化粧待ち 完全版 | 山田小説 (オリジナル超短編小説) 公開の場

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アメーバブログにて超短編小説を発表しています。
「目次(超短編)」から全作品を読んでいただけます。
短い物語ばかりですので、よろしくお願いします。

 「また口紅がはみ出したわ」
 
 「鏡に映る情景は現実世界の左右と上下を正確に反映しているけど、必ず前後が逆転するんだ。もし同じ方向を見て並び立っている二人の人間の片方が位置を変えて縦方向に並ぼうとした場合、横回転も縦回転もせずに正面で対峙するという事は人体の構造上あり得ない。でも、君はそんな不自然極まりない現象が起こっている鏡という物を参照しながら化粧をしている。だから口紅がはみ出すんだよ」
 
 「ややこしい話ね。でも、あなたの言う通りだとすると文字の場合はどうなるのかしら?鏡に映る文字は確実に左右が逆転しているわ」
 
 「わかってないね。文字は最初から人間の正面にある時に読めるように書かれているんだ。それを鏡に映す為に人間と同じ方向に置く場合、横回転で移動させれば左右が逆になるし、縦回転で移動させれば上下が入れ替わる。そして、僕達は地面を歩行しながら生活している。それは人間の視界にとって横回転を伴う行動だろう?だから僕達は鏡の中では文字の左右が逆転すると思い込みがちなんだよ」
 
 「あら、そうなの。でも、そんなに難しい事を考える暇があるなら化粧を失敗しない方法でも考えてほしいものだわね」
 
 「残念ながら化粧に関しては僕はまったくの素人だよ。それに、そんなに真剣に化粧している最中に耳に入れると不快かもしれないけど、僕は素顔の君の方が好きなんだ。前から何度も言っている事だけどもね」
 
 
 
 「でも、やっぱりおかしくない?」
 
 「何が?」
 
 「だって鏡の中にいる私は右手が左側にあるわ」
 
 「そんなはずない。右手は右側にあるはずだよ」
 
 「あなたには相手の立場から物事を考える習慣がないの?」
 
 「相手?ただの光の反射だよ。そんな事よりも化粧はいつ終わるのかな?」
 
 「急がせないで」
 
 
 
 「私達は別れるべきよ。一切の関係を解消すべきだわ」
 
 「いきなり何を言い出すのかな?」
 
 「今の会話でわかったのよ。鏡に映る自分の姿が光の反射でしかないという意見は正しいでしょうけれど、その考え方には本来あるべき思い遣りが抜け落ちているわ。私は相手を尊重しない人間とは付き合っていたくないの。対面した相手の心情とかを反射的に気遣えない人間との関係を継続していくのは苦痛が伴うからよ。鏡の中で前後が逆転しているとか、そんな事柄は重要ではないの。私にとっての切実な問題はあなたの人格が倫理の根幹に関わる部分を欠如させているという点よ。もう化粧が終わるのを待つ必要はないから今すぐに出て行って。さようなら」
 
 「わからないな。確かに、僕にはわからない。それが相手を気遣える人間の吐く言葉かな?結局、僕達は似た者同士だね。もしも僕が誰かを気遣うとしたら、その行為が最大限に成功する相手が君かもしれない。実際、今までは首尾良く付き合えていただろう?そう思わないかな?」
 
 「そうかもしれないわね。でも、お互いの欠陥がこうして明るみに出た以上、あなたとの関係をこのまま継続させると苦痛が二重になるでしょうね。二重が二人分で四倍かしら?そんな単純計算が人間関係に適合可能かどうかは疑問だけど。或いは、似た者同士だからこそ単純極まりない計算をそのまま当てはめられるのかしらね?いずれにしても苦痛が他の要素と中和される事がないまま量だけ四倍に増加するなんて事態はなるべく避けるべきよね?」
 
 「それで、化粧はいつ終わるのかな?」
 
 「出て行って」