こんにちは
前回までの記事では 仏教での 主要な経典である・・・
”般若心経” の 内容について 考えて参りました。
そして その内容の 重要な部分 というのが・・・
”般若 波羅 蜜多(はんにゃ はらみった)” なのであり・・・
つまり 私たちが “智慧(知恵)” を ”完成させる” ことが 必要であり・・・
それによって “彼岸(ひがん)” に 到達できるという 内容でした。
その “彼岸” というのが・・・
いわゆる ”涅槃寂静(ニルヴァーナ)” であり・・・
それは “永遠” に ”平穏な状態” を 意味しています。
つまり 私たちは この人生で・・・
それを ”目標” に 生きるべきである というのが・・・
仏教における 本質的な 教えなのです。
しかし そこで 示されている “智慧(ちえ)” とは・・・
いったい どういう意味なのか? という疑問も 発生します。
そこで 今回の記事では それについて 考えてみます。
まず 私たちが 知っている “知恵” という 言葉の意味とは・・・
”事の道理や 筋道をわきまえ 正しく判断する 心のはたらき。
事に当たって 適切に判断し 処置する能力。”
などと 辞書には 記されています。
しかし 仏教における “智慧” という 言葉は・・・
厳密に言うと “知恵” という 言葉の意味では ありません。
それは どういうことか? というと・・・
仏教における “智慧” とは・・・
”空(くう)” などの ”仏教の真理” に 即して・・・
正しく 物事を認識し 判断する能力。
これによって 執着や 愛憎などの ”煩悩(ぼんのう)” を 消滅させることができる。
六波羅蜜の一つ。般若(はんにゃ)・・・などと 定義されています。
さらに ”智慧” とは・・・
物事を ありのままに把握し ”真理” を 見極める認識力。
”智” は ”相対世界” に 向かう働き。
”慧” は ”悟り” を 導く 精神作用の意・・・などとも 定義されています。
大乗仏教においては さらに・・・
”分別的な知恵” (ジュニャーナ, jñāna, 若那) を 超えた・・・
”無分別の智慧” (プラジュニャー, prajñā, 般若) が・・・
釈迦(ブッダ) の ”悟りの境地” として 賞揚され 普及された とも されています。
また ”古代ギリシャの哲学” においても それが 定義されており・・・
”実践的な 知恵・知慮” を ”プロネーシス(phronesis, フロネシス)”
”完成・完結した 智慧” を ”ソピア(sophia, ソフィア)” として 両者を区別してます。
これらの内容を 総括して 考えてみますと・・・
“知恵” というのは・・・
私たちの ”日常生活” で・・・
”正しく判断する” ための ”実践的な能力” である。
“智慧” というのは・・・
私たちが 生きている ”世界全体” を・・・
”正しく認識する” ための ”完成された能力” である。
ということが わかってきます。
私たちが これまで 考えてきた いわゆる “知恵者” というのは・・・
”人間社会で成功” できる ”能力者” を 意味していたようです。
つまり その人は 社会における さまざまな “知識” を 統合して・・・
それを ”行動” に 役立てることで・・・
”人間社会で成功” することを 目的にしているわけです。
しかし “智慧者” というのは・・・
単に ”人間社会の視野” に とどまらず・・・
”世界全体の視野” あるいは ”宇宙全体の視野” に 拡大されているのです。
私たちは 毎日の生活で さまざまな 事柄を・・・
自分自身の ”判断力” で ”分別する作業” を・・・
これまで ずっと 続けてきたわけです。
たとえば ”好き・嫌い” や “善いこと・悪いこと” などです。
これが ”分別的な知恵” によって 行われています。
そして それによって ”人間社会で成功” することも 可能になり・・・
その人は “知恵者” として 賞賛も されているわけです。
しかし “智慧者” とは・・・
この 世界全体の “真理” を ”知っている” 人間なのであり・・・
その人は 人間としての ”分別的な知恵” を 超えているのです。
つまり 人間として あたりまえである・・・
さまざまな ”分別作業” も することが ありません。
それが ”無分別の智慧” と 言われるのであり・・・
それは ”人間としての判断力” を 超越している レベルなのです。
それは ”般若心経” にも 記されていましたが・・・
私たちが ”空” (実体がない) という ”真理” を 知ると・・・
む じゅそうぎょうしき
無 受想行識 感覚も 念想も 意志も 知識もないし
む げんにびぜつしんに
無 眼耳鼻舌身意 眼・耳・鼻・舌・身体・心といった 感覚器官もないし
む しきしょうこうみそくほう
無 色声香味触法 形・音・香・味・触覚・”心のルール” といった
それぞれの器官に対する 対象もない
・・・などと ありました。
これは つまり ”人間としての感覚” も 必要がなくなり・・・
そして ”好き・嫌い” や ”善い・悪い” を 判断するための・・・
“心のルール” といった ”人間としての判断力” も・・・
まったく 必要がなくなることを 意味していたのです。
つまり 私たちは このレベルに 到達することが・・・
“智慧の完成” が 達成されることを 意味しているようです。
私たちが ”真理” を 知るとは どういうことなのか?
