「海洋渡来民族の民族カラーは赤」相互扶助と団結の象徴『日の丸』 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。


 「海洋渡来民族の民族カラーは

相互扶助と団結の象徴『日の丸



 だいぶ以前になるがホメイニ革命以前の、イラン建国三千年祭には、日本から三笠宮も招かれた様子がテレビで放映されていた。

  観兵式では中世式の乗馬兵が、真紅の赤長旗を林立させての行進は見事だった。このイランに限らず中東の国は、アラーのイスラム教以前の宗教と言えば太陽や火を崇める拝火教が主な宗教だった。
勿論、水を崇める拝水教などもあった。この拝火教徒が民族のシンボルとしての色が「赤」なのである。

 これら拝火教徒が住むアラブの地から、インド、マレーシア経由で多くの人間が、この日本列島に漂着し定住していたことを日本史では隠している。
これらは、日本民族の中でも海洋渡来民族で、日本史では源、平、藤、橘、と分類するが
  
  源は裏日本、沿海州から入ってきた騎馬民族。民族カラーは白
  
    平は海洋渡来で太平洋沿岸各地に漂着。民族カラーは赤

  籐は藤原氏を名乗る中国よりの占領軍。色は坊主の着る墨染めの黒

  橘はタチバナとも読むが、唐を滅ぼして取って代わった契丹族のキツ 色は黄色


日本でも平家と呼ばれる、即ち海洋渡来系民族は赤旗を目印としている。
真田幸村が全軍赤旗を立てて戦ったのも、宗旨の為であるし、遠江井伊谷出身の井伊直政が滅亡した武田の遺臣団を召抱えて、部下の甲冑まで朱塗りにしたのも同様である。

 さらに大岡忠相が堂(道)の者と呼ばれるようになった拝火宗徒の、旅回りの芸人達に五街道目付けを命じた時も、それぞれに捕縄と朱鞘の公刀を渡したのも同じ。
 街道で川渡しの人足も赤ふんどしで、一方騎馬系の雲助や駕籠かきは白ふんどしと決まっていた。
江戸時代も明治初期までの日本人の風俗は、普段の男はフリチン、女は腰巻でノーパンだった。仕事や外出の際は褌をした。

蛇足で褌談義を少し。

明治初期の悟道軒円玉の講談に、
「この野郎、褌なんか締めてきやがって、喧嘩仕度かい」というくだりがあるが、つまりヤクザが神祇を切る時に股を開くのも、
(決して他意はありません)と倅にも挨拶させるためのものだったらしい。
しかし、大工とか鳶、火消しといった高所へ登る職人は、一つ足を踏み外せば命がないからそこで「死に装束」として褌を締めたが、これは両掛けといって、腹巻から出る仕掛けになっていた。それでも用心して高所へ昇る職方は、もしもの時でも露出しないように、きっちり肉にくいこみそうな、今でいえば細身のズボンをはいたものだが、一般には普段褌ははしていなかったものである。大正期に入っても士族というのは冬はネルの腰巻、夏は浴衣みたいな布をまいていたのである。
 これは銭湯で八十代の年寄りがいたら聞けばすぐ分かる話だが、つまり弓の弦と同じで、いざという時だけに張ってしめ、後は開放して置かないと、たにしろ湿気の多い土地柄で、いつもきっちり包んでいては、インキンタムシに昔はなったせいだろう。もちろん衛生上も風通しをよくしておいた方がもちがよく、
 「山岡鉄舟は、いつもニギリキンタマで話をしていた」というのも、なにも無作法ではない。常在戦場の心構えで、治にいて乱を忘れずと孤剣をしごき鍛練をしていたのだろう。
 いくら昔でも、開ければ女はオープンで、男だけがキッチリ包むといった男女不平等の話はない。
 ヨーロッパでも、南欧系の男は今でもワイシャツの端でカバーしているだけだから、よく冷えていてすぐ役立つのか、イタリヤにしろスペインにしろ、食前食後といった男も多い。日本でいう駆けつけ三杯のくちである」さて、

 


日章旗(日の丸)も源氏の白と、平家の赤

 日本民族はこの海洋渡来と騎馬系が大半を占めるため、全国に赤鳥居と白木の鳥居が多い。
紅白の幔幕は縦は紅白で二分されていても、海洋系が多いことを慮って幔幕の上位は赤になっている。
 こうしたことが背景にあるため、日本人は何かと紅白に分かれたがるのである。運動会然り、紅白饅頭、紅白かまぼこ、紅白水引、紅白歌合戦さえある。

さて、幕末期北海道近海にはロシア船が頻繁に来攻しだした。ために徳川幕府は北海道防衛にと赤系の平氏者を集め、彼らが今でいう、有事立法の下に頑張るようにと、船体を紅殻で染めた赤船艦隊64艘を作った。
高田屋嘉平が「操船するのは海洋民族の平氏が良いが、応戦する者は武闘派の源氏者が宜しかろう」と、進言した。それゆえ同乗させた双方が船内で宗旨違いで争っては困ると、源氏の白旗の中心に平家の赤を丸で入れて恰好をつけたのである。
『嗚呼、堂々の日の丸船団』はこの時誕生したのである。源氏者は「我らの白で赤を囲んでいるんじゃ」と言い、平家者は「白の真ん中に我らの赤がどっかり座っとる」と、どちらも都合良く解釈し、
すこぶる評判は良かったらしい。文化、文政には根室、択捉、国後まで日の丸をたてた500石や1500石の船団が北の海に君臨した。

