△△は自分自身の出自と現状に対して痛切な悲嘆を抱えながらも、あまり広くはない檻の内側を淡々とした調子で泳ぎ続けていた。本能に任せて全身の筋肉を規則的に動かしておけば絶対に溺れる心配がないという強い確信が胸中にはあった。そもそも彼の肉体は海中での生活にこそ適しているのだった。しかし、△△としてはその身体上の現実がとても悲しいものであるように思われて仕方がなかった。時折ふと自分が人類の一員として生活していた頃の記憶を思い返し、懐かしさのせいで目頭に相当する意識内の一部分が瞬時に熱っぽくなるように感じる事があったが、実際には涙腺どころか眼球さえ存在していないのだった。
研究所の建物内に整然と並べられた幾つもの檻の中には様々な種類の下等生物が大抵は一匹ずつ収容されていた。彼等の肉体には何本もの細い管が差し込まれていて体調や脳波などに関する恒常的で綿密な情報がコンピューターへと伝達され続けていた。実験用動物の管理を担当する部署の責任者達は下等生物達の健康状態をできるだけ正確に把握しようと努めていた。この研究所で行われている一連の実験の成果次第では、自分達の生活範囲が陸上世界にまで拡大する可能性があるという認識を彼等全員が共有していたのだった。しかも、それに伴って視覚や聴覚といった未知の感覚機能を獲得する事にまで成功した場合、文明社会全体に対して甚大な影響を及ぼす事が確実視されていた。その変革は彼等の歴史がかつて経験した事がなかった程の、凄まじい規模の刷新になるはずだった。そして、研究者達は数多の同族から寄せられてくる熱い激励によって一様に自尊心と意欲を駆り立てられながら、整然と並べられた檻から送信されてくる膨大な情報の分析に邁進していた。
檻の内側における生活があまりにも退屈だったので、△△は自分自身の過去に起こった印象的な出来事を何度となく反芻して思い出していた。ただ、食物連鎖の一角に位置する卑小な存在として深海の野蛮な環境を必死で生き抜いていた日々に関しては、呼び起こせる記憶が何一つなかった。まだ下等生物に相応しい小さな頭脳しか持ち合わせていなかった時期に体験した出来事は、すべて過ぎ去れば即座に記憶から抹消されていたのだった。そして、思い出せる限りの最も古い記憶は、研究員達の一味に捕獲されて頭部に改造手術を受けた直後から開始されていた。その時から△△は下等生物としての領域を軽々と踏み越えるような知能を会得する事になったのだった。そして、それは実に爽快な気分を伴う体験だった。
研究員達は頭部への手術が成功した事を確認する為に、数日間に渡って幾種類もの緻密なテストを繰り返して受けさせた。厳格な審査基準を克服できなかった下等生物達は、実験材料として不適格な存在であると判定されて容赦なく処分されていった。研究員達は無駄な抵抗を防止する為に、常に強化型バイオスーツを着込んでいて、数種類の武器まで携帯しているのだった。そして、自分達の絶対的な優位性を誇示してみせる目的で、時として脈略もなく理不尽な暴力を振るってみせる事があった。周囲の海水に混入した大量の体液を感じ取ると、それまで反抗的な態度を取っていた実験用の動物達も途端に従順になるのだった。
この実験の目標は、陸上の環境に適したバイオスーツを開発し、新しい世界に対応した魅力的な生活形態を掲示してみせるという事にあった。その為に研究員達は、コンピューターの内部にこの惑星の陸地を想定した精密な仮想世界を作成していた。それに、既に数百パターンもの陸上用バイオスーツをデザインしていた。人類もその過程で考案された形態の一種で、早い段階から商品化の有力候補になっていた。それと同時に、視覚や聴覚などを利用した言語や文字が次々と考案されていった。交通機関や芸術表現などについても、海中とはまるで別種の形態が必要になってくるはずだった。そして、彼等は自分達の想像力を補佐させる目的で、知能を高めた下等生物に疑似現実の陸上世界を体験させて意見を聴取するという手法を採用する事にした。商品開発の様々な段階において、動物実験という手法は避けて通ることができないのだった。
