女侠客・毛蟹のおかくの仇討(第二部) | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

女侠客毛蟹おかくの仇討(第二部)
江戸の湯屋(とうや)

 日本人が大好きな風呂といっても、幕末までは何人もが肩までどっぷり浸かるような浴槽は、まだ鍛工技術の関係で、大きな釜が鋳造できなかった。
 関西へゆくと美濃の関の鋳物師部落で、一斗釜を拵えていたから、その底に浮板を入れ湯を湧かす五衛門風呂があったが、街道筋では夏場に限って天水桶にためた雨水を、
陽射しに温めて汗流しに旅人に使わせ、これを「水風呂」とよんでいたくらいのものだった。

 
 だから寛政の頃の江戸の湯といえば、閉め切った湯室(ゆむろ)の中で、むんむんと湯気をたてる、今でいう蒸風呂。
だから男は下帯をしめ、女は湯巻をして狭い石榴(ざくろ)口から入り、そこで身体を蒸して垢をこするといった具合だったのである。だから入口こそは、「おとこ」「おんな」と文字は出ているものの、石榴口を腰を下げて入ってしまえば、男も女も混浴。
 といって、当節のような生れた侭の姿ではないから、女も胸のあたりを屈み込むようにしているだけ。
 なにしろ湯気が濛々としているから、余程の好き者が眼を皿のようにしても、混浴とはいえ朧気にしか女の上半身さえ霞んで視えぬ。だから湯へ通ったとしても、あまり眼の保養にはならないのだが、両国の儀助は二日に一度は湯屋の暖簾をくぐる。


「以前は湯女とかいう仇っぽい女がこういうところにはいて、背中の垢を掻いてくれたり、出ると酒の酌もしてくれ‥‥ろくすっぽ拝めもしない女の裸に、
もやもやしたものを昂ぶらせている野郎には、裾を開いて用を足させていたというが‥‥近頃は御政令とやらで湯女はご停止(ちょうじ)の野暮ったさ‥‥だから、
こうして湯気に蒸されにくるのは暇な御隠居か、俺がような疝気(せんき)もちだけだろうじゃねぇか」
 と、このところ、二の腕から肘の関節にかけ鈍痛のする辺りを、指先でもみほぐしつつ眼を閉じ、ぶつくさ独り言を洩らしていると、柔かな物が倒れてきて、
「あら御免なさいな‥‥」と、鼻先にいきなり黄色い声。

 はっとして眼をあけると、こんもり丸まっちい物が儀助の頬から離れたが、まだ眼の前にぶら下がっている。
 いくら濛々と湯気がたちこめた中でも、こう眼前につき刺さったように近くにあっては、乳房の先の桃色のとんがりまでが視えた。
 だから儀助もあわて気味に、「なぁに、足を滑らせるのはよくあること。此方は大丈夫だ何ともないが、おめぇさん脚でもすりむきゃあしなかったか‥‥」
 己れの娘ぐらいの若い相手だが、腕は痛んでも根っからの女好きの儀助のこと。そこは別人のように優しく声をかけてやり、

「‥‥風呂なんていうと背中へお灸の痕を並べた婆しか入りに来ないものなのに、おめぇがような若い別嬪が湯にくるなんてのは珍しい。何処か温めなくちゃならねぇ病気持ちかえ」
 親切そうに話しかけた。そして、にやにやしながら、「こうして一つの湯室へ入りあわせるのも、多少の縁というもの‥‥裸ん坊で云うのは気取ってるみたいでなんだが、おいらは両国で儀助といやぁ知らねぇ者もない男だ。
なんでも相談にのってやるし力にもなってやろうじゃないか」と声をかけたところ、娘は羞かしそうに白木綿の湯巻に包んだ腰をくねらせながら、
ほっほっと笑い出してしまい、さて耻しそうに、
「私めは昨年より既に嫁入りしました身ですが‥‥嬰児(やや)を身ごもらねば晴れて披露して頂けない足入れ婚‥‥よって、こうして身体を蒸し温め子宝を納めやすいようにと、人様に教わり、
初めて湯へ来ました身‥‥いくらご高名な親分さんでも、こればっかりは、お力になって頂くわけにもゆきますまい」
 胸の隆起を両の掌で覆いながら、はっきり云いきった。しかし儀助は、
「ああ、そうかい」とは、にこにこして口にしたものの、「おめぇ、子宝が入りゃあよいんだろう」と手を伸ばし、むっちりした白い肩をつかみ、
「誰が子種でも、おめぇの身体の中へ入っちまやぁ、それで良いってものじゃねぇかよ‥‥」耳朶へ湯気よりも熱い息を吹きかけてきた。そこで女も、軽くうなずきはしたものの、
「‥‥ですが、いくら身篭ったとしても、うちの人の子種じゃない、あなたからの貰い物だと判ったら、わたしは追ん出されてしまいますよ」思案顔でためらってみせた。
 すると儀助は、もうひと押しとみてとったか、声も荒々しく、「おめぇの亭主が、そんな無法なことを云いやがったら、この儀助が承知しねぇ。
襟首つかんで詫びさせてやろう‥‥なぁ、だったら良いだろうが」と、かき口説きにかかった。が、女は首をふり、
「親分がどんなに腕っ節が強いか知りませんが‥‥指で己れの腕を按摩しているようじゃ心細くって」
 湯気で濡れているのをよい事に、儀助の掌から丸まっちい肩を抜いてしまい、しなをつくって恨めしそうに唇をとがらせた。

