こんにちは
前回の記事では 旧約聖書の内容を 取り上げました。
その中でも いわゆる ”アダム と イヴ” による 説話は・・・
ある意味 ”おとぎ話” としての 物語であり・・・
”何も 役に立たない” などと 考える人々も 多いわけです。
しかし その内容は 人類に対する ”重要な指針” を 意味しているのです。
つまり 旧約聖書での ”創世記の内容” とは・・・
私たちが この世界に なぜ ”人間” として 生まれてきたのか?・・・
その ”理由” を わかりやすく アダム と イヴ によって 示しているのであり・・・
さらには 私たちが 今後の人生で・・・
”何を 目指すべきか?” ということも ”暗示” されているのです。
今回の記事では 前回の記事の内容を 踏まえつつ・・・
私たちにとっての ”善・悪(ぜんあく)” の 存在理由について 考えます。
私たちは なぜ この人生で ”悪(あく)” を 排除して・・・
限りなく ”善(ぜん)” を 行わなければ ならないのか?
その ”明確な理由” を 私たちは ここで 理解する 必要があるからです。
では 前回の記事でも ご紹介した 旧約聖書の内容から・・・
その ”重要な部分” を ここで 抜粋いたします。
それが 以下の内容です。
『 ふたり (アダム と イヴ) が・・・
この ”善・悪を知る果実” を 口にした 結果・・・
アダム と イヴ の ”無垢(むく・純粋性)” は 失われてしまい・・・
自分たちが ”裸” であったことを ”恥ずかしい” と 感じるようになり・・・
それぞれの ”局部” を ”イチジクの葉” で 隠すようになった。 』
アダム と イヴ は かつて ”楽園” と 呼ばれる・・・
”神” と ともに 生きられる世界に 存在していました。
そこでは ”善・悪” という ”区別もない” ような・・・
極めて ”純粋な世界” で 生きることが できたのです。
それで 彼らは ”裸” であっても 何も 問題は ありませんでした。
しかし アダム と イヴ は・・・
神が 食べることを 禁じていた ”善・悪を知る果実” を・・・
自分たちを 守ってくれていた ”神の意思” に 背いて 食べてしまいました。
それが 意味することは アダム と イヴ が・・・
”人間としての欲望” を 抑えきれずに ”思いのままに生きる” ことで・・・
結果的に 自分自身を ”苦しみの世界” に 導くことになった ということです。
それによって これまで ”純粋性” を 保っていた ふたりは・・・
”悪の意識” というものが 発生してしまい・・・
自分自身が ”裸” で あったことを ”恥じる” ようにも なったのです。
それは 人間は もともと ”純粋な幼児の時期” には 感じないのに・・・
”大人” に なるにつれて ”恥ずかしい” と 感じ始めることに 似ています。
つまり 私たちが ”恥ずかしい” と 感じることは・・・
私たちに ”善・悪の概念” が 発生することで 起こるわけです。
しかし それは もともとは ”不必要な概念” なのです。
私たちは そのような ”不必要なもの” によって・・・
毎日の生活で ”縛られている” のです。
つまり 私たちは 事実上 ”不自由な状態” なのです。
しかし 私たちは そんなことにも 気づくことがなく・・・
一生の間 ”不必要” なことで ”苦しまされている” ということを・・・
まったく ”自覚できない” という ”不幸な状態” で いるわけです。
では 人類の 起源とされる アダム と イヴ は・・・
”楽園” に おいて 何を やってしまったのか?
それは 彼らが この世界の ”悪” を ”発生させてしまった” ということです。
神が 警告していた ”善・悪を知る果実” を 食べてはならない というのは・・・
おまえたちは ”悪” を 知らなければ ”善” も 知ることもない・・・
つまり ”善・悪という概念” も ”発生しない” ことを 意味していました。
私たちが 現在 生きている ”人間社会” というのは・・・
世界中の あちこちで さまざまな ”悪” が 発生しています。
先日も 日本社会では ”凶悪” な ”放火殺人事件” が 起こりました。
そして 私たちは そのような ”悪を行う人間” を 怖れ続け・・・
毎日を ある意味 ”びくびくして” 生きることを 強いられています。
それだけでも 人生とは ”苦しみの連続” であると 考えられます。
そのような 状況の中で 世界の 主要な宗教では・・・
この人生で ”善(ぜん) を 行いなさい” という 教義が 示されています。
これは いったい 何を 意味するのか?
それは ”悪” と ”対義” である ”善” を・・・
自分自身の 努力によって それを ”限りなく積む” ことによって・・・
自分自身の ”悪” が ”相殺(そうさい)” されることを 意味します。
つまり 私たちの ”もともとの悪” を・・・
この人生で ”善を行う” ことによって ”消し去る” ことで・・・
私たちが ”もともといた場所” としての ”楽園” へ・・・
”戻れる資格” が できることを 意味するわけです。
その ”楽園” というのが・・・
いわゆる ”天国” や ”極楽浄土” なのであり・・・
宗教では そのような ”具体的な目標” を わかりやすく 説いているわけです。
では 私たちは この宇宙の中で ”もともといた場所” とは どこか?
