こんにちは わんわん



私たちが 誰かを ”愛する” ということは・・・

 

人間としての  ”正しい生き方” であると 考えられています。

しかし 前回の記事では ”愛欲” というものは・・・

私たちを ”地獄の入り口” へ 向かわせる と 書きました。

これは ”ブッダの教え” によって 知ることができる・・・

私たちにとっての 大変に 厳しい ”現実” で あるようです。雷




これまで 私たちは・・・

誰かを ”愛する” ことが 重要であると 教えられてきました。

それは なぜか? といえば・・・

それによって この世界が ”平和” になると 考えられるからです。虹




もし この世界が ”平和” でなければ・・・

人間同士が ”争い” を 始めることになり・・・

その結果 ”殺し合い” が 続くことになります。

それは まさに ”地獄世界” であり・・・ドクロ

人類の歴史では それが ”繰り返される” ことに なりました。

そして そうならないためにも 人間同士が ”愛する” ことが 必要であり・・・

私たちは まず 誰かを ”愛するべきである” と 教えられたのです。ドキドキ




しかし ブッダは ”愛執” や ”愛欲” というものが・・・

自分自身を ”人間” に ”縛りつける” ことになり・・・

その結果 ”人間としての苦しみ” にも ”縛りつける” と 説きました。雷




そして 私たちは なぜ この世界で ”苦しむ” のか?

その ”原因” は 私たちの さまざまな ”欲望” なのです。ラブラブ

つまり 私たちが ”人間” で あり続ければ・・・

自分の意思に 関わらず 向こうから ”苦しみ” が やって来ます。

そんな ”危険な状態” が・・・

私たちが 現在 置かれている 状態なのであり・・・

そこから ”脱出” すべきである というのが ”ブッダの教え” なのです。星




では 私たちが 今後・・・

どのように ”他者” と 関わってゆくべきなのか?

それを ”端的な言葉” で 表現すれば・・・

それは ”無愛想(ぶあいそう)” という 言葉かもしれません。

そして それが 仏教の開祖であった ブッダが 意図していた・・・

人間にとっての ”本物の愛” の 表現法であるとも 考えられるのです。目




それは 原始仏典スッタニパータ の 冒頭の ”注釈” にも 書かれています。

(第一章 蛇の章 の 注釈より 抜粋)



”修行者”・・・

”乞う者” の意味。 漢訳では ”比丘(びく)” と 音写する。

当時の インドの諸宗教では すべて 家を出た 修行者は・・・

”托鉢(たくはつ)” によって ”食物” を 得ていたので このように言う。

”在家の人々” は 修行者に ”最上の敬意” を 示して 食物を 捧げるが・・・

修行者は ”平然” として これを受け・・・

 

まったく ”挨拶(あいさつ)” を ”返さない” 。本
 



この様子は 現在でも 東南アジアなどでの ”原始仏教” が 生きづいている・・・

”上座部仏教” での 修行者たちが 続けている ”しきたり” です。

最初に 私が このことを 知った時には・・・

なぜ 自分に ”生きる糧(かて)” を 施してくれた 信者に対して・・・

ある意味 ”無愛想な態度” を とるのか 全く 理解できませんでした。

しかし 私が ”ブッダの教え” を 実践してゆくと・・・

このような ”無愛想な態度” の ”真意” が わかってきました。ひらめき電球




それは 人間とは・・・

自分に対して ”良くしてくれる” 相手には・・・

いわゆる ”愛着の念” が 発生するものです。ラブラブ!

そして その逆に 自分に対して ”悪くする” 相手には・・・

”嫌悪の念” さらには ”憎悪の念” が 発生します。プンプン

そこで 私たちは ”好き・嫌い” が 発生することになり・・・

そこから 人間を ”区別” そして ”差別” することが 始まるのです。OK NG




そうなると 人間の ”心理状態” は どうなるのか?

