こんにちはわんわん



前回までの記事では 原始仏典 スッタニパータ の ”こよなき幸せ”・・・

つまり ”世俗に生きる者” の ”幸福” について 考えて参りました。

そして 私たちにとって 日常生活における・・・

“充実” や ”喜び” の 必要性についても 考えました。ドキドキ





さらに 前回の記事では・・・

“充実” や ”喜び” の “反対の意味” である・・・

”空しさ(むなしさ)” についても 言及しました。

それは 私たちが ”空しさ” を 感じることは・・・

“地獄に堕ちる” ことを 意味しているからである とも 書きました。ドクロ





その ”根拠” というのが・・・

前回の記事でも 予告いたしましたが・・・

それは 原始仏典 スッタニパータに 書かれているのです。

今回の記事では その部分について 考えてみたいと 思います。ひらめき電球





そして その部分 というのは・・・

スッタニパータ 第二章 第十節での “精励” に 書かれています。

それでは その内容を ご紹介します。本




スッタニパータ 第二章 第十節 精励より・・・



331 起(た)てよ 坐(すわ)れ。

    眠って 汝らに なんの益があろう。

    ”矢” に 射られて 苦しみ 悩んでいる者どもは・・・

    どうして 眠られようか。



332 起てよ 坐れ。 

    ”平安” を 得るために ひたすら 修行せよ。

    汝らが 怠惰であり ”死王” に 服したことを ”死王” が 知って・・・

    汝らを 迷わしめることなかれ。




333 神々も 人間も ”もの” を 欲しがり・・・

    ”執着” に とらわれている。

    この ”執着” を 超えよ。

    わずかの時をも ”むなしく” 過ごすことなかれ。

    時を ”むなしく” 過ごした人は・・・

    “地獄” に 堕ちて 悲しむからである。




    
334 ”怠り” は ”塵垢(ちりあか)である。

    ”怠り” に 従って “塵垢” が 積もる。

    つとめ 励むことによって・・・

    また “明知” によって・・・

    自分に刺さった ”矢” を 抜け。




以上が 第二章 第十節 ”精励” の 内容でした。本





まず No.331に 書かれている 内容は・・・

”起て” というのは ”目覚めよ” という 意味です。

そして “坐れ” というのは ”座禅を組め” という 意味です。

つまり 自分自身の ”意識” を ”目覚め” させて・・・

”座禅” を 組んで “精神集中” しなさい・・・という 意味なのです。大仏


 
    

また ”矢” というのは・・・

以前の スッタニパータにも 登場しましたが・・・

人間の ”欲情” “嫌悪” ”迷妄” ”高慢” “悪い見解” という・・・

人間にとっての ”苦しみの原因” を 示しています。(※)いて座





つまり ここで 書かれていることは・・・

私たちは この人生において・・・

”苦しみ続けている” ということを ”自覚している” ならば・・・

”自分の意識” を ”目覚めさせなさい”・・・ということが 書かれているわけです。

さらには 肉体的にも ”多く眠るな” ということも 意図されています。目





また ここでの ”真意” というのは・・・

”ゴータマ・ブッダ” の ”根本的な教え” であった・・・

”人生すべて” が ”苦しみである” という・・・

”一切皆苦(いっさいかいく)” というものを・・・

あなたは ”自覚できていますか?” ということも 問われているのです。(※)ひらめき電球






次に No.332では・・・

私たちが この人生で “修行” することは・・・

”平安” である “心の平穏” を 実現するためであり・・・ドキドキ

もしも “修行” を ”怠る” ことがあると・・・

私たちは ”自分の死” に 対して ”迷う” ことになり・・・

そこで “大きく苦しむ” ことになると 警告しているのです。しょぼん





そして 重要なのが No.333の 詩経です。

それは 人間や 人間以上の 存在である ”神々” であっても・・・

”もの” などの ”かたちあるもの” に 対して・・・

”執着している”・・・と 書かれています。ラブラブ





しかし この世界では ”かたちあるもの” は・・・

いずれ すべてが ”崩壊する” ことになります。

これが ブッダの教えにある ”諸行無常(しょぎょうむじょう)” です。(※)

そして 私たちは ”執着するもの” が・・・

やがて ”崩壊” して それを ”失う” 時が 来ると・・・

そこで “大きく悲しむ” ことに なるのです。しょぼん





そして その ”執着するもの” というのは・・・

私たち自身の ”肉体” も 含まれるのであり・・・

それは “五官” である “目・耳・鼻・舌・身” の 対象である・・・

“色・声・香・味・触” という ”感覚” までも 含まれます。

それゆえに 私たちが それらを ”失う” 時が来れば・・・

そこでも “大きく悲しむ” ことが 待っているわけです。しょぼん 






さらに 私たちが ”大きく悲しむ” ことになれば・・・

それは ”むなしい” と 感じることになるでしょう。

そして 私たちが ”むなしい” と 感じることが・・・

私たちが “地獄世界” へ 導かれることを ブッダは 示しているのです。(※)

前回の記事では “充実” や ”喜び” が 大切であると 書きましたが・・・

その意味は “むなしい人生” を 送ってはならない・・・という 意味なのです。目







つまり 私たちが “充実” や ”喜び” を 感じる というのは・・・

自分自身が ”所有” する さまざまな ”もの” に 対して・・・家宝石赤カバン

さらには 自分自身が ”感覚” する さまざまな “もの” に 対しても・・・ラーメン

“充実” や ”喜び” を 感じていてはならない・・・ということも わかってきます。ショック!