知能向上手術の成功が確認されると、次はコンピューターの中に設定された疑似現実の世界に潜入する段階へと移行した。△△は二本の足でバランスを取りながら陸地で直線的に歩行する方法などを強制的に厳しく調教される事になった。知識に関する記憶については、脳の機械部分に外部から追加情報を続々とプログラミングしていく事が可能な仕組みになっているので、既に彼は研究員達が発してくる言葉の意味をほとんど支障なく理解できる状態にはなっていた。そして、その訓練を受けている間、△△は常に優秀で従順な生徒であり続けた。研究員達から受ける暴力を心の底から畏怖していたので、余計な対話を試みずに、ひたすら教えられた内容を習得するべく努力を積み重ねていった。
それに、そもそもコンピューターの中に作り上げられている人間という架空の陸上動物は、その外見上の形状において△△との類似点が幾つも存在していた。特に、身体の中心に一本の背骨が通ってるという点や、表面にやわらかな箇所が多いという点などに親近感を持てるのだった。しかし、もちろん人体には彼の肉体には備わっていない器官や関節などが多数あるので、完璧に順応するまでには多大の労苦を強いられた。特に顔面の筋肉や声帯を操作する場合には細心の注意が必要になった。慣れない間はかなり集中力を高めなければ自分自身がどのような表情を浮かべているのかという事がまるで把握できないのだった。
△△は一連の訓練を受けている間、ほとんど連続して疑似世界の中に滞留し続ける事を強要されていた。そのせいで本来の肉体に根ざしている感覚は自然と忘却されていき、自分自身の本性をゆっくりと見失っていくように仕向けられたのだった。実際、彼の記憶は操作されていた。そして、遂に△△はコンピューターが作成した様々な人物達とも自在に会話できるようになった。相手の笑顔を見て素直に心が和み、罵声を浴びせ掛けられると本気で腹が立つという具合だった。それはもはや本能的な反応と称せられる領域に到達していた。彼は与えられた人体と完全に親和した。音声言語に関しても的確に聞き取る事が可能になっていた。
人間としての日々を送っていた長い一生涯の間は、自分がかつて下等生物だったという記憶を完全に剥奪された状態になっていた。そして、人生という単語で呼び表されていた長い時間が終焉して本来の肉体に戻らされた時、△△はそれまでの体験がすべて現実ではなかったという認識を得て強烈な衝撃を受けた。意識内に思い起こせる視覚的な光景がどれだけ鮮明だったとしても、それらはことごとく虚構の産物なのだった。その事実に接して彼はひどく混乱させられた。死亡する間際にはまだ生きていたいという痛切な願望を抱いていたが、かといって人間としての自分を否定してまで延命したいとは考えていなかったのだった。
△△は自分自身が辿っている運命を激しく呪詛した。知能が低い下等生物のまま大型捕食動物の餌にでもなっておけば、これ程の悲しみを経験せずに一生を終えていたはずであると考えていた。そして、彼は複雑に絡み合っている自分自身の記憶を心の底から嫌悪し、生きていく意欲を急速に失っていった。檻に収容されてからの数日間、その肉体は床に横たえたまま少しの動作も起こさなかった。自分が実験用動物として処遇されているらしいという事実に直面した瞬間も、ほとんど反感を抱かなかった。また、肉体に細いチューブが差し込まれている最中も、研究員達の態度や行動に対しては完全に無関心で、全く抵抗するような姿勢を取らなかった。彼の心はどこかに吹き飛ばされたかのような状態になっていて、少なくとも現状の自分自身に対しては関心を失っていた。
ただ、人間という架空の動物に関する個人的な見解や感想などを研究員達に報告している間だけは、一時的にしても悲嘆に満ちた心境から逃れていることができた。△△は形状言語をほんの初歩しか操ることができないので、研究員達との意思伝達については、コンピューターが作成した架空の人物との仮想現実内での対話という間接的な形式で行われる慣習になっていた。つまり、その作業に従事している最中だけは人間としての自分自身を再体験できるのだった。そして、新しい日々の中にも定期的にこのような喜ばしい時間が用意されているという事に気付くと、△△の精神は徐々に本来の活力を取り戻していった。それと比例するようにして、食事や運動の量も着実に増えていったのだった。
