「愛と暴力」 | 遠距離大学に進学した次男や就職した長男のこと

遠距離大学に進学した次男や就職した長男のこと

就職1年目の長男と大学1年の次男,2人の息子をもつ父の日記です。

 もうすぐクリスマスですが,クリスマスプレゼントで苦い思い出があります。
 もしかしたら,以前にも書いたかもしれません。
 もう20年ぐらい前のことです。
 妻が私にJ.PRESSのトレーナーをプレゼントしてくれたんです。私がJ.PRESSを好きだと知っていて買ってきてくれたんですね。
 けれども私は,そのトレーナーのデザインが気に入らなかったんです。
 その日のうちに,お店に電話して返品してしまいました。
 妻とのやり取りを書くと,悲しくなるので書きませんが,ひどいことをしてしまいました。
 いつか,このことを謝りたいと思っていますが,顔を合わせると,切り出すタイミングを失ってしまいます。
 私も妻に,セーターとかマフラーとか,手袋とか贈りましたが,「もらっても使わないなぁ」と妻も心の中でつぶやいていたかもしれません。

 贈り物というのは難しいです。
 服などを贈りたいと思ったときは,事前に妻に聞くことにしています。

 さて,「愛と暴力」ですが,これはポラリス現代文の第9回のタイトルです。
 問題文は「暴力を一種の贈与と考えることはできないだろうか?」という文もあって,難解な内容でした。
 でも後半,少し納得する部分があるので,引用します。

 「一般に,コミュニケーションを取る為に行動を起こすということは,繊細な配慮を欠く場合には相手にとって暴力的に感じられてしまうことがある(ストーカーの場合など)。いや,すべてのコミュニケーションの始動には,幾分かの暴力性が伴わずにはいないのである。
 当然,愛の表現にも,かかる暴力性はつきまとう。決して身近でない他者に対するコミュニケーションの始動は,とりあえずは相手にとって脅威と受け止められざるを得ないだろう。だからこそ,愛の表現においては,さまざまな儀式的な形式や作法がむかしから決まっていて,その暴力性を何とかオブラートに包む工夫を与えているのである。しかしだからと言って,その暴力性は完全にはなくならない。」

 プレゼントという愛の表現にも,暴力性があるということですね。暴力性を,押し付けと言い換えてもいいかもしれません

 さらに問題文は,次のようにも述べています。

 「完全な相互理解は避けるべきであり,さもないととんでもない暴力に路(みち)を開くかもしれないということなのである。愛にあっては不毛な純粋主義や完全主義こそ忌むべきものであり,いかなる「最終的解決」も求めるべきではなく,むしろ理解の不全と長い迂回こそが不可欠であるとともに,祝福されるべきものであると言えよう。果たされなかった愛の約束は,遠く時間を隔てて違う場所で果たされねばならない。
 愛と暴力がひそかに底流においてつながっているのであるから,暴力に手を汚すことを恐れて(人を傷つけることを避けて),純粋な愛を蒸留しようとしても,カスのようなものしか残らないのである。」


 「愛と暴力は不可分であることを意識して恋愛をしなさい」ということでしょうか。
 たしかに,暴力性のない愛は,うわべだけ、口だけみたいな感じがします。


 話題を変えますが,「すずめの戸締まり」の新海誠監督が,全国各地を回ってキャンペーンをしているそうです。
 新海監督の発言でなるほどと思った部分がありました。
 「この映画を見て,傷ついてしまう人もいるかもしれない。けれども,傷つかせてしまうことを恐れて,伝えたいメッセージがぼんやりしてしまっては意味がない。人を傷つけるようなメッセージがなければ,ストーリーではない。
 これも映画(メッセージ)の暴力性ですね。
 こう言い切る監督は,覚悟を決めてこの映画を作ったんでしょうね。そして,とても誠実な印象を受けました。

 私は未見で,母を残して映画館に行くのも気が引けるので,DVD等が出た頃に見たいと思います。
 新海監督作品では「君の名は。」は見ました。ものすごいヒットで評判もいいのですが,私は批判的な考えを持っています。
 それについては,機会があったら書きます。