こんにちは
これまで 数回にわたって “原始仏典 スッタニパータ” での・・・
第二章 第四節 ”こよなき幸せ” を 見て参りましたが・・・
その中でも ”最も重要な部分” が 今回の内容であると 考えられます。
それが No.267の 詩経であり・・・
翻訳者であった 中村元氏の 註釈の内容でもあります。
今回の記事では それについて 慎重に 考えて参ります。
それでは No.267の詩経の内容を 振り返りますと・・・
267 ”修養” すること。
”清らかな行い” を すること。
”聖なる真理” を 見る(知る)こと。
”安らぎ” を ”体得” すること。
ーこれが ”こよなき幸せ” である。ー
そして 中村氏による 註釈の内容が 以下の通りです。
No.267の注釈より ~ 安らぎを 体得すること~
原文では ”ニルヴァーナ” を 体得すること と なっている。
”世俗の生活” を している人が・・・
そのままで ”ニルヴァーナ” を 体得できるかどうか ということは・・・
原始仏教においての 大きな問題であったが・・・
スッタニパータの この一連の 詩句から見ると・・・
”世俗の人” が ”出家” して ”ニルヴァーナ” を 証するのではなくて・・・
”世俗の生活のまま” で ”ニルヴァーナ” に 達し得ると 考えていたことが分かる。
しかし のちに (仏教)教団が 発達すると・・・
このような見解は 教団一般には 採用されなかった。
ということが 述べられていました。
第二章 第四節での ”こよなき幸せ” の 内容というのは・・・
”世俗に生きる” 人々に対する ”ブッダの教え” でした。
それゆえに この部分の 一連の内容が 意味していることは・・・
中村氏が 述べていたように・・・
“出家した僧侶” だけではなく・・・
私たちのような ”世俗に生きる者” であっても・・・
人類が 目指すべき 目標としての ”ニルヴァーナ” である・・・
”涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)の状態” へ 到達できると 示されているわけです。
しかし ブッダの死後・・・
仏教教団においては この考え方は 採用されなかったと 示されています。
それは なぜか? といえば・・・
それは おそらく 仏教の僧侶たちの “特権意識” だったのではないか? と・・・
以前 このブログでも 書いたことがありました。(※)
つまり “出家僧侶” としての “社会的地位” を 確立するために・・・
一般民衆とは ”一線を画す” ことが 必要だったのであり・・・
その結果 “ブッダの教え” というものが・・・
”一部の人間” だけしか 救われない・・・というような・・・
“大きな誤解” を 人類に 与えてしまったと 考えられます。
そして その “大きな誤解” によって・・・
”ブッダの教え” である ”原始仏教” というものは・・・
”小乗仏教” と 呼ばれることになり・・・
それは ”一部の人間しか 救えない” というような・・・
ある意味 “さげすまれる仏教” として 広まってしまったようです。(※)
しかし 私たちが ”原始仏典” を 実際に 読むことによって・・・
その “大きな誤解” を 解くことができます。
つまり 私たちが “スッタニパータ” を 読むことによって・・・
“ブッダの教え” の “本当の意味” を 理解できることに なるのです。
私たち 日本人が これまで 馴染んできた・・・
”大乗仏教” における ”死後の来世” というものは・・・
”極楽浄土(ごくらくじょうど)” といわれる ”別世界” を 想定しています。(※)
しかし ”原始仏教” である ”ブッダの教え” について よく 考えてみると・・・
ブッダが その教えの中で 示していた・・・
私たちが 目指すべき ”ニルヴァーナ” としての・・・
“永遠の平穏” というものは・・・
”現世” における ”現在の生活” での・・・
”平穏の状態” が 実現されなければ・・・
”来世以降” における・・・
“永遠の平穏” も 実現されない・・・ということも 理解されます。
それゆえに 私たちが・・・
”死後” に 向かうべき ”来世の世界” も・・・
”現在の生活” と “密接につながっている” ということも わかって来るのです。
これが ”原始仏教” である ”ブッダの教え” の・・・
最も重要な ”核心” であると 考えられるのです。
ブッダは ”人類すべて” を・・・
さらには ”生きとし生けるものすべて” を ”救いたい”・・・と 願っていました。
そして 彼は “原始仏教” としての さまざまな教えを 説いていました。
しかし その後の ”仏教徒” たちが・・・
