尼子氏の考察 織田信長と尼子氏は同族 関門海峡の無かったころ | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

尼子氏の考察 
尼子十勇士も天の末裔
織田信長と尼子氏は同族
関門海峡の無かったころ


 「旧約聖書・日本史」に古謡曲和布刈(めかり)を、出エジプト記と対比に掲げてあるが、これはまぎれもなく古謡曲であるし、一般には馴染みがあまりないものかも知れない。
松沢正和氏が昭和三十年に全農協出版より刊行された「村の二千年史」は今は絶版になっているが、塩尻とか海人とよばれ、製塩だけでなく魚も捕らされ、コンブ、ワカメの海藻類も課役労働として働かされてきた者は「天(あま)」の朝の末裔たちである。
この天の朝の人々は、当初は表日本の太平洋岸に、食料として生魚を食しつつ漂着してきて、往年のポートピープルのように接岸上陸した。
そして小屋掛けし、そこを生活の場として住み着いた。やがて天の朝は没落し、大陸勢力から奴隷として人間狩りにあった者たちが、漁業をさせるために若狭へも、縄付きで曳かれ奴隷市場から連行された。
ここには「天の日槍」が祀られていたのだから、農業や漁業を絶対にしない遊牧民族の崇神系ではなく、れっきとして「天」の民の末裔である。

 さて織田信長が尾張から近江の野州つまり琵琶湖畔の弁天崖に安土城を建てる前に、やはり「天の朝」の復活のために旗揚げしたのがいるのである。それが、「尼子(アマコ)」と名のる山陰の雄である。
歴史辞典の類には、武士は馬にのるから騎馬系と、「近江源氏佐々木氏の末流。出雲隠岐の守護より、近江犬上郡尼子の荘を領し、尼子姓を名のる」ときめてかかり「十五世紀より出雲守護代となって月山城を築き、富田城を設け山陰道を従え、
山口の大内氏を攻め、後に毛利氏に敗る」と、あっさりかたづけられているけれど、尼子氏がれっきとした「八」の海洋渡来民であった証拠は、日本銀行資料部にも「八福銀」とよばれる「八」の刻印入りの尼子の銀板が、今も何枚も保存されているのをみても、はっきりとよくわかる。


尼子十勇士を見ても(山中鹿之助、五月早苗介、藪中荊之助、秋上宗信、秋宅庵助、荒波碇之介、高橋渡之介、早川鮎之助、穴内狐狸介、藪原茨之助)これらは全てあかさたなはまやらの姓で統一されている。
一方山口の大内氏は中国系である。
中世紀はヨーロッパでも日本でも宗教戦争でなのある。雲州松江となった江戸時代でも名古屋と同じに抹茶が盛んなのも、アマの民の風習なのである。
今の福岡北九州市は豊前の大友領で、その次男八郎が大内へ養子に入って継ぎ、尼子氏に敗戦している。メカリの謡曲はこうして背景をわきまえてみないと、ちょっと納得ゆきかねるかも知れぬ。
 
 福井県敦賀には有名な気比神宮がある。けひ(気比)とはけひ(笥飯)のことで、飯または稲食で食物のことである。このケヒ神宮はアメノ・ヒボコを祭ったものと伝えられている。
なぜここにヒボコが祭られているかは、ケヒの意味するように農業に結びつくからであるが、
それが敦賀にまつられたのは、ここが三韓との交通路であったからである。昭和初期に敦賀からの対外航路はソ連のウラジオストック、北鮮東岸の清津、中部東岸の元山であった。
この元山への航路をすこしそれて朝鮮よりの位置に、ウツリョウ島という玄界灘の壱岐よりも小さな島があるが、ここまで一直線に来て、この島から慶尚南道の迎日湾に入り上陸、そこから僅かな距離でシラギの都、慶州に着く。
また島根県の隠岐の三子島をへて九州へ出て、玄界灘をわたってから陸沿いの航路もあったかもしれない。

