女侠客・毛蟹のおかくの仇討(第一部) | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

女侠客・毛蟹のおかくの仇討(第一部)
江戸時代もやくざの出入り(喧嘩・抗争)は多かった。時は寛政二年、老中松平定信は「寛政の改革」を断行していた頃。
石原町の万吉親分は、両国の儀助に殺され、万吉の娘おかくはその仇討ちを誓い儀助を狙い、見事その本懐を遂げた。これはその実話である。さて、実際の仇討の詳細を書き残した史料はないが、そう度々あったとも想像できない。しかしその一端が窺われる史料があるので紹介する。

 吉田松陰の「討賊始末記」の本に、長門大津の川尻浦山王社の宮とよぶのがあり、宮番で堂守りの幸吉は妻登波の他に両親と年頃の妹四人と、ひっそり居付き部落にいた処、
喰いつめ者の浪人枯木竜之進が目をつけ、「宿場女郎では銭をとられる。しかし履物も許されぬ宮番の娘なら一文もいらぬから儲かる」と忍びこんで、まず邪魔になる幸吉と、その両親を叩っ斬ってから、十八歳、十七歳、十五歳の三人の娘から、まだ子供の十四歳の末娘まで順ぐりに強姦してのけてから、
後の事を考えて、 「どうせ人外の宮で、寺人別帳にも入ってない者らゆえ、あやめても人殺しにはならぬ」と娘達を惨殺して逃亡。所用があって留守をしていた嫁の登波は戻ってきて一家惨殺に仰天した。

それから十年がかりで、ようやく仇討ちをとげた登波を吉田松陰は、松下村塾に泊めて、当時もめったにない、稀らしい仇討ちの話をきき筆記した際、門下の高杉普作や久坂義助が門人一同を代表するみたいに、
「人外者の宮番づれの妻を、今のように何日も寝泊りさせるのは、塾の汚れとなります」と登波を即刻、松下村塾から追放して、塾をきよめ、お祓いをしようと申し出た。
しかし松蔭は、「何をいう。宮の者や社のつるそめ神人を非人としたのは、徳川綱吉の神仏混合令からの悪法である。吾らは徳川を倒し四民平等の世をと志しているのに、なんたる差別思想か情けない」と、
二歳年上の登波の十年をこす苦労をいたわり、素足で山野を駆け廻っていたので、あかぎれと切り傷で腫んだ足に、自ら練り薬を塗ってやり膏薬をはって休ませ、身体が本復するまで、松下村塾で休ませたのは、
藩命で野山獄へ入れられる一ヶ月ほど前の事であった。

仇討免許状は嘘
さて「仇討ち免許状」に関してもこんなものは虚構である。
作家の故菊池寛がプラトン社の「苦楽」という中間小説雑誌のハシリに、「仇討ち十種」のサブタイトルで故直木三十五が連載した際に、彼の為に作ってやった造語なのである。
今ではテレビや時代小説に、まるで実在したように扱われてしまっている。
だが、常識で考えても(殺しのライセンス)みたいなものが実際に在るわけが無い。

武家諸法度と呼ぶ江戸時代の武士刑法は、みだりに抜刀すれば死罪というのが厳然とあったことを考えれば判る話である。
「赤穂義人纂書」には、赤穂藩の武士たちの刀剣一覧表が載っていて、各大名家ごとに家臣団の刀のメーカーは統一されていたのが実情。現在の警察官はニューナンブM60 38口径回転式拳銃と決まっていて、アメリカのように ベレッタだマグナム44だ等と勝手に選り好みが出来ないのと同じことである。
同表には「これ皆浅野家お道具なり」と明示されている。つまり刀は今でいう官給品なのである。
講談や芝居などで「御家重代の名刀を賜る」とよくやっているが、この意味は殿から貰ったら、家宝にして蔵って置く事ではない。殿の愛刀を預かるといういうのは、たえず殿の側近にあって、殿の生きた刀架けなのである。
つまり殿の刀を預けて貰えるとは、非常に信頼され、側近くに使えるように重宝されたということ。
では仇討ち赦免状とか免許状と謂われる物の本物はどんな具合かと言えば、「何々某甲辰生まれ何歳。この者は当家の扶持を受ける者にて候。
貴領もしくは御支配地にて抜刀に及び候節は、当家よりの役目に御座候。何卒お構いなきよう可然御願い申候」
といった文面に、大名家ならば祐筆の書いたものへ花押が捺してあった。

