主」の部分、つまり社会や自由を「共有」する部分が欠落しており(民主主義が完成しない)、意見の不一致は民主主義そのものとはなりません。売り言葉に買い言葉的ではあったとしても、短絡的でハーバード大でもこの程度なの?な印象でした。
 また、中国の学生は、意見を一致させられる体制こそが民主主義だという主張でしたが、完全一致を効率的に求めて全体主義化した場合に、政府が間違う可能性を全く考えていない様子でした(パンデミックに上手く対処できた局面は「たまたま」だったという自覚がない。オミクロン株以降のロックダウンでは害のほうが大きくなった印象がありますが、そこが無視されています。)。間違った場合、突き進めば甚大な被害になります。


 「デモ」は、デモクラシーとは語源的に全く無関係でデモンストレート、示威行動、つまり威嚇のことで、これは不寛容=自由主義に属します。これが民主主義かどうかというサンデル氏の問いかけがありました。私は不寛容の程度によっては民主主義に含まれると思います。
 民主主義の大前提には人の「共存」があるため、民主主義の中核である「共有」(なぜ中核なのかは後述)とは矛盾のある自由主義(「独占」を志向する)を完全に排除することはできず、しかし、同時にその「共存」の原則によって侵略戦争(戦争も自由主義の一つ)は否定されます。つまり、民主主義に含まれる自由主義には「程度」があることになります。寛容である民主主義は、デモという不寛容(自由主義)は程度により許容するでしょうが、侵略戦争という不寛容(自由主義)の程度に対しては不寛容に拒絶するでしょう。寛容でありながら必要最小限(適度)の不寛容は許容する、これが、民主主義は「中庸」という絶妙で高度に難しい領域にある所以です。専守防衛という必要最小限の軍事行動の許容もその一つです。
 中国の学生が、「民主主義にもいろいろあり、例えば欧米型とか自由という言葉を前置きしている(自分たち中国が専制主義と言われるのは心外、中国も民主主義)」と主張していましたが、高度な「中庸」によって必然的に矛盾をいくらか含む民主主義の一面を拡大解釈して、「これも民主主義、あれも民主主義」だと言っているようなものです。必要最小限の不寛容が一体どの程度なのか、実は極めて狭い領域を狙うのが民主主義で、アメリカと中国の学生の言うように、あれもこれも民主主義ではありません。その認識が完全に欠落し、自由主義どうしで互いに批判し合っているだけになっていました。
 民主主義に近いのは、社会民主主義をある程度実現している北欧など一部の国に限られます。しかも、「分かち合い(共有)」を自然に受容できる国民性を必要とします(そういう人が40%台後半くらいは最低でも必要)。民主主義には国民性も必要であるという視点は番組には全くありませんでした。

前回の記事で書いたように
 「不寛容=自由主義(短期的局面)は不安を起点として過剰つまり両極端を招き、また同様に不安を起点として同調圧力を伴うため、責任転嫁や強い依存心という無責任が全体主義に向かう。」
 とするなら、アメリカと中国は両極端であり、どちらも中庸である民主主義とは言えません。