関門海峡は何時できたのか
 現代人から見れば瀬戸内海を経由すればいいわけで、このような航路を必要とした理由はわからないかもしれないが、黒潮の赤間が関、今の下関海峡が当時まだなかったということを知ればうなづけると思う。
 謡曲のメカリ(和布刈、即ちワカメ刈り)には福岡県門司市のハヤトモ神社(謡曲では長門国、即ち山口県になっている)の十二月三十日の神事を伝えて、夜中(トラの刻)に至り、龍神があらわれて海岸の斎場近くの波を退けると、
潮は灘風を立てたように双方に引いて海底まで下れるようになり、神主は鎌をもち、海底へ半町も人つてワカメを刈ってくると述べているが、これは地峡を広くひらいて海峡としたことを記憶する神事である。
 
それでは、下関海峡は何時ごろできたかというと、伝えからみると仲哀天皇の御代で、いわゆる神功皇后の朝鮮遠征の直前で四世紀の初頭である。神功皇后の朝鮮遠征というのは事実でなくて物語であるとの説もあるが、これは征伐ということに囚われたからで、九州と南鮮との住民の間に大きな移動があったと解すればすむので、そのような大きな事業をするために海峡を拓くという大土木工事が必要であった。下関海峡の出現は、その後の日本の、直接には交通であるが、
間接には経済や文化の発展にとって貢献したことはいちじるしい。

 ただこの事実は、推測されるような記事がないでもないが、文字には確かなものとして記憶されず、千年以上も下った十四世紀に書かれた「太平記」に見えるだけである。
しかし宮中の内侍所の御神楽には(九世紀ごろから)「阿知女」として伝わっている。
 
(注)仲哀天皇が長門困豊浦宮(山口県豊浦郡)に都を定めて(古事記、日本書紀には、「仲哀天皇二年七月、皇后、豊浦津に泊ります。是の日、皇后―潮の干満をば左右するI如意の珠を海の中に得たまう」と記している)
数年も滞在したのもこのためであったであろう。
竣工せられてから筑紫のカシヒの宮(福岡県糟屋郡)に都を遷されたものであろう。
 だから、謡曲のメカリは豊玉姫と龍宮との交通の話になっているが、これは不自然である。


 浜名寛祐が沖野岩三郎の著書であったか忘れたが、帝国海軍水路部の係官から聞いた話として、下関海峡には掘った形跡があるということである。貞治五年(一三六六)十二月、歌人一条良基、宮中に「年中行事歌合せ」を行う。
足利幕府(義詮)の今川貞世も参加、内侍所の冲楽や「源氏物語」も詠じているが「メカリ」も演じさせている。
さて、尼子経久は近江犬神郡の尼子の庄の出身というから、近江八田より出て尾張へ行き、織田家に仕え、八田姓から織田姓を貰って勝幡の城番を勤めていた信秀の三男坊、織田信長と同じで、
淡海(琵琶湖)国の血を引く飛鳥人の末裔ということになる。
まだ信秀がうだつの上がらなかった小城の番人だったころ、経久はもう立身して出雲守護代という、現地に出張って一切を支配する立場になっていた。

 本当の守護は都にいて任地へはおもむかず、介(すけ)とよばれる次官が代理で出かけるのを、守護代というのだが、経久が行ってみると住民の殆んどが、出雲で圧迫されているのはアマの民たちだった。
「安来千軒」とうたわれるように、先住民族のタウンがあったから、センゲンと呼ばれたので、千は先であり賤とされていたが、富士王朝のアマの残党も、浅と当て字され浅間(せんげん)ともする。
歴史屋はここを間違って「千軒も家屋が在ったにぎやかな場所」としているが勉強不足も甚だしい。後の江戸にもセンの民族は多く住み浅草の浅草寺(せんそう)は彼らの拠り所として賑わった。

 さて経久は守護代として出雲入りをすると、それまで奴隷として苛められていたアマの民に目をかけ彼らを己が親衛隊のごとくした。なにしろ「日本の特殊部落」にも「出雲鉢屋文書」として掲載されているように、出雲の鉢屋とよばれるアマの民は逞しく、応仁の乱に狩り出されていった者らは、都中を震え上がらせるぐらいに勇敢な者たちであつたのである。それを経久は集めて、「同堂の者ではないか」と、お拝み堂を隠れて詣っている者らを、
己が館へ伴ってきては食事を与えて「家の子」つまり「ヤノコ」にし、郎党の数を増やしていき実力をつけていったのである。