それが ”般若心経” にも 記されていましたが・・・
”空(くう)” という “真理” を 知ることが 条件になるようです。(※)
それによって 私たち自身も “絶対的な存在” には なり得ずに・・・
”相対的な存在” であると 認識されることになります。
つまり 私たち自身が “絶対的でない” ということになると・・・
”自分自身の判断力” も ”絶対的でない” ということになり・・・
それによって “心のルール” も “無価値” に なるわけです。
それが 認識されると 私たちは この宇宙の中で・・・
”本当に価値のあるもの” を 探し始めようとします。
そして それによって 私たちは・・・
この宇宙の中での “本物の価値” を 探し当てることになり・・・
そこで “智慧の完成” が 実現されることになると 考えられるのです。
このように 私たちが “智慧” を ”完成させる” ということは・・・
私たちが 生きている ”世界全体” を・・・
”正しく認識することが できるかどうか?” が 問われています。
そして そのためには 私たちが・・・
”人間のレベル” で あり続けていては 不足なのです。
以上のような ”思考プロセス” というのも・・・
”般若心経” に 明確に 記されています。
皆様も 今一度 ”般若心経” の 内容を 振り返られて・・・
”智慧の完成” が 実現されるための・・・
”数多くのヒント” を 探されてみては いかがでしょうか?
(※)この世界での “真理” について 考えました・・・
”真理 とは 何か?” という記事は こちらに
仏教における ”空(くう)” について 考えました・・・
”空(くう)・・・という意味” という記事は こちらです
前回までの記事では 仏教での 主要な経典である・・・
”般若心経” の 内容について 考えて参りました。
そして その内容の 重要な部分 というのが・・・
”般若 波羅 蜜多(はんにゃ はらみった)” なのであり・・・
つまり 私たちが “智慧(知恵)” を ”完成させる” ことが 必要であり・・・
それによって “彼岸(ひがん)” に 到達できるという 内容でした。
その “彼岸” というのが・・・
いわゆる ”涅槃寂静(ニルヴァーナ)” であり・・・
それは “永遠” に ”平穏な状態” を 意味しています。
つまり 私たちは この人生で・・・
それを ”目標” に 生きるべきである というのが・・・
仏教における 本質的な 教えなのです。
しかし そこで 示されている “智慧(ちえ)” とは・・・
いったい どういう意味なのか? という疑問も 発生します。
そこで 今回の記事では それについて 考えてみます。
まず 私たちが 知っている “知恵” という 言葉の意味とは・・・
”事の道理や 筋道をわきまえ 正しく判断する 心のはたらき。
事に当たって 適切に判断し 処置する能力。”
などと 辞書には 記されています。
しかし 仏教における “智慧” という 言葉は・・・
厳密に言うと “知恵” という 言葉の意味では ありません。
それは どういうことか? というと・・・
仏教における “智慧” とは・・・
”空(くう)” などの ”仏教の真理” に 即して・・・
正しく 物事を認識し 判断する能力。
これによって 執着や 愛憎などの ”煩悩(ぼんのう)” を 消滅させることができる。
六波羅蜜の一つ。般若(はんにゃ)・・・などと 定義されています。
さらに ”智慧” とは・・・
物事を ありのままに把握し ”真理” を 見極める認識力。
”智” は ”相対世界” に 向かう働き。
”慧” は ”悟り” を 導く 精神作用の意・・・などとも 定義されています。
大乗仏教においては さらに・・・
”分別的な知恵” (ジュニャーナ, jñāna, 若那) を 超えた・・・
”無分別の智慧” (プラジュニャー, prajñā, 般若) が・・・
釈迦(ブッダ) の ”悟りの境地” として 賞揚され 普及された とも されています。
また ”古代ギリシャの哲学” においても それが 定義されており・・・
”実践的な 知恵・知慮” を ”プロネーシス(phronesis, フロネシス)”
”完成・完結した 智慧” を ”ソピア(sophia, ソフィア)” として 両者を区別してます。
これらの内容を 総括して 考えてみますと・・・
“知恵” というのは・・・
私たちの ”日常生活” で・・・