 さて、「後述」としていた相互に個人を尊重する個人主義が民主主義の基礎になる点と「共有」が民主主義の中核である点についてです。
 民主主義democracyの語源は、ギリシャ語demokratia(demos人々+kratia体制、政体)で、人々による政治体制、民衆による支配を意味します。なお、デモ(をする)はdemonstrate(意味の一つに「デモをする」)の略で、語源はラテン語で、de(強意、完全に)+monstro(示す)、monstroのもとがmonstrum(不幸を示す神のお告げ)で「momeo(警告する、助言する)+ -trum(道具)」から成り、デモ(をする)は威力を示す、示威行動という意味になります。
 民主主義は、民衆(人々)が主権を持つ体制ということに尽きます。民主主義がどのような特性を発揮するかということと、民主主義の定義は直接関係ありません、これを細かく見ると、まず民衆(人々)という人の集団の存在、人が「共存」する状態が大前提としてあることになります。しかも「個人」を保った人である必要があります。なぜなら「個人」を否定すると全体主義となり人々は「支配され」、民主主義のもう一つの要素「主権」を失うからです。つまり「個人として尊重され共存する人々」が前提となります。これは「社会の成立」と言い換えることができます。そして「個人の尊重」は互いにすることが求められます。自己の「個人」だけを追求すると他者の「個人」を否定することにつながり、「個人を保った人々の共存」が成立しないからです。そして、その人々が「主権」を持つためには、相互の個人の尊重に加えて、社会や自由は有限である(まず物理的、時間的に制約を受ける)ゆえに、それを何らかの方法で「共有」する必要があります。「共有」を実現するには、意思の反映と制限をバランス良く成立させる必要があります(絶妙なバランス「中庸」)。選挙制度で言うなら、歪みなく意思を反映させる比例代表制と、非常に歪ませる小選挙区制があり、バランスという点で小選挙区制は民主主義の制度からは外れるでしょう。他者の自由を侵害して特定の者が自由を独占する状態(要するに自分勝手)を導くのが小選挙区制で、これは自由主義的な制度です。誰かや何かを「悪」と決めつけて自由を独占しようとするポピュリズムも自由主義です。民主主義は「共存」が第一なため、「共有」とは矛盾する自由主義をいくらかは含み、特に専守防衛のための軍事力や、不寛容さが軽度なデモ、放任はしない資本主義などは必要にも思えるものですが、自由主義は民主主義そのものにはなれないということです。個々の自分勝手が横行するアメリカは典型的な自由主義で、中国も国家が主体のポピュリズムであり、個人を否定する全体主義はもちろん民主主義とは言えず、結局は自由主義(国家による自由の独占)です。民主主義でない者どうしが互いに自分たちこそ民主主義だと批判しあっているに過ぎません。パンデミックの対応と結果の一つに大きな差を生じたのは、自由主義の両極という違いに起因します。民主主義かどうかの違いではない点が重要です。
 日本の場合はどうかですが、現行の日本国憲法は、国民主権(前文)、戦争の放棄と専守防衛のための必要最小限の実力保持は認める解釈運用、個人の尊重、公共の福祉による自由の制限、前文の「正当に選挙された国会における代表者を通じて行動」と「国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受」(これは「共有」の方法)など、民主主義の要素が入った憲法になっています。ただし、選挙に関してただ「正当」と言っているだけなので、もうひと工夫必要ではないかと私は思いますし、強すぎる解散権や拘束力のない内閣不信任の議決など権力に独裁性を与えている点が民主主義からは外れています。小選挙区制を「正当ではない」と言う人は少ないのでしょうが、国民主権という民主主義との矛盾を私は感じます(1票の格差以上の構造的な矛盾=不寛容による分断と「共存」の否定)。一方で、同調圧力に支配されやすい国民性は、規制なしに放っておけば自動的に全体主義が成立してしまいそうなくらい明らかに自由主義的です(私は弥生時代以降の渡来人との混血によるものと考えます・・以前の記事参照)。特に自由主義的傾向が強い人々はこの憲法を否定し変えたがっています。また、政治そのものは自由主義的傾向が強まっています(1980年代から新自由主義の政策が行われ、小選挙区制が導入され、郵政改革や派遣労働の拡大など規制緩和や小さな政府化、憲法改正の動きなど。岸田政権も当初の主張は完全に姿を消し自民党ですから結局自由主義です。そもそも「新しい資本主義」という「真偽不明性」自体が破壊的自由=自由主義のほうに寄与します。自由主義ということは全体主義を志向します。)。日本の場合は国民性は自由主義ですが、憲法によって自由主義にブレーキがかけられ、米中のような両極端で破廉恥な自由主義にはならずにとどまっているとも言えますが、一方で資本主義は浸透し自由主義が体現され、家畜化(特に関係の強い米国から)されています。

サンデル氏のまとめの言葉
 結局、民主主義ではないアメリカと中国という両極端を紹介して、「中国って民主主義?」の最後に「民主主義は未だ完成しない発展途上」のような予定調和で締めくくるのは、「ハーバードってこの程度なの?」な感じでした。

 それぞれの主張を否定せず進行した点は良いと思いました。


↓以下、私の考えのまとめです(粗い画像ですみません)




(↓以下、番組内容メモ)
 

マイケル・サンデルの白熱教室2022「民主主義への挑戦~戦争~」
[Eテレ] 2022年05月28日 午前0:30 ~ 午前1:00 (30分)マイケル・サンデル教授が「民主主義の危機」に迫る!ウクライナ侵攻はなぜ許せないのか?国家主権を尊重すべき理由とは?日米中の若者が、民主主義と戦争について議論!

 サンデル氏によると現在進行中のロシアの問題はデリケートなので、学生への安全配慮から題材とせず、過去のアメリカによるイラク侵攻を題材としたということ(特に中国人への配慮と思われる)。
 自国が攻撃されていないのに侵攻したことについては、日本人の1人以外全員が「誤り」と考えた(日本人の1人は人道的に必要だったと)。
 かつてのイラクのように独裁軍事政権の国の国家の主権をどのように考えるかというテーマに移り、最後は「民主主義そのものが衰退してきたのか、アメリカ型民主主義が否定されているのか」というテーマになった。ハーバード大の1人から民主主義が格差を解決してこなかっため、ポピュリズムを許し、権威主義や独裁を招いている」という主旨の発言があった。


