~原始仏典 スッタニパータ 第3章 第6節 サビヤより 抜粋~



533 (サビヤが 尋ねた)

 

    何によって ”すぐれた人” と なるのですか? 

 

    また いかにして ” 行いのそなわった人” と なるのですか?

 

    ”遍歴(へんれき)の行者” とは そもそも 何ですか?

 

     先生! お尋ねしますが 私に 説明してください。






535 (ブッダが 答えた)

 

    ”諸々の汚れ(欲望)” と ”執着のよりどころ” を 断ち・・・

    ”智(智慧・ちえ)” に 達した人は・・・

    ”母胎(ぼたい)” に おもむくことがない。 

 

    (生物として 生まれ変わることがない という意味です)

 



    ”三種の思い”(※) と ”汚泥” とを 除き断って・・・

    ”妄想分別(愚かな考え方・判断)” に おもむかない・・・

     かれを ”すぐれた人” と 呼ぶ。




536 この世において 諸々の ”実践” を 実行し・・・

    ”有能” であって 常に ”理法(真理)” を 知り・・・

    いかなることがらにも ”執着” せず ”解脱(げだつ)” していて・・・

    ”害しようとする心” の 存在しない人・・・

     かれは ”行いのそなわった人” である。




537 上にも 下にも 横にも 中央にも (すべてにおいての意味)・・・

    ”苦しみの報い” を 受ける行為を 回避して・・・

    (そのことを) ”よく知り尽くして” 行い (行動して)・・・

    ”偽り” と ”慢心” と ”貪欲” と ”怒り” と・・・ 

    ”名称と形態(個体のもと)” を ”滅ぼし尽くし”・・・

    ”得るべきもの” を 得た人・・・

     かれを ”遍歴(へんれき)の行者” と 呼ぶ。 





こんにちは わんわん




私たちは この世界に 生まれて・・・

何かを ”得よう” と ”努力” しています。

 

そして この人生で できるだけ ”多くのものを得る” ことが・・・

 

私たちにとっての ”生きる意味” であると 考えることが 多いようです。ひらめき電球

 

 

 



しかし それでも 私たちは いずれ ”死” を 迎えます。

その時 それまで 私たちが ”得てきたもの” を・・・

現実的に ”すべて 手放す” ことに なるのです。パーあせる

それが 厳しい ”死の現実” と 考えられます。ガーン





そして 私たちが そのことを 含めて ”自分の死” を 考える時・・・

この人生での さまざまな ”努力” というものが・・・

すべて ”ムダに思える” ことにも なってしまいます。

それで 多くの人は それを ”認めたくない” と 思うがゆえに・・・

”自分の死” を ”忌み嫌う” ことになります。

そして 実際に ”自分の死” に 直面する時・・・

そこで ”激しく苦しむ” ことが 多いわけです。しょぼんあせる
 




私たちにとっての これまで ”得てきたもの” というのは・・・

”物質的” な ”モノ” や ”お金” という ”財産”・・・家 ¥

”非物質的” な ”記憶” などが その対象です。ドキドキ

それらは 私たちが ”人間の次元” で あるがゆえに・・・

そこに ”大きな価値” を 持たせているようです。王冠1





そのことを わかりやすく 換言すれば・・・

それは この宇宙の中で ”人間だけ” にしか 通用しないものです。

つまり それは ”宇宙全体” から 見れば・・・

大して ”価値のないもの” なのです。 

皮肉にも 私たちは それらを ”手放す” ことに・・・

この人生で ”死の間際” になっても ”苦しんでいる” のです。ショック!あせる





では 私たちが どうしたら・・・

”死の苦しみ” を ”回避する” ことが できるのか?

それを 説いていたのが 仏教の開祖であった ”ゴータマ・ブッダ” なのです。

今回の記事で 取り上げる 原始仏典の内容に・・・

私たちが その方法を 知るための ”大きなヒント” が 記されています。ひらめき電球 





まず No.535の内容では・・・

私たちが 人間としての ”汚れ(欲望)” や ”執着” を 捨て去ると・・・

”智慧(ちえ)” が 備わると 説かれています。

”智慧” とは ”真理を知ること” を 意味しています。(※)星




この内容は このブログでも 繰り返して 考えて参りましたが・・・

私たちが ”真理を知る” ”真理を悟る” という次元に 到達すれば・・・

私たちは ”死後の来世” で ”母胎” に おもむかない・・・・ 

つまり ”人間や生物” に ”生まれ変わらない” ことが 実現されるのです。  バツ 





それが 何を 意味するのか?・・・

それは 私たちの ”人間としての苦しみ”・・・

つまり ”生物としての苦しみ” からの ”完全なる解放” を 意味します。

これが ”ブッダの教え” の 基本的な 考え方です。クローバー





また ここに登場する ”三種の思い”(※) とは・・・

 

 

”欲想(よくそう)”・・・欲望のおもい

”恚想 (いそう)”・・・他者への敵意・怒りのおもい

”害想(がいそう)”・・・他者を害するおもい     の 三つを 指しています。

 

これらも すべてが ”人間としての感情” が その根底にあります。

その ”正体” は まさに ”自己中心的な考え方” であると 言えます。プンプン DASH!





