さてと本日は、平成の大合併で富山県富山市に合併した旧富山県婦負郡婦中町にあった廃墟のお話。
富山県を流れる一級河川である『神通川』の西側はかなり宅地が進んだものの、私が初めて行った35年前は田圃しかない本当の田園地帯で、東京都品川生まれの川崎市中原区育ちの私はかなりのカルチャーショックを受けたは事実 ┐(´∀`)┌
当時は民放が三局で真面目な話をすれば『本当に日本なのか?』と思いましたが、それがスタンダードな実社会があるのも事実だと受け入れるしかなく、私の地元の川崎市では観たこともない『動かない(動画ではなく静止画)CM』もびっくりしたもんですが今ではそんなCMは正月くらいで、私自身がTVを観なくなったので 問題なっし ┐(´∀`)┌
また日本の公害第一号である岐阜県飛騨市神岡町にある三井『神岡鉱山』からの『高原川』に垂れ流されたカドミウムによる富山平野の神通川流域の稲作地帯に発生した『イタイイタイ病』により崩壊した田圃の土の入れ替え作業が盛んな時期(1971年に原告勝訴)でもあり、ようやく工業用ノリから食用の稲作の転換時期でもありました。
そんな神通川の支流である『井田川』という河川のそばに今回お話しする廃墟がその昔存在しておりました ( ̄ー ̄)
まずは古地図から・・・
これは明治34年頃の地図となるのですが、赤丸で囲んだ屋敷が部落内の他の家屋よりも極端に広く、部落の長の様な家柄の様で、かなりの分限者(お金持)だったと思われます。
そんでもって現在のGoogleMapの航空写真で公開されているのがこちらっ‼️
周囲には田圃が残るものの写真北部は工業団地となり、三菱ふそう唯一のバス製造工場があるくらい変わってしまったのですが、写真の赤丸の中には古地図通りの屋敷林(防雪林)に囲まれた一画が残っている事が分かると思います ┐(´∀`)┌
因みに拡大するとこんな感じ・・・