 だから儀助もこれには苦笑いをして、「そうか。よしよし、じゃ明日もこの時分にここへ来るがいいぜ‥‥そうすりゃ俺が子分の強そうなのを十人ぐらいは、ちゃんと連れてきて見せてやる。
なら良かろうが‥‥」と口にした。すると女はきまり悪そうに、
「あなたはご自分の子分衆の前だから、それで良いかもしれませんが、わたしは牝馬じゃあるまいし、みんなの見ている前での種つけは厭ですよ」と睨む真似をした。
「違いねぇ。ありゃ見世物にするもんじゃねぇ」とは合点したものの、その気になっているから意馬心猿。
「じゃあ‥‥どうすりゃ良いんでぇ」絡みつくよう話しをもってきた。すると女は仏頂面をしたまま、
「今時分の午さがりは空いてますから、来いとおっしゃるなら明日もこの時刻に、ここへは参りますが‥‥」
と口にしてから笑えくぼを下頬に作り、「このあたしにだって、ああそうかと判るような、何ぞ強そうな自慢話しでも明日は聞かせておくんなさいましよ」
 云い残すと、水を手桶にくんで、熱くなった身体に浴び、円い腰の割れ目をくっきり晒木綿に浮かせた身体を、「はい御免なさいよ」
さっさと先に石榴口から四つ這いになるようにして出て行ってしまった。
白州吟味
「おめぇもこの辺の者なら、石原町の万吉は、名ぐれぇ知っていよう」
 翌日、午下りの人気のない湯室の中で、汗をたらして待ちかねていた儀助は、石榴口から這うようにして入ってきた昨日の女を見かけると、浴びせかけるように声をかけ、
近寄ってくると湯巻に手をかけ、ぐっと引き寄せてから、「あれを、たった一人で眠らせてしまったのは、この俺さ‥‥」というなり、ぐっと腰のくびれを抱え込み、
そのまま寝かしつけるように床へ身体を横たわらせ、
「どうだ聞いて驚いたか‥‥それぐらいに強い男の子種なら、おめぇも仕込み甲斐があるってもんだろう‥‥なぁ、それに俺は義理固いから責任はもってやる。
子が腹に入るまでは何度でもしてやるから安心しろよ」と、白晒の湯巻をめくりあげたが、その途端、
「なんでぇ、こりゃあ‥‥」たちこめた湯気を払うように手をふって、穴があくぐらいに屈みこんだまま覗きこんで、たまげた声で、「い、いれずみ、しかも、蟹じゃねぇかよ」喘ぐみたいに吃ってから、
「こ、こりゃなんでぇ、何て真似だい」しゃがれ声をあげ、横這いしている蟹の刺青へ薄気味悪そうに手を伸ばした時、
「‥‥蟹は挟んでちょん斬ってしまうんだ‥‥さぁ入れてみな」まるで別人のように言葉づきまで、がらりと変えた女は、股倉を大きくひろげ儀助の腕をぐっと抱え込むように挟みこみ、
脚を縄のようにねじりあげた。
 これには儀助も仰天し、せっかく外しかけた下帯もそのまま、脇から首を出していた物も縮って引っ込んでしまい、
「よ、よしやぁがれ‥‥悪ふざけも大概にしやぁがれ」なんとか振りほどいて逃げようとしたが、下になっている女は左手をのばして、縮こまった物をを無理矢理に引っ張り出し、
「さぁ、ちょん斬ってやるから何んしてみな」と喚きたてた。そこで、
「まぁ待ってくれ、夫のあるおめぇに横恋慕して、道ならぬことを仕掛けたのは俺が悪かった」
 

 儀助は腰を締めつけられて蒼くなり、引っ張られながら、「そ、そこには男の急所‥‥頼むからそんな無茶して引っ張らないでくれ‥‥銭を出しておまえがご亭主にも詫びはするから」
泣かんばかりにして謝ったが、
「何をちんつん‥‥たわごとをお云いだね。わたしは、まだこう見えたって嫁入り前の一人者なんだよ」
といいざま、右手で湯巻の端に結び付け隠してきたらしい剃刀を抜き出すと、それで左手で引っ張っている物を、