それは ”場合” によって ”変化” することになり・・・

その状態は ”動揺” を 意味することになります。波

それが ブッダが 目指す ”ニルヴァーナ” という ”平穏の状態” ではなく・・・

その ”反対の方向” へ 進んでいることを 意味するわけです。ガーン




そうならないように 私たちは どうすべきなのか?

それは 私たちは 誰であっても・・・

”同じように接する” ことが 必要なのです。

だから 自分に ”生きる糧” を 施してくれる人 で あっても・・・

そこに ”特別の態度” は あってはならず・・・

”平然” として ”特別の挨拶” も 行っては ならないのです。

それも 修行者にとっての ”修行の方法” であると 考えられるのです。クローバー




つまり 修行者が 仮に ”無愛想な態度” を とっていたとしても・・・

そこには 他者を ”ないがしろ” に しているわけではなく・・・

”他者すべて” を ”平等に扱う” ことの 現れであるのです。てんびん座




”他者” とは・・・

この世界に生きる ”すべての人間” なのであり・・・

私たちは この人生で ”すべての人間” に ”出逢う” ことは 不可能です。

つまり すべての人間に ”挨拶” することも・・・

さらには ”愛想” を ふりまくことも できません。

だから もし すべての人を ”平等に扱う” のならば・・・

今 ”会っている人” に 対しても・・・

”挨拶しては いけない” ということに なるのです。得意げ




そして 私たちが すべての人間 を ・・・

”平等に扱う” ことが できると どうなるのか?

それは すべての人間 を ”平等に愛する” ことが できるようになるのです。

それを 仏教では ”慈悲のこころ” と 表現されています。(※)

それは 生きとし 生けるもの ”すべて” を ”愛すること” なのです。ドキドキ




そこでは 生き物同士が 決して ”争う” こともなくなり・・・

私たちは このような ”境地” に 到達することが・・・

この世界での ”本当の意味” での ”平穏の境地” であると 考えられるのです。虹

これこそが 私たちが この人生において・・・

到達すべき ”人生の目標” であると 考えられるのです。目

 


しかし 皆様も これまでに ご経験があるかとも 思われますが・・・

いわゆる ”恋愛感情” というものは・・・

ある日 ”突然” に やってくることがあります。

それは 自分が 意図しているわけでもなく ”向こうから” やってくるわけです。

そのことを まるで ”交通事故” と 表現することもあります。

そうなると 自分では ”どうしようもない” と 考えることもあり・・・

そこから ずるずると ”愛欲の世界” に 浸ることも ありがちです。恋の矢




しかし それも 自分自身が 日頃から・・・

”愛欲” への ”願望” が あるから そうなるようです。ラブラブ

そして 向こうから ”愛欲の対象” が 現れてしまえば・・・

そこに ”簡単に乗る” ことで ”愛欲の世界” へ 入ることになるのです。

そして そこから 私たちは ”愛欲の苦しみ” も 始まることになります。しょぼんあせる




では 私たちが もしも そうなった場合に どうすべきなのか?

それは ”愛欲の対象” を ”特定しないこと” が 必要のようです。

つまり 誰かを ”好きになる” ことがあっても・・・

その人だけに ”特定しない” ことが 重要です。ひらめき電球




それが 何を 意味するのか?