それは ”善・悪” という 概念も まったく ”存在しない” という・・・
完全なる ”中立の世界” を 意味していることが 考えられます。
そこは ”悪” が 渦巻くような ”人間世界” とは・・・
まったく ”別世界” である ”異次元の世界” なのです。
このブログでは その ”異次元の世界” についても 考えて参りましたが・・・
実は それは 私たちの ”身近” に 存在する・・・
”原子・素粒子の世界” を 考えると 極めて ”現実的” に 理解されてきます。
私は そのことを 原始仏教である ”ブッダの教え” から 理解できましたが・・・
さらには 仏教における ”般若心経(はんにゃしんぎょう)” からも 理解できます。
それは 仏教における いわゆる ”無(む)” という 概念です。
仏教の 修行者は ”無の境地” を 目指しています。
それは 主に ”瞑想(めいそう)” の 修行によって 習得されると 考えられます。
そこでは 自分自身の ”欲望” や ”邪念” を ”完全に捨て去る” ことで・・・
これまで 自分を 乱してきた ”邪魔もの” が すべて 無くなることによって・・・
”究極的” な ”平穏の境地” を 実現することが 必要になります。
それによって “視覚” “聴覚” “味覚” “触覚” “嗅覚” である・・・
あたりまえであった ”人間としての感覚” も ”無用” となり・・・
すべてが ”無” という 境地に なるわけです。
つまり そこには ”善・悪” という ”区別もない” のであって・・・
まさに ”人間のレベル” ではない ”異次元のレベル” に 到達するわけです。
その状態が 仏教における ”悟りの境地” であると 考えられます。
私たちが その境地に 到達できると どうなるのか?
それは 自分自身が やがて ”死” を 迎えた時に・・・
自分自身の ”肉体が滅び” すべてが ”分解” されたときに・・・
それによって 自分自身を 構成していた ”原子・素粒子” も・・・
この世界に ”解放” されるわけです。
そして それぞれの ”原子・素粒子” は・・・
やがて 宇宙の中で ”再構成” を 始めることに なりますが・・・
その場合 もし 自分自身が ”悟りの境地” に 到達していれば・・・
自分自身は ”人間” に ”再構成されない” ことが 実現されるのです。
つまり この 宇宙の中で 自分自身は・・・
”人間” として ”苦しまなくて済む” ことが 可能になると 考えられます。
私たちは もともと ”無垢(むく)” と 言われた・・・
この 宇宙の中での 極めて ”純粋な存在” だったようです。
その ”純粋性” が 意味することは 何か?
それが ”原子・素粒子” そのものの ”純粋性” であることが 考えられます。
そこでは ”人間の肉体” における ”恥ずかしい” という 概念も ありえず・・・
”人間” としての ”善・悪の行動” も 起こすことが ありません。
私たちが なぜ この世界に ”人間” として 生まれてきたのか?
それは 私たちが 生まれてくる前の ”前世” において・・・
何かしらの ”原因” によって 何かしらの ”生命体” として 生きてしまい・・・
そこで 決定的な ”悪” を 発生させて しまったようです。
その結果 この世界で ”人間” として 生まれる ことになり・・・
私たちは この人生で ”善” を 積むことが 必要になったのです。
これが 私たちの ”人間としての宿命” であると 考えられます。
つまり 私たちは 今後の人生で ”何を しなければ ならないのか?”・・・
そして ”何を しては いけないのか?”・・・ ということを・・・
ここで ”正しく 判断する” ことが 重要です。
それゆえに 旧約聖書での ”創世記の内容” というのは・・・
私たちが いったい ”どこから 来たのか?”・・・
そして これから ”どこへ 行くのか?”・・・ ということの・・・
人類にとっての 極めて ”重要な指針” であることも 理解されてきます。
このように 私たちは 自分自身の ”人生設計” を する上では・・・・
自分自身の ”前世” や ”来世” も 考えることが 重要です。
その意味は 自分が この人生で・・・
”なぜ 苦しむのか?” という ”重要な問題” に 直面した時に・・・
”現世だけの出来事” で 考えていても 理解することが 難しいからです。
そして 今後 ”人間” としての ”苦しみの現実” から・・・
どうすれば ”脱出” することが できるのか?
その ”有効な方法” も 自分自身で 理解することが 必要なのです。
そのために 私たちは 仏教や キリスト教の ”貴重な教義” を・・・
この人生で ”地道” に ”実践する” ことが 重要であると 考えられます。
皆様も 今後の人生で・・・
”新たな罪” や ”さらなる罪” を 犯すことなく・・・
そして 自分自身を ”地獄世界” に 導かない ためにも・・・
宗教的にも 重要な ”旧約聖書の内容” も 今後の人生に 役立てることで・・・
ご自身を ”本当の楽園” に 導かれてみては いかがでしょうか?
(※) ”般若心経” の 内容について ご紹介しました・・・
”般若心経の内容② ~無とは~?” 記事は こちらから お読み下さい
”感情 や 感覚 は 無意味 になる” 記事は こちらから お読み下さい
さらに ”原子・素粒子” についての 内容である・・・
”原子・素粒子 に 魂(たましい)が ある” 記事は こちらから お読み下さい