”原始仏教” を ”変化” させてしまい・・・
“本当の救いの道” を ”閉ざしてしまった” のかも 知れません。
それによって 現代の 日本の仏教界においても・・・
”信徒の数” が ”減少傾向” にある というのも・・・
それが 大きな理由であることが 考えられるのです。
私たちは これまでのように ”死後の来世” の ために・・・
”寺院” に対して ”高額なお金” を 支払って・・・
立派な “戒名(かいみょう)” を つけてもらっても・・・
それだけでは ”まったく救われない” ことが 考えられます。
そのようなことは 原始仏典には ”一言” も 示されていないからです。
つまり 私たちが “本当に救われる” ためには・・・
”現世” の ”現在の生活” で・・・
“ブッダの教え” を ”実践する” ことが 重要であると 考えられます。
私たちにとっての “幸福” とは 何なのか?・・・
それは ブッダが 示していたように・・・
まず 私たちは この ”現世” において・・・
”平穏の状態” を ”常に維持する” ことである と 考えられます。
そして その ”平穏の状態” が・・・
今後も ”ずっと続く” ことができれば・・・
私たちは やがて “永遠の平穏” へ 導かれると 考えられます。
それこそが 私たちにとっての ”こよなき幸せ” である・・・
”最上の幸福” であると 考えられるのです。
私たちにとっての “最上の幸福” というものは・・・
決して “お金” だけでは 手に入れることは できないようですね。
皆様も ”ブッダの教え” が 集約されている・・・
”原始仏典 スッタニパータ” を 慎重に お読みになり・・・
ご自身が ”本当に救われる道” を 見出されてみては いかがでしょうか?
(※) 仏教の僧侶たちの “特権意識” について 書きました・・・
“出家(しゅっけ)の意味とは?” の記事は こちらです
また ”小乗仏教” の 意味について 考えました・・・
”小乗仏教とは?” の記事は こちらからどうぞ
そして ”大乗仏教” での ”極楽浄土” について 考えました・・・
”極楽浄土は あるのか?” の記事は こちらです
さらに ”涅槃寂静(ニルヴァーナ)” についての 考え方を まとめました・・・
”涅槃寂静(ニルヴァーナ) の 真意” の記事は こちらからどうぞ
これまで 数回にわたって “原始仏典 スッタニパータ” での・・・
第二章 第四節 ”こよなき幸せ” を 見て参りましたが・・・
その中でも ”最も重要な部分” が 今回の内容であると 考えられます。
それが No.267の 詩経であり・・・
翻訳者であった 中村元氏の 註釈の内容でもあります。
今回の記事では それについて 慎重に 考えて参ります。
それでは No.267の詩経の内容を 振り返りますと・・・
267 ”修養” すること。
”清らかな行い” を すること。
”聖なる真理” を 見る(知る)こと。
”安らぎ” を ”体得” すること。
ーこれが ”こよなき幸せ” である。ー
そして 中村氏による 註釈の内容が 以下の通りです。
No.267の注釈より ~ 安らぎを 体得すること~
原文では ”ニルヴァーナ” を 体得すること と なっている。
”世俗の生活” を している人が・・・
そのままで ”ニルヴァーナ” を 体得できるかどうか ということは・・・
原始仏教においての 大きな問題であったが・・・
スッタニパータの この一連の 詩句から見ると・・・
”世俗の人” が ”出家” して ”ニルヴァーナ” を 証するのではなくて・・・
”世俗の生活のまま” で ”ニルヴァーナ” に 達し得ると 考えていたことが分かる。
しかし のちに (仏教)教団が 発達すると・・・
このような見解は 教団一般には 採用されなかった。
ということが 述べられていました。
第二章 第四節での ”こよなき幸せ” の 内容というのは・・・
”世俗に生きる” 人々に対する ”ブッダの教え” でした。
それゆえに この部分の 一連の内容が 意味していることは・・・
中村氏が 述べていたように・・・
“出家した僧侶” だけではなく・・・
私たちのような ”世俗に生きる者” であっても・・・
人類が 目指すべき 目標としての ”ニルヴァーナ” である・・・
”涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)の状態” へ 到達できると 示されているわけです。
しかし ブッダの死後・・・
仏教教団においては この考え方は 採用されなかったと 示されています。
それは なぜか? といえば・・・
それは おそらく 仏教の僧侶たちの “特権意識” だったのではないか? と・・・
