折々の桜 染井吉野の由来 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

 折々の


 日本各地に桜が絢爛と咲き誇るこの時期「染井吉野桜」を愛でる人々は多い。
しかし、この桜が日本中で愛されるようになった裏には、悲しい生涯を余儀なくされた一人の女の物語が在った。

 五代将軍徳川綱吉も、御台所は京から嫁いできた鷹司教平の娘信子であった。信子と一緒に京からついてきた梅小路局、右衛門助局、大典持局たちも綱吉は側室にしていた。
一方、綱吉の寵臣で時の老中、柳沢吉保も正室さめの他、側室として正親町公連卿の妹町子を始め何人もの侍妾が居た。 さて、綱吉の側室の一人で染子という女が居た。
彼女は四代将軍家綱の許へ、京より近衛関白家の姫が輿入れしてきた際、共をしてきた中に当時十三歳の染子が居た。彼女が大奥で一の井戸番の大役を七年間勤めていたが、

 二十歳の時綱吉の目にとまり側室の一人となった。 綱吉は染子を気に入って多くの時間を染子の許で過ごすようになった。処が綱吉は染子を寵臣である柳沢吉保へ下げ渡してしまう。
 時に染子は綱吉の子を身篭っていた。綱吉のこうした行動は奇怪だが、彼が上州館林の頃の家老であった牧野備後守を、将軍宣下と共に側用人として江戸へ連れてきた。
その心安さからなのか牧野の妻女と娘までも共に差し出させ、用いていた事実がある。 これを綱吉の性癖として片付けるには、その気性の異常さが窺われて、歪んだ性格がみてとれる。
さて、元禄八年四月。石神井の三宝将池を水源地にし、滝野川から巣鴨へ清らかな千川上水がそそいでいる当時の駒込村四万七千坪を、将軍綱吉より、「別邸でも作るがよかろう」と柳沢吉保は拝領した。
そこはかねて染子が、茶を入れる清水を求めに使いを出し、水を汲ませていた井戸があった土地である。

 
 そこで吉保は考え(これは染子が上様に寝物語に話して、では水を求めに使いを出すのも厄介であろう。よし、ではあの一帯をそなたにくれてやろう・・・・と、便宜を計るために賜ったのだろう)と、
吉保は染子を呼んで、にこやかに微笑して見せ、 「染の井戸からとって、拝領の一帯をば染井とつけようぞ」と労るようにいって聞かせた。

 それから己が名を取って、「染井」と呼ばれるようになった千川の沿岸に、童女の頃に親しんだ吉野山の苗木を取り寄せて、づらりと染子は気晴らしに植えさせた。
だから、元禄十五年になって、七年がかりで六義園が出来上がった頃には、染子が作らせた桜並木もみな成長して、薄紅色の花が一斉に咲きほころび満開となった。
そこで、「ほう、よき趣向であるな・・・・」と六義園初開きに招かれた将軍綱吉も、美しい吉野桜に感心してしまい、 控えていた柳沢吉保を振り返って機嫌よく顎をしゃくって見せつつ、
「この麗しい桜花は染子の志にて、ここに美しゅう咲き誇ったもの」目を細めていってのけてから、おもむろに、 「・・・・・・よって、染の桜とか、染井桜と名付けてはどうかな」
 共に一人の女を抱き合っている間柄の親感からか、相談する如く呼びかけてきた。
このため、江戸時代に染井の桜は有名になり、同種の花をみんなひっくるめて「染井吉野」と総称されるまでになり、今でも一般化されているし、昭和二十年のアメリカ軍の東京無差別大空襲で焼き払われるまでは、
「飛鳥の花見」として親しまれていたものである。 知ったかぶりをする歴史屋は、吉原の遊女吉野太夫の命名だというが、
吉野の桜を染子が名付けたのが本当の処で、それが徳川体制下ゆえ広まったのである。

が、生きていた頃の染子は、「一緒まい」つまり京言葉でいう、共用の女と秘かに町子たちに蔑まれつつ、 「うちかて、何も好きで二人の男はんに抱かれとうて、抱かれとるんやないし・・・・」と、
 桜の咲く季節だけでなく、何時も涙ぐんでいたのは、今ではあまり知られては居ないようである。
「染井吉野」の由来もだからまるっきり判らなくなっているのである。 
桜好きの日本人

さて、日本人の桜好きは大変なものだが、これほど一つの花に入れ上げる民族というのは世界でも珍しい。
「花は桜木人は武士」のような、軍国主義的浪花節は論外だが、

本居宣長の「敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花」などという詠嘆も、日本人としてはなんとなく万民に通じる感慨だろう。また『平家物語』の中の最高の挿話の主人公、歌人薩摩守忠度の「ゆきくれて木のしたかげをやどとせば 花やこよひのあるじならまし」も良い。つまり桜の下での野宿だが、満開の桜の下で一夜を過ごす身のうそ寒さを、頭上の満開の桜がかばってもてなしてくれるという、花の擬人化などという小器用な歌の技を超えて、
花の下で花に抱かれて眠る粋な陶酔をさらっと歌っていてなんとも心地いい。
さらに、「見花」と題されて、「咲きつづく花の梢をながむれば、さながら雪の山かぜぞ吹(く)」という短歌がある。
これは、旧候爵蜂須賀家に伝わっているもので、明智光秀の署名があり、明智光秀の真筆として名高いものである。
春近く、桜咲く美濃の山並みを眺めると、自分を置いて嫁いだ母を恋する寂しい子供の頃の心情を詠んだものである。

その他にも「ほととぎす、いくたび森の木のまかな」とか、「夏は今朝、島隠れ行く波のみかな」「立のぼれ、末は九重の春がすみ」といった心やさしい発句を残している光秀は、主殺しの汚名を着せられた「逆臣」だが、歌から窺われる人間性は良質なものである。ともあれ、自然に折節に感動する日本人の感性には素晴らしいものがある。