奇怪・細川忠興(第三部) 於玉を殺したわけ | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

奇怪・細川忠興(第三部)

懺悔の値打ちもない

於玉を殺したわけ


「いろ話」にもってゆくのが、一番説得力ありとするのか・・・・・・。
 利休殺しは娘の吟に秀吉が惚れたためとし、忠臣蔵の起りも高師直が顔世御前に惚れ振られた
ためとするが、忠興の跿も同様に、(於玉に惚れていて悋気深かったから)とされている。しかしこれはやはり間違いである。
 
 どうも明智光秀の娘である於玉を大坂城へもってゆかれては、甚だまずい事があって、そのために、少斎が彼女を突き殺したのだと見るしかない。が、では何が都合が愿かったかとなる。
これに対し俗説的な答えでは、嫉妬を別にすれば、
 「細川忠興は耶蘇嫌いだったから、信者である夫人が大坂城へ連れてゆかれ、他の人に入信をすすめるような事があってはならぬと、警戒したのである」とする。
 しかし浦川和三郎氏の『一六〇六年(慶長十一年)度耶蘇会年報』の中でも、セルケイラ司教が京から長崎への帰途、細川忠興の小倉城に招待された模様がでている。
 
 「自分をキリシタンのごとく見なしてほしい」といって忠興は、司祭らに対しボーイのごとくみずから皿を配って歩き、そして、「共に、神に祈って頂きたい」とまで申し出て、その後も、教会建設のために土地を寄進し、維持費をも年々出していたという。
 一六一一年にセスベデス師父が亡くなる際も、忠興の至れり尽せりの親切は特筆すべき、であるとも書き加えられている。だから、(細川忠興は耶蘇教嫌いだった)とするのは誤りであろう。
 なにしろ『ジョアン・ロドリゲス報告書』の方でもはっきりと、「ブゼンの国の首都小倉の教会には、説教を聞きにくる者、懺悔にくる者、聖体拝領にくる者が多くて、手狭になった処、
王であるエッチュウ・ナガオカ(忠興)の殿は、すぐさま新しい教会建設の許可を与え、資金までも寄進してきた。彼も他の信者のごとく、四旬節の断食さえも励行した」とある。
このように忠興の並々ならぬ教会への打ちこみようを書いている。

 戦国時代の武将というのは、イゼス派の宣教師が硝石輸入商人をかねていたので、鉄砲用火薬を入手したいばかりに聖書も知らず、「ドリチナ・キリシタン(神は讃えんかな)」の一句だけを口移しに習って入信したものだが、
忠興の場合は正式には入信もしていないのにあまりにも熱心であり、(彼は何らかの罪をおかし、それで良心の咎めに悩んでいる)としか認めえぬような有様である。
 そこで忠興が、妻の於玉を殺してしまった事への悔悟かとも思われるが、もし、そうだったら他に当時の事ゆえ菩提でも葬う寺でも作ったらよいかと考えられるのに、その形跡はない。
それどころか、『フロイス日本史』に現れてくる忠興の姿は、余りに異常である。
 
たった一人の生き残りの証人

 何故に供養をせずして、あくもでもイゼス派の説く天の神を慕って、そこまでの押えきれぬ改悛の信仰を示すのだろうか。
 「ざんげの値打もない」といってしまえばそれまでだが、どうも於玉殺しの裏面には、あえて実行せざるを得なかった何かが有るような匂いがする。
 もちろん現代でも、痴話喧嘩で妻を殺す夫も居るが、忠興はまさかその所為でもあるまいとすれば、そこには、もっと大きな秘密が匿されていたのではあるまいか。
 つまり、少斎の手によって何故に於玉を入城前に殺さねばならなかったかの謎は、彼女の囗封じだったと推理せざるを得ないような気がする。
 では何か洩れては、まずくて殺したのかと云えば、それはやはり、「信長殺し」の秘密であったと見ざるをえない。なにしろ、天正十年六月十四日坂本城で男の兄弟二人と於玉の長姉、
ついで津田正澄に嫁していた妹も大溝城で死に絶え光秀の次女の彼女しか当時の生き証人はもはや慶長五年頃には、誰も外に居なかったせいもある。


 今では余り知られていないが、「関が原合戦における家康の大義名分」として掲げられた一つに、故信長の仇うちがあった。
 だから、かつて信長の恩顧をうけた諸国大名は、正々堂々と大坂方を裏切って徳川方についたのである。
 戦争というものには、出来るだけ尤もらしい口実が要るものだが、このキャッチフレーズはきわめて有効適切だった。なのに明智光秀の唯一の忘れ形見の於玉が、もし大坂城へ連れてゆかれ、そこで、
 「あの真相は・・・・本当は」と、口走られでもしたら、徳川方にとっては致命的な結果になったかも知れぬ・・・・・・・とするならば、
「よくぞ於玉を大坂城へやらんと始末してくれたな」と戦後、家康に賞められたろう事も判る。また、於玉の遺児細川興秋が、
 (生母から何か聞かされているかも知れぬ)と疑われ、関が原役後に江戸城へやられかけ、それを嫌って脱走。やがて大坂城へ加わったことも、これなら納得できる。
 という事は、徳川方では、
「故太閤こそ信長さま殺しの黒幕じゃった」といくら宣伝していても、真相は家康そのひとこそ張本人であり、細川忠興や父の幽斎も、はっきり事件に一枚かんでいた事実を、これは雄弁に物語るものなのであるからであろう。