「石原町万吉の娘おかく‥‥とは私のこと。阿父っつぁんの仇、覚悟をおしよ」と牛蒡(ごぼう)でも輪切りにするよう切り落してしまった。
 これには儀助も何条もって堪るべきと、眼を白黒させ、
「ふむ」とふんぞり返って、切られた所から赤黒い血を迸らせてのたうった。
 おかくは女の身だしなみで、反り血を浴びた湯巻を、掛け水をくんで手桶で洗い、用意して石榴口の外においてあった新しいのを、すぐさま腰にまきつけるなり湯室を出て着物を纏った。
 
さて、子分の清次と常助の二人は、おかくの云いつけで湯屋の外で待っていると、「お待っとうさん‥‥」と、そこへ現れたおかくは、濡れ手拭いの間から、
「ほら、阿父っつぁんの敵の首だよ」赤黒く縮んだ物を覗かせた。
「なんですかい」と不思議がると、「これが両国の儀助の首じゃないか‥‥」おかくは流石に烈しい息使いで云い、
「でっかい頭の方の首は、石榴口から小娘のあたいが引っ張ってこられっこないじゃないか‥‥これは雁首だけど、いいだろ」
 初めて羞しそうに云い、そのうちに張りつめていたものが、がたついてきたのか、清次に押しつけるように手拭にくるんだまま手渡し、貧血しそうに、
「おまえ、持って行っておくれよ」 歯の根を震わせ脅えたようにおののいた。

 まさか、万吉親分の跡目のおかくを縄付きでも出せまいと、清次が、儀助殺しを背負って月番の南町奉行へ、「恐れながら」と自訴してでた。
 しかし屍体は男の一物が斬り取られている。そこで町奉行池田筑後守の差紙で、おかくが石原町から引っ立てられた。すると当人は初めから覚悟の事ゆえ、
「清次ではありませぬ。この私が阿父っつぁんの仇をとったのです」きっぱりと白状してのけた。しかし、池田筑後守が不審がって、「儀助程の悪賢い奴が、いくら湯気に蒸され上気していたとは申せ、其方ごとき小娘に男の急所を掴まれ切断されるとは解せぬ。何んぞ仔細があるのであろう。神妙にせい」
と問い詰められると、
「恐れながら‥‥」ことわってから、おかくは、股間をひろげ、
「ご吟味の程を」恭々しく申し述べた。覗きこんだ奉行は、「うむ」と唸ったが、やや暫く眺めてから、
「養女の身でありながら、孝行せんとする汝の健気なる志に、天もうたれ給い刺青の蟹が、鋏をふりあげちょん切ったものであろう」と、
 昔の事ゆえ粋な裁きで、おかくも清次もお構いなしの放免となった。
 

しかし、風呂場での人殺しというのは穏やかではないというのか、翌寛政三年(1791)正月十一日付けをもって、蒸し風呂とはいえ、「男女混浴の禁止」というのが発布された。
 さて、これでますます、
「養女の身でありながら、万吉親分の仇討ちをした女の中の、女一匹」と、すっかり、おかくは評判になって侠名を謳われたが、
「あの女のお裾の蟹は、本当に入り込もうとするのを筒切りするんだそうだ」といった噂も、まことしやかに伝わってしまった。
 それを耳にした荒井町裏の彫師、宇之吉は、
「‥‥だから云わねぇこっちゃねぇ。俺が云うように桃の図柄か、五月節句の鐘鬼さまにしておけば、五月の鯉の吹き流しで、すらすら入って、ゆうゆう揺れる、と縁起が良かったろうに」
と、己れが彫った蟹の刺青を、いまいましそうに後悔したが、今さら消して彫り変えられるものではない。後の祭りだった。
 
 さて清次と常助は、いつまでも女のおかくに、荒い稼業を取り仕切らせるのも可哀想だと、まだ独り身の若者を、あれこれ物色してみたが、どれも顔色を変え、
「姐さんは別嬪で良い女だが、女房となりゃ眺めてばかりもいられませんで‥‥」とか、
「いくら器量よしでも、男のあすこをちょん切られてしまっては」みな尻込みしてしまった。そこで仕方なく、おかくは女の身ながら石原町万吉の跡目を継ぎ、
一人で切り盛りしていたから、「蟹のおかく」と、その名を謳われたが、三十、四十になると刺青も、若い時のような水々しさがなくなったのか、それとも毛深かったのかは判然としないが、
「毛蟹の、おかく」とも異名をとった。
 墨田区押上の常照寺という寺に、昭和二十年三月、下町一帯の爆撃で焼けるまで、「孝養院毛角大姉」と彫られた墓が、ちゃんとあったそうである。