不勉強な歴史屋は勝海舟が乗り込んだ威臨丸の日の丸が最初と言うが、この赤船が嚆矢なのである。しかし当時も厳しい北の海である。難破する船が続出し、文化10年を以て廃止されたゆえ、
万延元年の渡米の際まで途絶えていた。ペルリが浦賀へ来る前のアメリカ捕鯨船団がこの赤船を見かけている記録が現存している。

【追記】
この日の丸国旗のいわれについてはもう一つある。
日本民族の内、赤と黒は天孫系で、白と無色が原住系という識別が厳然としていたらしい。徳川家は三代家光からは血統も怪しくなったが、
それでも「神君家康公思召しにより」と幕末まで「八朔」といって、旧暦ゆえ秋風のたつ頃なのに、将軍家から端下女のお末に到るまで、全員白装束になる習慣があった。
当日は吉原の女郎衆も白衣を着て江戸中が白一色になった。だから、幕末に新見豊前守が訪米使節になった時、
(大公儀が京を包み参らせる形なり)と採用した白地に赤丸入りの旗が御一新になると、
(赤丸が白を押さえ従えるのは良い図柄)と反対に評価されやがて「白地に赤く日の丸染めて、ああ美しや」となったのだとも云う。いずれにしろ「白は空で、赤は太陽を表す」という認識は誤りで、日本民族の「民族カラー」が正しいようである。


さて、いまだに日本では「日の丸」と「君が代」の掲揚と斉唱を巡る動きが、特に教育現場で喧しい。起立しない教師や、歌わない教師がいるのは「ふとどき」である。
旧ソ連は崩壊したし、東欧も民主化し、中国、北朝鮮、キューバぐらいしか社会主義国家はなくなった。だから日本の左翼は若者に人気がなく、すっかり落ち目だと言われているが、
必ずしもそうとは言えない状況もある。というのは、日教組は相変わらず国旗、国歌反対の教育にしがみついているし、文化人の中にも安普請の人間が多く、ことさらに反国歌、反皇室のポーズをとりたがる。
国旗、国歌を論ずれば必ず天皇制の問題につきあたるし、そして天皇制を擁護すれば右翼のレッテルを貼られる。

だが右でも左でもない自由な視点でこの国を見 、日本を愛している人間は何千万といる。よく「日の丸は血塗られた侵略のシンボルだ」と言うが、米国や英国、その他の先進国の国旗は侵略や革命で、
まさに血に染まった国旗以外の何物でもない。

自国の国旗にこうした過剰反応を示すのはこの国だけである。
人種の坩堝であるアメリカなどは、国民結束意識高揚のため、至る所に星条旗が在るし、ストリップ劇場でさえ観客は国歌を歌っている。
従ってそういう安普請の人間達の思想はいかにも浅薄で、其の行動もいかにも矛盾している。彼らこそ、この日本を危うくしている元凶ではないのか。
日本史の記紀は神話だし、徳川史観や皇国史観では虐げられた庶民の歴史は隠されていて、さっぱり解らない。一日も早く現在の日本史から脱却し、自由で怜悧な目でこの国の歴史を見直せば、
日の丸も君が代も、その生い立ちが理解できるし、ひたひたと中国の日本侵略の足音も聞こえてくる今、国防を厳にし団結の象徴として日の丸を尊とすれば、これからの道も見えてくる筈である。


「安芸の宮島」

 観光地で有名だが、アの発音で始まるということは海洋渡来系の平氏の建てたもので、今でも朱塗りである。
 そして宝物殿には、平家の公達が用いたという佩刀が飾られているが、日本刀とは似て非なるものである。即ちストレーと呼ばれる直刀でしかも両刃の剣である。

この日本刀の創始者は足利義満と謂われているが、彼は豊富に取れた日本中の砂金を明国に送って粗悪な鉄銭をバーター交換して、北条時代に元寇で懲りていたので、故意に「臣源義満」と名乗って明の属国に甘んじて足利体制を維持した。
そして入道した時に南蛮族来寇(これを刀一の来寇と日本史では言う)があり、防戦のため日本原住民を駆り集めて防人として九州へ送り出した。
その際両刃の剣は、鋼の無い日本だから片刃で付け焼刃の刀を持たせたのである。

今でも日本刀は鋼はごく一部で美術品としては良いが、折れやすく曲がりやすく実用には向かないのである。
 外人に人気なのも、間違った武士道と、美しい波紋の神秘性ゆえである。
幕末の新撰組でさえ、刀術は奇数日、槍術は偶数日と決めていたが実際にはほとんどが槍術の稽古だったという。
 人殺しには槍の方が数倍有利であることは論を待たないだろう。だから映画やテレビの切り合いは全部芝居の影響で嘘。
土方歳三だって実際の戦闘では槍も使ったし鉄砲も撃った。

 さて、宮島には硝子ケースの中にはガレー船と呼ぶ、奴隷に漕がせる船体の模型や絵図もある。こんな形態の船は日本中何処を探しても無いが、同じモデルシップがスペインのマラガ博物館やポルトガルの海事博物館にも陳列されていて、それには困ったことに「平家一門御座船」とは出ていなくて、「ムーア王の艦隊」と出ている。

 このムーア人というのはアラブの民がアフリカ大陸に入り混血した民族なのである。
その歴代の王の名が出ているのをどう考えるかである。
そして宮島神社の国宝級の直刀や太鼓はベイルートやバクダッドの空港売店にも全く同型の新しい物が、御土産品だから色彩は派手でサイケだが10ドルで売っている。
 これらから必然的に浮かび上がる事象は、昔アラブ方面からの民族の流入がこの日本列島には在ったということだろう。
そしてその子孫は今でも日本人の半分を占めるほどに増えて、庶民として暮らしている。
ちなみに、海洋渡来系の多く住む中部地方の名古屋弁とアラブ語のイントネーションの驚くべき類似性を何と考えるか。