口入れ屋政吉
江戸寛政年間、馬場町に政吉という口入屋が居た。
ある時刺青彫師の彫宇が訪ねてきて「若い娘が、やけに難しい注文をつける小娘で、箸にも棒にもかかりゃしねぇ」と愚痴をこぼした。
ところが政吉の方は、「へぇ、女の子で、紋々を彫ろうなんざぁ嬉しい心意気だ」すっかり話に釣り込まれた恰好で、
「石原町の万吉親分のところの一人娘のお花さんが、暮の風邪っぴきをこじらせ、あっけなく亡くなってからというもの‥‥お内儀さんが気が違ったみたいになってしまって、
誰か似通った養女をと親分は云いなさるのだが、稼業が稼業だから普通の娘さんじゃ荒っぽすぎて駄目だが、そんな娘っ子だったら良いかも知れねぇ」
 すっかり乗り気になった政吉は、宇之吉の肩へ手をかけ、
「万吉親分に忠義するにゃあ、お誂えむきのよい話じゃねぇか。どうでぇ、どんな娘か逢わせてくれろ」
と意気込んで家に行くと、おかくという娘は二た間きりの家の中を、こまめに拭き掃除していた。

「女だてらに刺青の一つも彫ろうというからにゃ、どんな阿婆ずれか、お引きずりかと思ったが、こりゃ働き者の娘さんじゃねぇかよ」
 すっかり感心したように政吉は唸り、かぶった物をとって挨拶する顔を見ると、
「えれぇ上玉だ‥‥色が白くて痘(いも)もねぇ。これじゃあ万吉親分の養女に納めても、ちゃんと貫目があらぁな」すっかり歓んでしまった。
政吉が「何か彫る図柄のことで‥‥おめぇさんと親方は意見がくい違って、いざこざになってるそうだが‥‥いってぇぜんてぇ、おめぇさんは何を彫ってもらいたんだね」
 おかくの前に腰をおろし胡座をかいた政吉が、顔の真ん中を見据えるようにして尋ねかけた。
 すると、おかくは羞かしそうに、「かに‥‥」低く口ごもって答えた。
 だから政吉が聞き違え、「まだ若いから男除けに、渋柿か青柿でも彫ってもらいていんだろうが、そりゃ悪い了簡だ。いったん墨を入れちまったら、おめぇさんが女盛りになっても、
熟柿とは変りゃしねぇし、それに、ばばぁになったら枯露(ころ)柿になっちまうなんざぁ、悪い趣向っていうもんだ」
 頭ごなしに反対した。そこで宇之吉も、

「ほれみねぇ‥‥誰の考えも一緒だ。そんな見栄えの悪いもんを、この彫宇がやれるかってんだ。なぁ、せっかく割れ目が入って左右にふっくらしてる所なんだ。
桃にしねぇ。桃の実だったら、ぴったり巧く納まるように針をさしてやらぁ」脇からここぞとばかり説得にかかった。
 しかし、おかくは唇をとがらせ、「柿じゃありません」と訂正して、「ほら、海辺なんかで横に這う蟹なんです‥‥あたいが云うのは」と、両手を横にふってみせた。
「蟹を男除けに彫るからには、チョン切るぞと脅かすのが、こりゃ何より効き目があるかも知れねぇ‥‥どうだろう。この気っぷなら石原町の万吉親分やお内儀さんの気に入り事はうけあえる。
俺が手間代はそちらからたんまり貰って届けるから、ここは娘の云うように好きな物を彫ってやっちゃくれまいか」
 相談するように話をもっていった。