そして 最後の No.334では・・・

人生での ”修行” を ”怠る” ことが あれば・・・

“塵垢” が 積もって ”苦しみ” が 増えるのであるから・・・

“修行” に “精励しなさい”・・・と 書かれています。

さらに その “修行” によって 知ることができる・・・

“明知” つまり “真理” によって・・・

自分自身の ”苦しみの原因” を 取り除きなさい・・・と 示されているわけなのです。星







前回の記事までは ”世俗に生きる者” としての “幸福” について 考えました。

そして 私たちが “幸福” を 感じる・・・と・・・

これまで ”思い込んできた” 内容というのは・・・ラブラブ





この 第二章 第十節に 書かれているように・・・

”世俗での価値” に ”執着” していては・・・

それは ”苦しみ” でしかない・・・ことが わかってきます。ガーン






つまり 私たちが “出家” しないで・・・

”世俗の生活のまま” でも・・・

“永遠の幸福” を 実現したいのであれば・・・虹






私たちは 自分自身の ”執着” を ”超える” ことによって・・・

この人生で ”平穏な状態” を ”常に維持する” ことが 重要なのです。ドキドキ

そして そのために 私たちは・・・

この人生で ”死” を 迎える その日まで・・・

ブッダが 示した その教えによって・・・

”修行する” ことが 必要であると 考えられるのです。目







私たちは この人生において・・・

“充実感” や ”喜び” を 獲得するために これまで 努力してきたようです。

そして それによって ”しあわせ” であると 考えてきました。ラブラブ

しかし その “充実感” や ”喜び” というものは・・・

やがて それらが  ”失われる時” が 来れば・・・

それは ”むなしさ” に 変わってしまうかもしれません。ガーン

私たちは これまでの生き方 というものが・・・

果たして ”本当に 正しかったのか?” について・・・

ここで 改めて 考える必要が あるのかもしれません。得意げ






私たちが ”むなしい” と 感じる 理由は・・・

それが ”無意味である” と 考えるからのようです。

私たちが ”むなしい” と 感じることが 多ければ 多いほど・・・

”無意味な人生” に なっていると 考えざるを 得ないようです。ショック!







では 私たちが ”むなしい” と 感じないためには どうすればよいのか?

それは “一時的” な “充実” や ”喜び” に 浸っているのではなく・・・

”永続的” な “充実” や ”喜び” というものを・・・

自分自身で ”理解” して ”追求” すべきである・・・と 考えられます。

ブッダは そんな ”永続的なもの” を その人生で 理解することができて・・・

人類に ”貴重な教え” を 伝えていたと 考えられます。星








私たちの ”人間” としての ”一生” は・・・

”宇宙の歴史” から 考えても 極めて “一時的なもの” です。

つまり ”ブッダの教え” というのは・・・

人類に ”永続的なもの” を 理解させることで・・・

“一時的な人間” という レベルから ”脱出” させて・・・

“永続的な存在” へ “移行させる” ことを 目的にしていた と 考えられるのです。目








私たちは “一時的なもの” を どれだけ 積み上げても・・・

それは 決して “永遠なもの” には なり得ません。

そして 私たちが “一時的なもの” に  ”執着” していれば・・・

いつまでたっても ”死を繰り返す” ”人間” や ”生物” に・・・

”生まれ変わり続ける” ことになり・・・

そんな ”苦しみ” の ”繰り返しの現象” というものが・・・

この世界での “地獄” であるとも 考えられるのです。(※)ドクロ








皆様も ご自身の人生を・・・

”むなしいもの” や ”無意味なもの” に しないためにも・・・

“ブッダの教え” を 深く 理解されてみては いかがでしょうか?本









私たちは これからの 人生において・・・

もしも “本当の幸福” を 追求したい・・・のであれば・・・ドキドキ







”人間” としての “一時的な幸福” というものに・・・

それだけで ”満足” してしまって・・・ラブラブ

“永遠” に ”死の苦しみ” を ”繰り返す” よりも・・・しょぼん








”人間” や ”生物” としての レベルを ”超越” することによって・・・

”死の苦しみ” が ”完全にない存在” に ”移行する” ことによる・・・

”永遠の幸福” を 追求して 参りたいですね。ニコニコ
























(※) 以前の 原始仏典での内容で ”苦しみの矢” が 登場した・・・

    ”スッタニパータ 蛇の章 6”  の 記事は こちらです星





  

    また ブッダの教えでの ”一切皆苦” や  ”諸行無常” が 示されている・・・

    ”四法印” の 内容は こちらからどうぞ星 








    そして この世界での “地獄” について 考えました・・・

    “地獄世界 とは?” の 記事は こちらからどうぞ星