それは 私たちが ”人間すべて” を・・・

”平等” に ”愛する” ことの ”出発点” に なります。

それこそが ブッダが 人類に 示していた・・・

”本物の愛” への ”出発点” であると 考えられるのです。目




”愛欲” というのは・・・

人間同士が ”接触” することで ”快楽” を 得ることを 目的にします。ラブラブ

それゆえに 私たちは 仮に ”愛欲の対象” が 現れても・・・

特に ”肉体的” に ”接触しない” ことが 必要になります。

ゆえに ”愛” とは 私たちが これまで 考えてきたような・・・

”特定の個人” との ”接触による快楽” を 目的にするものでは ないのです。ラブラブ バツ




つまり ブッダが 示していた ”愛” というものは・・・

”特定の個人” を ”愛する” ことを ”やめさせる” ことで・・・

それによって これまで ”不可能” と 考えられてきた・・・

”すべての人間” を ”愛する” ことで 実現される・・・

”本当の意味” での ”世界平和” も・・・

”自動的” に 実現されることを 意味していると 考えられるのです。虹




前回の記事でも 考えましたが・・・

私たちが ”特定の個人” を ”愛する” ことは・・・

やがて その人を ”守りたい” という 理由によって・・・

誰かを ”殺してしまう” という 状況にも 導かれます。ドクロ




それが ”国家のレベル” に なれば・・・

私たちは ”愛する国民” を ”守る” ためには・・・

簡単に ”戦争” を 始めてしまうことにも なるわけです。

それこそが 私たちを 脱出できない ”地獄世界” へ 導くことになります。

それは 私たちが ”無知” で あるがゆえの ”悲劇” であり・・・

それこそが まざに ”最悪の人生” であると 考えられます。ガーン




しかし ブッダは 人間とは・・・

”特定の個人” や ”特定の国民” だけを 愛するのではなく・・・

”人類すべて” そして ”生き物すべて” を 愛しなさい と 説きました。星




そのためには 私たちは・・・

”特定の個人” に 対して ”愛想” を ふりまいている 場合でもなく・・・

”すべての人間” ”すべての生き物” を ”平等に扱う” ことが 必要なのです。 

つまり 一見 ”無愛想” に 見える 人間であっても・・・

その人の ”真心” というのは・・・

”人類すべて” を ”平等に扱う” という ”意思の表れ” である ということを・・・

私たちは ”ブッダの教え” によって ここで 知るべきのようです。ひらめき電球

 

 

 

 

また ”本物の愛” について 考える時・・・

 

それを 実践していた 実在の人を 思い出すことができます。

 

それが ノーベル平和賞を 受賞した あの ”マザー・テレサ” でした。星

 

 

 

 

彼女は キリスト教徒であり 修道女でも ありましたが・・・

 

その生涯を "飢えた人・裸の人・家のない人・体の不自由な人・病気の人・・・

 

必要とされることのない人・愛されていない人・誰からも世話されない人”・・・

 

というような いわゆる ”恵まれない人” のために 捧げました。クローバー

 

 

 

 

そして 彼女は ”宗教上” でも ”分け隔る” こともなく・・・

 

すべての人を  ”区別” も  ”差別” も することなく・・・

 

すべての人に ”平等” に 接していたそうです。

 

つまり ”マザー・テレサ” の ”愛” とは・・・

 

まさに ”人類愛” の レベルで あったのであり・・・

 

これこそが ”本物の愛” の 実践だったのです。ドキドキ

 

 

 

 

それゆえに 私たちが ”マザー・テレサ” のように 誰かを ”愛せなければ”・・・

 

それは 単なる ”愛欲” つまり ”欲望の次元” で とどまっているのであり・・・

 

それでは ”苦しみ” を ”増やすだけ” と なりうるわけです。ガーン

 

 

 


 

私たちが これまで 考えてきた ”愛” というものは・・・

極めて ”個人的” であり ”利己的” であり・・・

”不平等” な 性質としての ”愛欲” だったようです。ラブラブ

それによって 私たちは ”欲望による苦しみ” を 受けてきたようです。

私たちは ここで そのことを しっかりと ”自覚” して・・・

”欲望による苦しみ” から ”決別” すべきであると 思われます。パー






今月の このブログでは ”愛する人の死” という 重要な問題から・・・

”人間の愛” について 深く 掘り下げて 考えて参りました。

皆様も ご自身の ”愛” について・・・

”ブッダの教え” を 取り入れながら ここで 改めて お考えになり・・・

この世界での ”本物の愛” を ご探求されてみては いかがでしょうか?ニコニコ













(※) ”ブッダの教え” による ”人間愛” について 考えました・・・

    ”本当の思いやり・・・とは?” の 記事は こちらから お読み下さい星

   

    ”慈悲のこころ” の 記事は こちらから お読み下さい星