  今も神主が、出雲大社の神官と同じで「千」の姓をつける隠岐の島を己が所領にした。
 「世直しをせねば、吾らは生きてゆけぬ」と因幡、石見、伯耆の民の子孫どもは、次々と経久の許にはせ参じたから、出雲もいつの間にか守護代ではなく、実質的な領主となり、五ヶ国を領有する戦国大名となって、
富田城を築き、アマの民の天下を、尼子氏は山陰に作りあげたのである。
 

元来は裏日本の山陰地方はベーリング寒流によって渡ってきた騎馬民族の子孫が多い土地柄である。
 しかし経久が、あれよあれよという間に、下積みの奴にされていた鉢屋衆を一つに纏め、強大な軍団にしてしまっては仕方なく、騎馬系の毛利元就も尼子氏に臣従するしかなかった時期もあった。
 孫の晴久の代になると、騎馬民族系を結集した毛利元就が、安芸吉田の郡山にて叛旗をひるがえし、攻めてもかなわず伜義久の代には永禄九年十一月に、逆に富田城を落とされてしまう羽目となる。

  山中鹿之介ら尼子十勇士は四国の同堂の海衆の許へ逃れ、元亀二年に同族の信長に頼ってゆくまでは、同じアマの民として舟をこぎ漁をして姿を隠していたのも同族だからこそ出来たことである。
「平」の姓が付く信長が味方して、播磨の上月城を与えて尼子再興を許し、同じく「平」の秀吉に協力を命令したのも、決して利用したのではなくて、同じ宗旨のあまの血を引くどうしのせいなのである。
しかし戦い利あらずに落城してしまい、山中鹿之助などは殺されてしまったが、他の連中は山を下りて海へ出た。
そして海賊衆と呼ばれる水軍に舟夫として入り込み、彼らが中国や南方から大きな法螺貝を持ち込んできて、おおいに戦国時代に敵を威嚇する音響効果から流行させて、膨大なもうけをあげ「尼子船」まで持ったという。
明治になってから各船舶会社の創立者は、殆んど彼らの子孫で、アマの末裔として海運日本の基礎を彼らがひらいたのは、騎馬民族系の末孫が土木建築業者として、東京始め各地でそれぞれ成功したのと相対的な現象とされているのである。

 なお、織田信長も尾張近郊の虐げられてきた八の民を開放し「よくも今まで同族を苛めやがって」と八の者にのみ商売を独占させた。そして大陸系や朝鮮系の者達に落とし前として「ヤ銭」を割り当て強制的に徴収した。歴史屋はここを間違ってヤ銭を屋として「棟割り税」としているが八の民の歴史を勉強しろと言いたい。
信長が「天下布武」と君臨できたのもこの八の民が武力で協力し、商人は商売の利益で協力したからこその結果である。
信長の後年の武将には、蜂須賀、蜂屋、長谷川、早川、速水など「ハ」の付く武将が多いし、秀吉も若い頃は旗印に〇に八の字を描いて戦場を駆け回っていた。
だから名古屋市は「郷土の産んだ英雄にちなみ」市章は〇に八の字にしている。

 しかし、信長が本能寺で爆殺されると、後ろ盾を失った彼ら「や衆」の商人たちは哀れだった。落ちぶれた者も多く「近江こじき」だとか「尾張ホイト」と蔑まれた時期もあったが、
江戸時代になると貨幣経済の定着とともに江戸へ出て商売に励み成功者も多かった。
江戸の名物「三河や、いなりに犬のクソ」と言われるほど「三河屋」の屋号は多く、その他「越後屋」「尾張屋」「近江屋」と呉服屋、酒屋、八百屋、魚屋と全てが「や号」を付けるようになった。
現在でも高島屋、松坂屋、と有名な屋号は残っているのをみても彼らのバイタリティーが窺われる。
山中鹿之助の死後、その遺族が鴻池を作ったのは有名だがこれは後の話。