以前 このブログでも 書いたことがありました。(※)
つまり “出家僧侶” としての “社会的地位” を 確立するために・・・
一般民衆とは ”一線を画す” ことが 必要だったのであり・・・
その結果 “ブッダの教え” というものが・・・
”一部の人間” だけしか 救われない・・・というような・・・
“大きな誤解” を 人類に 与えてしまったと 考えられます。
そして その “大きな誤解” によって・・・
”ブッダの教え” である ”原始仏教” というものは・・・
”小乗仏教” と 呼ばれることになり・・・
それは ”一部の人間しか 救えない” というような・・・
ある意味 “さげすまれる仏教” として 広まってしまったようです。(※)
しかし 私たちが ”原始仏典” を 実際に 読むことによって・・・
その “大きな誤解” を 解くことができます。
つまり 私たちが “スッタニパータ” を 読むことによって・・・
“ブッダの教え” の “本当の意味” を 理解できることに なるのです。
私たち 日本人が これまで 馴染んできた・・・
”大乗仏教” における ”死後の来世” というものは・・・
”極楽浄土(ごくらくじょうど)” といわれる ”別世界” を 想定しています。(※)
しかし ”原始仏教” である ”ブッダの教え” について よく 考えてみると・・・
ブッダが その教えの中で 示していた・・・
私たちが 目指すべき ”ニルヴァーナ” としての・・・
“永遠の平穏” というものは・・・
”現世” における ”現在の生活” での・・・
”平穏の状態” が 実現されなければ・・・
”来世以降” における・・・
“永遠の平穏” も 実現されない・・・ということも 理解されます。
それゆえに 私たちが・・・
”死後” に 向かうべき ”来世の世界” も・・・
”現在の生活” と “密接につながっている” ということも わかって来るのです。
これが ”原始仏教” である ”ブッダの教え” の・・・
最も重要な ”核心” であると 考えられるのです。
ブッダは ”人類すべて” を・・・
さらには ”生きとし生けるものすべて” を ”救いたい”・・・と 願っていました。
そして 彼は “原始仏教” としての さまざまな教えを 説いていました。
しかし その後の ”仏教徒” たちが・・・
”原始仏教” を ”変化” させてしまい・・・
“本当の救いの道” を ”閉ざしてしまった” のかも 知れません。
それによって 現代の 日本の仏教界においても・・・
”信徒の数” が ”減少傾向” にある というのも・・・
それが 大きな理由であることが 考えられるのです。
私たちは これまでのように ”死後の来世” の ために・・・
”寺院” に対して ”高額なお金” を 支払って・・・
立派な “戒名(かいみょう)” を つけてもらっても・・・
それだけでは ”まったく救われない” ことが 考えられます。
そのようなことは 原始仏典には ”一言” も 示されていないからです。
つまり 私たちが “本当に救われる” ためには・・・
”現世” の ”現在の生活” で・・・
“ブッダの教え” を ”実践する” ことが 重要であると 考えられます。
私たちにとっての “幸福” とは 何なのか?・・・
それは ブッダが 示していたように・・・
まず 私たちは この ”現世” において・・・
”平穏の状態” を ”常に維持する” ことである と 考えられます。
そして その ”平穏の状態” が・・・
今後も ”ずっと続く” ことができれば・・・
私たちは やがて “永遠の平穏” へ 導かれると 考えられます。
それこそが 私たちにとっての ”こよなき幸せ” である・・・
”最上の幸福” であると 考えられるのです。
私たちにとっての “最上の幸福” というものは・・・
決して “お金” だけでは 手に入れることは できないようですね。
皆様も ”ブッダの教え” が 集約されている・・・
”原始仏典 スッタニパータ” を 慎重に お読みになり・・・
ご自身が ”本当に救われる道” を 見出されてみては いかがでしょうか?
(※) 仏教の僧侶たちの “特権意識” について 書きました・・・
“出家(しゅっけ)の意味とは?” の記事は こちらです
また ”小乗仏教” の 意味について 考えました・・・
”小乗仏教とは?” の記事は こちらからどうぞ
そして ”大乗仏教” での ”極楽浄土” について 考えました・・・
”極楽浄土は あるのか?” の記事は こちらです
さらに ”涅槃寂静(ニルヴァーナ)” についての 考え方を まとめました・・・
”涅槃寂静(ニルヴァーナ) の 真意” の記事は こちらからどうぞ