本能寺の変を知っていたのか
                                   
 『信長公記』の末尾に、
「六月朔日、夜に入り、老の山へ上り、右へ行く道は山崎天神馬場、摂津国の皆(街)道なり。左へ下れば京へ出ずる道なり。ここを左へ下り桂川をうちこえ、ようやく夜も明け方にまかりなりそうろ」
 と本能寺襲撃部隊のコースが、主語が抜けて誰が引率した手勢かは書いてはいないが、道順だけは明確にうち出されている。
 老の山というのは当て字で、その昔、酒呑童子が巣くっていたと称せられる大江の山である。さて大江山から、摂津街道と京街道が二つに分かれていたのも事実である。
足利時代からその分岐点には、馬借とよばれる博労溜りもあったくらいである。だから丹波から京へ攻めこんでくるのには、天をかけ地を潜ってこない限りは、このコースを通ってくるしかない。

が、大江の山麓から京までは、地域区画では、丹波国船津、桑田の両郡に含まれている。そして、その二郡の領主は誰かといえば、天正三年以来、「長岡藤孝」と名のっていた細川幽斎が、信長から拝領している土地である。
そして京の入口ゆえ、その見張りと警護をかねて番所が坂に並んでいたと、連歌師里村昌休の旅日記にもでている。さて、「長岡番所」が見張っている大江の山から京街道へ、
丹波勢一万三千が夜間とはいえ、堂々と大手を振って通り抜けたというのは、どういう事を意味するのだろうか。
 
 高速道路の料金所でも、夜通し係員が起きているくらいだから、京の入口を守る長岡番所の番人がぐうぐう寝ていたとも思えぬ。
 それに一人で忍者のごとく通り抜けたのなら、気が付かなかったともいえようが、一万三千からの隊列が通りすぎてゆくのでは、二時間以上は列が続いて横切ってゆくわけで、これでは寝ていても眼がさめてしまう筈である。
 「大変だ」と一人が誰何に立ち、他の者は早馬で京へ知らせに行くのでないと、なんの為に番所が置いてあったのか意味がない。
 また、その番所のあった船津、桑田の両郡は、なんといっても細川忠興領ゆえ、一万三千もの部隊が通り抜けてゆくのを、彼が知らされていなかったというわけはない。
 後に髪を切って謹慎するくらいならば、この知らせをきいたら、「それは大変である。京の本能寺には、われらの御主君信長さまが・・・・・お跡目信忠さまが妙覚寺に居られる。すぐ馬曵けっ。もしもの用心にご注進せねばならぬ」と。
 細川幽斎でも忠興でも自分で飛びだすなり、又は、主だった家臣を飛ばせるべきだろう。が、知っていながら知らない素振りで、何もしていない。


 『細川家譜』ではこの時の事を、
「幽斎の臣米田求政が今出川相国寺門前の私宅についた時、本能寺の変を聞きしかば、愛宕山の下坊幸朝と相はかり早田道鬼斎という者を使者にだす。ときに忠興は中国筋へ出陣の手筈にて、
先手はすでに押し出している最中だったが、道鬼斎は泥足にて広間に走り上り文箱を差し出し、変を告げ参らせる。よって幽斎及び忠興は天を仰いで打ち驚き、落涙数行、暫しはものをも云われざりし・・・・」
 とでているのだが、どうであろうか。この時代には米田求政がいくら細川の重臣であっても、京における細川屋敷の中か近くに住まわねばならぬのが定めで、気まま勝手に別の場所へ私宅など設けられる筈などはない。
それに京屋敷ならば他に重役も居て相談できようし、又それが定法なのに、米田はそうはせずに愛宕山の幸朝に相はかったとなっている。
 
 もちろん愛宕山というのは船津と桑田の両郡に跨った山であるし、幽斎の長女於伊也が吉田家へ嫁していたから、吉田神道が押えていた愛宕とは関係があったのは判るが、文面では、まるで
洛中に細川の家来は誰も居なかったみたいだが、そのくせ、早田道鬼斎などというのが忽然と現れてくる。だから常識から考えて、辻褄が合わなさすぎるのが、この細川家譜の欠点というべきだろう。
 さて次に、幽斎の言葉として、さも神妙そうに、
 「われ織田公の知遇を蒙りしこと深し。この期に臨んではただ剃髪して、多年の恩を謝するの他あるべからず」と書かれており、それから沼田権之助光友とよぶ者が、冒頭の光秀自筆覚書なるものを届けにきたと結んである。                         
 もちろん、その時代には、「長岡藤孝」「長岡与一郎」と名のり、後にはそれが「細川幽斎」「細川忠興」と、すっかり替わってしまうので、たんだか判らなくなるが、前後の事情からおして、どうしても何んらかのからくりが有ったものと考えざるを得ない。

第四部へ続く