つまり 私たちに これまで ありがちであった ”自己中心的な考え方” から・・・

さまざまな ”実践(修行)” を 経ることで ”脱却した者” が・・・

ブッダが 説いている ”すぐれた人” なのです。

そして その内容を 次の No.536 No.537の詩経も 受けています。

 

 

 

つまり その次元に 到達した者が ”行いのそなわった人” であり・・・

それが ”遍歴の行者” といわれる・・・

 

ブッダが 説いていた ”本物” の ”修行者の姿” なのです。星 





さらに No.537に登場する 四つの言葉について 考えれば・・・

 

”偽り” とは  ”真理でないこと” を 意味します。

”慢心” とは ”人間” であることに ”満足する” ことです。

”貪欲” とは ”人間としての欲望” を ”むさぼる” ことです。

”怒り” とは ”自己中心の感情” を ”認める” ことです。



つまり これらに 私たちが ”執着” していれば・・・

私たちは いつまでたっても ”人間” に ”縛られる” ことになります。

その結果 私たちは ”人間の苦しみ” からも ”脱出できない” のです。ガーン





そして 私たちが それらの ”執着” を・・・

自分自身の ”努力” によって ”滅ぼし尽くす” ことができれば・・・

私たちは ”人間の苦しみ” からも ”脱出できる” ことになります。

そして その ”真理” を ”知ること” こそが・・・

私たちが この人生で ”得るべきもの” なのです。目





私たちが ”真理” を ”知る” または ”悟る” ためには・・・

私たちにとっての さまざまな ”欲望” が ”邪魔” に なります。

言い換えれば それらが ”真理” を ”見えなくする” のです。

それで ”仏教の修行者” や ”他宗教の修行者” たちは・・・

日頃から ”自分自身の欲望” を ”抑える生活” を 営んでいるのです。

それが いわゆる ”清貧(せいひん)” という 生活です。(※)クローバー





それゆえに 私たちのような ”世俗に生きる” 人間であっても・・・

”清貧な生活” を 実現することによって・・・

この世の ”真理” に 到達することが 可能になると 考えられます。

それが 私たちが この人生のおいての ”本当の意味” での・・・

”得るべきもの” を 獲得するための ”最善の方法” であると 考えられます。星





私たちは これまで 何かを ”得る” ために・・・

さまざまな ”努力” を してきましたが・・・

それは 最終的に 自分自身を ”苦しめる原因” を ”増やすだけ” というような・・・

完全に ”誤った道” に 進んでいたのかもしれません。

仏教の開祖であった ブッダは そのことを 私たちに 教えているようです。ひらめき電球

 

 

 

 

 

私たちは 時として・・・

 

自分自身が いったい ”何のために 生きているのか?” ということを 考えます。

 

それは 自分自身が ”苦しみ” に 陥った時に よく 考えることです。

 

しかし 私たちは ”その次元” で ”悩んでいる” だけでは・・・

 

この人生での ”生きる意味” を ”失う” ことも 意味するのです。ガーン

 

 

 

 

 

仏教の開祖であった ゴータマ・ブッダ は・・・

 

私たちに ”その次元” で とどまるのではなく・・・

 

この ”宇宙” で ”苦しみのない存在” へ ”移行しなさい” と 説いていたのです。

 

私たちは これを 目指すことが ・・・ 

 

”苦しみの問題” の 本質的な ”解決方法” なのであり・・・

 

この人生での ”生きる意味” であると 考えられるのです。目






皆様も この機会に・・・

ご自身にとっての ”得るべきもの” とは 何か? について・・・

 

そして この人生での ”生きる意味” とは 何か? について・・・

ここで 深く お考えになってみては いかがでしょうか?ニコニコ







以上の内容が 原始仏典 第3章 第6節 ”サビヤ” の 内容でした。

この第6節には このように 大変に重要な内容が 説かれていました。

皆様も ここで もう一度 そのすべての内容を 振り返られて・・・

ご自身の 今後の 人生設計に お役立て下さい。星星星









(※) ”清貧(せいひん)” について 考えました・・・

    ”清貧(せいひん)を めざしましょう” という記事は こちらです星


    ”真理” について 考えました・・・

    ”真理 とは 何か?” という記事は こちらです星 


    ”智慧(ちえ)” について 考えました・・・

    ”智慧 とは 何か?” という記事は こちらです星





なお 次節の 第7節 ”セーラ” は 長編の一節ですが・・・ 

 

巻末の 注釈とともに 読まれれば 容易に 理解でき・・・

 

あえて 解説する 必要もない 内容ですので・・・

 

このブログでは 省略いたしますので ご了承下さい。