△△は実験の最終的な目的や意義については何も教えられていなかったが、それでも研究員達からの要請には可能な限り誠実に応えるように心掛けた。彼には一つの思惑があった。人間として死にたいという願望を抱えていたのだった。その為には再び疑似現実の世界に舞い戻り、実験用動物としての忌まわしい記憶を頭の中から完全に抹消してもらう必要があった。そして、その夢を実現させる為に、△△は不本意な心境ながらも協力的な姿勢を取って、研究員達の心証をなるべく良くしようと努力したのだった。もちろん聴取の合間にも何度となく口頭で自分の要望を訴え掛けていたのだが、彼等はなかなか取り合おうとしなかった。
しかし、それでも表面上の従順な態度を崩さずに根気強く実験に付き合っていると、しだいに研究員達の方でも△△の存在に注目し、好印象を抱くようになっていった。徐々に彼の人生体験に関する事柄以外の情報についても意見を求めてくる機会が増えていったのだった。音楽や絵画といった新しい芸術形態の作品を鑑賞させて感想を問い掛けてくる事もあった。それに、聴取の頻度自体も着実に増加していったのだった。そして、彼はそれらの作業を半ば楽しみながら積極的に自分の見解を研究員達に伝えていた。
初期の動物実験においては、仮想現実の世界から帰還して本来の肉体に再順応する時点などで、精神面に深刻な変調を起こして再起不能の状態に陥る被験者がかなりの確率で出ていたが、同じ経験を何度となく積み重ねていく事によって、研究員達は実験の各段階における熟練度を急速に向上させていった。陸上生活への順応性が優れた種類の下等生物を選定し、その教育手法についても、より高い完成度を目指していったのだった。その為に、△△のような先行被験者から得られる意見はとても重宝された。そして、そのような作業に取り掛かっている間に、研究の内容はしだいに動物実験の段階を終了させようとしていた。
ある日、△△の命を絶つ決定が下された。重い病気を患ったので、他の実験用動物達への感染を憂慮されたのだった。その頃には既に彼も高齢になっていて体力の減退が顕著になっていたので、自然に治癒する見込みは薄かった。それに、かつて手術によって獲得した高度な知能もすっかり衰えていたので、実験材料としての価値が著しく損なわれていたのだった。研究員達はもはや延命処置を施すだけの価値を見出さなかった。たくさん並べられた檻に一つでも空室が出来れば、そこに若くて有能な被験者を即座に補充できるのだった。
今では△△はもう完全に時代遅れの存在になり果てていた。どれだけ熱心に協力的な態度を示したとしても、種々の問題に関する意見を求めてくる研究員は稀にしか現れないようになっていた。音楽は彼の感性を超越した音色と旋律を響かせるようになり、絵画においても色彩の増加によって彼の認識力が及ばない作品が生み出されていたのだった。そして、△△の存在は研究員達の間でゆっくりと忘れられていき、重い病気に感染するまで重要視されなくなっていたのだった。
研究員達は自分達が下した決断を宣告せずに、ただ遂行した。△△としては、死は少なくとも二度目の体験だった。猛毒が全身を駆け巡り、ゆっくりと薄れていく意識の中で、彼は自分の肉体から生命が失われていくという事実をはっきりと認識した。しかし、その切迫した状況においては、もはや自身の運命に対する憐憫にも、研究員達への怨念にも、まるで無頓着な心境に至っていた。△△はかつて二本足で散歩した街路の風景をふと思い出し、その遠い過去の記憶をなるべく明瞭に頭の中に蘇らせようと試みてみた。そして、もう一度だけでもいいから暖かな陽光を全身に浴びてみたいと望んだが、その次の瞬間には既に意識が暗転していたのだった。