寛政二年夏
万吉殺しの下手人


「へぇ‥‥この娘っこかい。可愛いじゃあねぇか‥‥」石原町の万吉親分は、おかくを人目見るなり気に入って、
「幼い時に親を亡くし、柳島の親類の処で厄介になっているというのなら、別にいざこざはあるめぇ。これまでの養育料だと小判の一枚を持ってゆき、向こうの寺の人別を此方の檀那寺へ移してしまえばよい」
と、仲に入った口入れ屋の政吉に、「厄介ついでだ、やってくれろ」と、足代を包んでいいつけた。

 さて、蟹の刺青が彫りあがって、万吉の家へ引取られたが、まだ身体が少し針の後の熱をもっていて、すこし気だるそうにしているおかくを、「もう此処が、おまえさんの家なんだからね‥‥何も遠慮気兼ねなんか、することはないんだよ」
と、お内儀のお六は、まるで死んだ娘が生き返ってきたような喜びようで、箪笥や長持に蔵(しま)ってあった娘の形身の衣装を出してきて、
「これも皆、おまえにあげるから、ひとつ着てみておくれでないか‥‥」と、取りかえ引っかえ、まるで着せ変え人形みたいに身につけさせ、「年恰好が同じだったから、とてもよく似合うじゃないかえ」涙を浮べて手放しの喜びよう。そこで万吉親分も、
「もう一、二年もたったら、身内の若い奴らの中から、しかるべき婿を探して跡目をとらせりゃあ‥‥俺も楽隠居ができようって寸法だ。良い娘が見つかってくれたもんだ」
 すっかり相恰をくずして満足した。そして、「かく、かく」と、まるで実の娘のように親身になって夫婦して可愛がり、当人も、「阿父つぁん、阿母さん」と、まめまめしく万吉夫婦に仕えた。
 だから、この侭でゆけば、おかくは何の為に蟹の刺青など彫ったのか、まるで徒労のような形で終る処だったが、一年おいて寛政二年(1790)の夏。


 七月の中旬から連日降ったり止んだりの天候だったが、八月一日の夜明けから沛然たる豪雨。まるで天と地がひっくり返るような、車軸をも流すような大雨に、南東から凄まじい台風が荒れ狂うよう吹き渡ってきた。
 このため墨田川の水面は溢れ、吾妻橋の七十六間の橋が水中に浸って怒涛のような激流が枕桁を推し渡してしまう有様。
 石原町も対岸が御厩河岸の浅草御米蔵なので、石垣積みで少し高くなっている関係からか、まるで盥を傾げたように石原下水濠割へ流れ込んできた濁水が、角の久須美六郎左衛門邸の塀を押し倒し、黒っぽい泡をたてて磧雲寺の山門を水浸しにした。
 
万吉親分は若い者たちを集め、「戸板でもなんでも水に浮かぶ物をもちだし、それで女子供や病人を、なにがなんでも救い出せ」
 すでに腰まで水かさを増してきた濁水の中で、梯子の上にのって指図をした。「へぇ合点で‥‥」下帯一本の若い者達は一人残らず出払っていたので、
「阿母さん、あたいの背につかまっておくんなさい」かくも晒木綿の腰巻一つになって、万吉の女房を肩にし、「御竹蔵の台地が高くなってますから、
ひとまず彼処へ」板片れや笊や汚物の漂う逆巻く水の中へ、甲斐々々しく出て行こうとした。そこで、万吉も心配し、

「若いやつの一人か二人は残しておけば良かった‥‥」と案じ顔で止めにかかったが、「いいえ阿父っつぁん、私は女でも、まだ若いんですから‥‥」
 にこにこしながら、まるで濁水をかき分けるように、胸の隆起をぶるぶるさせながら青竹を杖に出ていった。そこで万吉は、
「気をつけて行くんだよ」と声をかけてやりながら、眼を細くして、
「実の子でも、ああまで孝行はしてくれねぇもんだが、有難いこった‥‥」
と、その後姿を見送っていると、家の戸口から竿の先が、ぬうっと入ってきた。
 