”正しく判断する” ための ”実践的な能力” である。
“智慧” というのは・・・
私たちが 生きている ”世界全体” を・・・
”正しく認識する” ための ”完成された能力” である。
ということが わかってきます。
私たちが これまで 考えてきた いわゆる “知恵者” というのは・・・
”人間社会で成功” できる ”能力者” を 意味していたようです。
つまり その人は 社会における さまざまな “知識” を 統合して・・・
それを ”行動” に 役立てることで・・・
”人間社会で成功” することを 目的にしているわけです。
しかし “智慧者” というのは・・・
単に ”人間社会の視野” に とどまらず・・・
”世界全体の視野” あるいは ”宇宙全体の視野” に 拡大されているのです。
私たちは 毎日の生活で さまざまな 事柄を・・・
自分自身の ”判断力” で ”分別する作業” を・・・
これまで ずっと 続けてきたわけです。
たとえば ”好き・嫌い” や “善いこと・悪いこと” などです。
これが ”分別的な知恵” によって 行われています。
そして それによって ”人間社会で成功” することも 可能になり・・・
その人は “知恵者” として 賞賛も されているわけです。
しかし “智慧者” とは・・・
この 世界全体の “真理” を ”知っている” 人間なのであり・・・
その人は 人間としての ”分別的な知恵” を 超えているのです。
つまり 人間として あたりまえである・・・
さまざまな ”分別作業” も することが ありません。
それが ”無分別の智慧” と 言われるのであり・・・
それは ”人間としての判断力” を 超越している レベルなのです。
それは ”般若心経” にも 記されていましたが・・・
私たちが ”空” (実体がない) という ”真理” を 知ると・・・
む じゅそうぎょうしき
無 受想行識 感覚も 念想も 意志も 知識もないし
む げんにびぜつしんに
無 眼耳鼻舌身意 眼・耳・鼻・舌・身体・心といった 感覚器官もないし
む しきしょうこうみそくほう
無 色声香味触法 形・音・香・味・触覚・”心のルール” といった
それぞれの器官に対する 対象もない
・・・などと ありました。
これは つまり ”人間としての感覚” も 必要がなくなり・・・
そして ”好き・嫌い” や ”善い・悪い” を 判断するための・・・
“心のルール” といった ”人間としての判断力” も・・・
まったく 必要がなくなることを 意味していたのです。
つまり 私たちは このレベルに 到達することが・・・
“智慧の完成” が 達成されることを 意味しているようです。
私たちが ”真理” を 知るとは どういうことなのか?
それが ”般若心経” にも 記されていましたが・・・
”空(くう)” という “真理” を 知ることが 条件になるようです。(※)
それによって 私たち自身も “絶対的な存在” には なり得ずに・・・
”相対的な存在” であると 認識されることになります。
つまり 私たち自身が “絶対的でない” ということになると・・・
”自分自身の判断力” も ”絶対的でない” ということになり・・・
それによって “心のルール” も “無価値” に なるわけです。
それが 認識されると 私たちは この宇宙の中で・・・
”本当に価値のあるもの” を 探し始めようとします。
そして それによって 私たちは・・・
この宇宙の中での “本物の価値” を 探し当てることになり・・・
そこで “智慧の完成” が 実現されることになると 考えられるのです。
このように 私たちが “智慧” を ”完成させる” ということは・・・
私たちが 生きている ”世界全体” を・・・
”正しく認識することが できるかどうか?” が 問われています。
そして そのためには 私たちが・・・
”人間のレベル” で あり続けていては 不足なのです。
以上のような ”思考プロセス” というのも・・・
”般若心経” に 明確に 記されています。
皆様も 今一度 ”般若心経” の 内容を 振り返られて・・・
”智慧の完成” が 実現されるための・・・
”数多くのヒント” を 探されてみては いかがでしょうか?
(※)この世界での “真理” について 考えました・・・
”真理 とは 何か?” という記事は こちらに
仏教における ”空(くう)” について 考えました・・・
”空(くう)・・・という意味” という記事は こちらです