マイケル・サンデルの白熱教室2022「民主主義への挑戦 ~コロナ~」
[Eテレ] 2022年05月28日 午後9:30 ~ 午後10:00 (30分)
パンデミックは「民主主義の弱さ」を明らかにしたのか?個人の自由や権利を犠牲にしてでも、徹底した感染対策を取るべきだったのか?日米中の若者たちと議論を交わす。

 パンデミックに対して、中国のように強い統制で対処し(2022年2月時点で2回以上接種88%)死者数(人口当たり)が少ない国(100万人当たり3人)、アメリカのように接種率が低く(同65%)死者数(人口当たり)が多い国があった(同2801人)。民主主義はパンデミックのような危機に弱いのかというテーマ。

(ナレーション)個人の自由や権利を尊重する欧米の民主主義国では行動の規制がままならず対策が遅れ、被害の拡大が目立ちました。一方で政府が強い権限を発揮した国では徹底した感染対策によりパンデミックを抑え込むことに成功しています。

パンデミックは民主主義の弱さを示したと思う→
アメリカ3人、日本5人、中国6人、
民主主義の弱さを示していないと思う→
アメリカ3人、日本1人、中国0人、
(サンデル)専制国家のほうがアメリカよりもパンデミックに上手く対応したのか

(ハーバード大学生ナンシー)確かにアメリカよりも上手く対処した専制国家もあると思います。でも全体として見れば必ずしも民主主義国より専制主義国のほうが上手く対処したとは言えないと思います。例えば民主主義国であるドイツやニュージーランドはアメリカよりはよい結果を出しています。そうなると民主主義国の代表としてアメリカを例にとるのが果たして正解なのでしょうか。アメリカの場合、パンデミックの対応で問題となったのは民主主義を原因とすることよりは、文化に原因があると思います。アメリカ人の個人主義的傾向のことです。そして付け加えるなら専制主義国は統計に不正を働き、死亡者数などを低く抑える傾向が知られています。だから彼らの統計を信じてよいのかという問題もあると思います。民主主義と個人主義は違うことのように思います。民主主義のほうが個人の権利が尊重されやすいですが、アメリカよりももっも集団や共同体を重視する民主主義もあり得ると思います。
(同ジェームス)アメリカとほかの国の統計値の差は民主主義とはあまり関係なく、むしろ個人の自由という概念と関係していると思います。アメリカには個人の自由を、「行動の縛りが一切ないこと」というふうに捉える発想が目立ちます。アメリカの徹底した個人主義というやつです。一人一人が独立した原子のような存在で、共通の社会的責任からも自由であるような発想です。社会的なうながりには目もくれずひたすら個々の目標のみを追求する、それが個人の自由なんだという考え方です。そうした考え方が統計の差にあらわれていると思います。お互いに対する責任感がないので、ワクチン接種もしないしマスクもつけません。
(復旦大学フン)まず、私はさまざまな国を民主主義国家か専制主義国家かで区別するのは物事を単純化しすぎていると思います。ナンシーが言っていたように、民主主義国家にはパンデミックへの対処がうまくできた国もあればできなかった国もあります。そういう意味でアメリカがパンデミックへの対応をうまくできなかったのは、個人主義のせいだという意見に私も同意します。私の考えでは民主主義は国民全体の利益を目指すものとして定義されるべきだと思います。その定義から考えると個人主義では全ての国民の共通の利益を追求できません。だからそれは民主主義ではありません。そして個人主義は民主主義をポピュリズムに導くものだとも言えるのではないでしょうか。私はポピュリズムも本当の民主主義ではないと思います。
(同スン)(前略)アメリカでは科学者が人々のために行動していると思われていません。中国人の多くは科学者の言うことを聞く傾向があると思います。科学で国民全体の利益が守られるように中央政府の指導にも従います。だから中国では科学への信頼があると言えると思います。
(東京大学ケイ)科学に対する信頼を損なうような民主主義の装置がポピュリズムという形で誕生してしまったところに一番の問題がある。

(ナレーションと映像)ワクチン接種やワクチンパスポートの義務化を巡る大規模な抗議デモ。1/22パリ、1/23ワシントン、1/23ブリュッセル、2/8カナダ(アメリカとカナダを結ぶ国境の橋がトラックで封鎖された。デモ参加者の1人が「私の体にワクチンを打つかどうかは私が決める問題だ。政府に決められてたまるか。」と。警察が大型トラックを撤去するまで7日間にわたり通行が遮断。)

(サンデル)抗議デモは民主主義の強さなのか弱さなのか→強さ(アメリカ3人、日本2人、中国0人)、弱さ(アメリカ1人、日本4人、中国5人)(ということは無回答はアメリカ2人、日本0人、中国1人)