 はて、おかくが出かけたものの、進むに進めずまた戻ってきたのかと、梯子にぶら下がりながら万吉が、首を下へ廻したところ、「‥‥おらぁ、川向こうの儀助だよ」舟のへさきを戸口から入れてきて、両国で同業をしている男が呼ばわってきた。そこで万吉は喜び、「ふだんは稼業の上で、とやかくの事もあったが、よく見舞いにきてくれた‥‥俺は一人っきりだが大丈夫だ。
それより娘のかくが女房を背負って、たった今、出かけて行ったのが気に掛る‥‥おまはん、その舟で俺が処の女共を救ってやっちゃくれまいか」頭を下げんばかりにして、気になる母娘のことを頼んだ。すると、「へぇ、万吉親分ともいわれなすった御方が、この大雨風の中で、たった一人で居なさるのかい」
と、儀助は口を開きにやっとした。
「本所(ところ)は、ちょっとの雨でもすぐ水浸りのする処だ。だからこの嵐で怪我人や死人など出したら大変だと、若い奴らは手分けさせて皆出してあるんだよ」万吉がそれに答えると、


「‥‥そうかい。一人っきりで居なさったとは、これぞ天の助けってとこか」儀助は手にしていた竿をつきだしてきた。
「俺を舟にのっけてくれるより、母娘の方をみてくれろと頼んだばかりじゃねぇか」 いぶかしそうに、差し延べきた竿を掴んで押し戻そうとすると、
「じたばたしたら、危ねぇじゃないか」竿を先をしっかり握った処で、儀助は思いきり引っ張った。
 だから身体を浮かした万吉が、思わず梯子から手を離して、濁水の中へ突んのめるように水音高く落ち込むと、
「誰がてめぇなんか助けに‥‥この嵐の中をわざわざ出向いてくるもんか‥‥臭え水の中だが我慢して往生しやがれ」立とうとする肩先を竿で滅多打ちにし、
「何をしやぁがる‥‥」と舟板へつかみかかるのをへ、「てめえって老いぼれが本所深川を押さえ、一切を取り仕切っていちゃあ‥‥この儀助が羽を延ばそうにもその余地がねぇ‥‥汚ねぇ水葬れんで悪いが、
どうせ老い先短い命だろう。ここは諦め器用に死んでくれろ」と、足でその手を力まかせに踏みにじり、沈めてしまった。

妙な噂が
おかくの決心


 さて、この寛政二年八月一日の江戸の台風洪水は、流失家屋三千に死者も万近く出ての災害で、石原町万吉の死も、「不慮の災難」という事で済まされてしまい、檀那寺の大徳院で八月十五日に葬式がいとなまれた。
 しかし不意の椿事なので、遺言とてもない。お内儀さんの方は、おかくが背負って御竹蔵の方へ避難していたので、幸い一命には別条なかったが、四十年近くも連れ添ってきた万吉親分の俄かな死に、
がっかり気落ちしてしまい、さながら病人のような有様。
 そこでやむなく、おかくが喪主となって葬式はいとなんだが、さてその後の事は、別に誰とめ合せるといったような話も決っていなかったから、とりあえず女手で取り仕切って行く事となった。
 はたからみれば、まだ十八になったばかりの、番茶も出花といった器量良しのおかくが、帳場に座り込んで大の男を顎先で使うのは、大儀そうな感じも与えたが、
万吉子飼いの清次、常助といったのがついていたから、おかくはそれ程までに煩わされる事もなかった。
 そこで暇さえあれば奥の間へ引っ込み、あれ以来寝たっきりの万吉の後家に寄り添って、
「阿母さんあんばいはどうでございます。おみ脚でも揉みましょうか」自分も幼い時に親をなくしているので、さながら産みの親に仕えるように重湯を作って口へ入れるのを手伝ったり、痒いところへ手が届くような看護をしていた。
そこで一家の者はもとより近所の者からも、「幼い時から貰い子をしたのでもないのに、よくまぁ、あすこまで孝養を尽くせるもんだ。うちも実子は他所へやってしまって、改めてどこからか貰い子でもしたいもんだ」とまでいわれるようになった。


 さて、こうした具合に近所の褒められ者になると、お節介というのか、外へ出た処をそっと寄ってきて、辺りをはばかりつつ、
「あのね、おかくさん‥‥おたくの若い衆には云いにくくて黙っていたが、実は、あの嵐の時に、川向こうの両国の儀助って親方が一人で小舟を漕いで、あの嵐の中をおたくへ来たのを見かけた者がありますのさ」
 袖を引っぱって耳打ちしてきた者がいる。これには、おかくも驚いて、
「あたいが阿母さんを背負って出かける迄は、誰も来てなかったから‥‥じゃあ、その後かしら」といぶかって、家の中へ戻ってくると、清次と常助の二人へ、

「変な事を耳にしてきたんだけど‥‥儀助の奴が何しに此処へ来たんだろうね。同業の誼みで阿父っつぁんを助けに来てくれたものなら、もう手遅れで間に合わなかったのかしら‥‥」
 すぐさま尋ねてみた。すると二人も互いに顔を見合わせ、
「そいつは初耳だが、おかしな話でございますねぇ‥‥あの野郎、それが本当なら、その事を云いに来てもよいのに、葬れんの時だって面も出しゃあがらねぇし、妙ちくりんだ」
「うん、舟まで持ってきたというからには、もし、うちの親分が梯子から足を滑らせていて、打ち所が悪くて潜っていなすったとしても‥‥まだ、もがいているところだろうから助けられた筈だ」

「それに、わざわざ漕ぎ出して舟き来たもんなら、あっちこっちと声をかけ探し廻ってもいい。なら近くに俺達が素っ裸でもいたんだから、その時儀助を見かけてる筈だ」
「だが吾々二人だけでなく、うちの若い奴らで儀助を見たのが一人もいないって事は、やつがあの嵐に紛れてそっと忍びこんで来たんじゃなかろうか」
となった。そして、「そう云やあ‥‥うちの親分が亡くなってからというもの、まるで待ちかねていたように、儀助のやつめ此方とらの縄張りへ平気で、ちょかいをかけていやぁがる。
こりゃ姐さん、臭えやァ‥‥」と清次はいきまいた。そこで、おかくも思わず溜息をもらし、


 「あの嵐の中で人助けの為に皆を出してやり、一人っきりで残っていた阿父っつぁんへ、理不尽な事をしたとあっては許しておけないわ。ねぇ、みんなを集め両国へ殴りこみをかけようじゃないか」
 眼に涙を浮べて切り出した。しかし常助も、「まぁ待っておくんなせぇ、いくら怪しいからといっても、はっきり証拠をつかんでいない話だから、此方の当て推量だけで、まさか両国へ討入りも出来ますまい‥‥」
と止めにかかった。「そうかい‥‥」と、おかくは答えたものの、眼に口惜し涙を一杯に浮かべ、ちりちりした顔つきになって、
「‥‥あたいはこれまで掛け違って、その儀助とかいう奴とは逢ってもいない。だから顔を知られていないのを、もっけの幸いに、たとえ身体を賭けても、きっとその手証とやらを掴んでやろうじゃないか。どうだろう‥‥」
とまで言い出した。「まぁ、ちゃんとした証拠か、本人の口裏でもとれたら、ふてぇ野郎は叩っ殺して、亡き親分の仇討ちは致しますが、あの悪賢い儀助の奴、巧く尻っぽを出しますでしょうか」
 二人は互いにまた顔を見合わせ、自信が持てないような言い方をした。が、それでも、おかくは(こうと心を決めたからには‥‥)といったような、悲壮な決意を眉字に示し、
「でも、あたい、やってみる」きっぱり云ってのけた。
第二部に続く。