奇怪・細川忠興(第ニ部) 美女於玉夫人の死 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。


奇怪・細川忠興(第ニ部)
 
美女於玉夫人の死


『遠碧軒記』を残した黒川静庵は、細川忠興の父幽斎の親は知れがたしと書いている。
 が、前述のような明智光秀の真筆覚書なるものを収録している、『細川家譜』では、「足利義晴将軍が、その実父で、執権三淵大和守に嬰児の時から預けられ、のち細川藤賢玄有に養われたもの」
 となっている。しかし実際は、細川藤賢玄有は明応九年に死んでいて、忠興の父幽斎が生れたのは、それから三十五年へた天文三年である。これでは辻褄屈合わなすぎる。
 世の中の歴史屋は、「記紀」と同じように、細川家譜を金科玉条のごとく扱い、それにょって細川忠興をも解明しようとする。
が、細川家で禄をはむ者が御家大事、御主君のご先祖さまを大切にと代々纏めてきたものを、そうそう史実とは信ぜられはしない。史書を解明するには、誰が、何の目的で、何を隠したかったのか、何を強調したいのかを鋭利な頭脳で考える必要が在る。

では何を信用して細川忠興を解明するかといえば、日本キリスト教史料に入っている『小笠原家記』を、まずあげねばなるまい。
 これは細川忠興の家老の家柄であったが、キリスト教を棄教できず、ついに殉じて追われた小笠原備前守秀清入道少斎の遺族たちのことを書いた記録である。
 この小笠原少斎のことは、これまでの俗説では、慶長五年関が原合戦の前、七月十七日のこととされているが、次に俗説ではどうなっているか。
「ご開門、ご開門」と大坂城からの使者の面々が呼ばわり、伏見の細川屋敷を包囲してきた。
 そして、
「恐れながら、お屋敷に居られる奥方さまを迎えに参りました」
「間もなく間近な伏見城に攻撃が始まる・・・・・ここに居られては御身が危ないゆえ、早々に大坂城へお移りの程を願い上げたてまつる」と、口々に喚きたてながら、
「すでに加藤嘉明さまや山内一豊さまの奥方衆も、大坂城内へ避難なされてござらっしやる」との声が屋敷の奥深くの於玉(秀林院)の居間まで聴えてきた。
 留守居をいいつかっていた小笠原少斎も、判断に迷い、「如何なされまするか」ろうたけた於玉の美しい顔を心配そうに敷居越しに仰いだ。
 というのは、忠興が出陣の際、(於玉はこの世に二人とはいない絶世の美女である。もしも他の男の眼にふれ、よこしまな懸想をされ操を奪われでもしたら、それこそ夫のわしには天下の一大事であるぞよ)
 と小斎は固く云いつけられていたので、もし大坂城へ移って、そこで目をつけられたら如何しようと胸を痛めていたからである。於玉も忠興のそうした気遣いは、よく知っていたから「どない、しようぞ・・・・」
 暫くは躊躇していたが、その内に外の大坂方の迎えが、今にも屋敷の中へ入って来そうなので、もはやこれまでと、
「夫のため操を守るが妻の勤め」と云い放つと、白雪のような胸許をひろげ、少斎に向って、「其方そこから、ここを突いてたも」と胸の隆起の谷間を指さした。

 忠興が嫉妬深くて、於玉の居室へは男は一足たりとも、入ってはならぬとされていたから、「かしこまって……」と少斎は、廊下の敷居の処から、三メートルの大槍をしごき、
「・・・・・お覚悟ッ」とばかり、その純白の胸許を鮮血で染めさせた。が、少斎は於玉が死んでも凄壮なまでの美しさに唖然として、

 「これでは亡骸とはいえ、大坂城へ持ってゆかれては大変」と、屋敷に火を放ち、自分もその場で屠腹して、すぐ後を追った。
 さて、火を放ったゆえ遺骸も焼けて灰になってしまったろうと思われるが、俗説ではまた違う。それから二ヵ月余もたった後。
 関が原の天下分け目の合戦に徳川方に加担し、勝利をしめ凱旋してきた細川忠興は、今は亡きものとなった於玉をひしと抱きしめ、
「よくも吾が為に、女の操を守って散ってくれたぞ」歎き悲しんだはよいが、まだ槍を握りしめた儘の少斎の屍骸を、いまいましげに足蹴にして、
 「於玉を死なせんでも・・・・何処ぞへ匿うなりして、助けられる才覚もあったであろうに、むごく殺してしまったものである。これでは老臣の汝を残して行った意味がないではないか」と罵っておおいに憤った。

・・・・・といった話にでてくる小笠原少斎だが、その家記の方は俗説とはまるで相違している。
 「関が原役の後で、細川忠興の殿は、その姪姫のたね殿を、少斎の功を嘉せられてその跡目の長基に嫁せしめ、その間に伜長之が生れると、二十三歳になった時、忠興の殿は己が弟の孫娘まん
を、また養女にしてから長之の嫁とした。つまり二代にわたって長基もその子の長之も、細川忠興の倅分ということにされた」と出ている。

小笠原家記の真実

 まことに変てこな話だが、実際はもっと複雑で、忠興の末の妹の子の千どのとよぶのも、細川幽斎の命令で、少斎の次男、つまり長基の弟宮内に縁づけられている。これは、『細川家譜』の方に入っている。
 俗説の方も、丸焼けの少斎が死後二カ月半たっても、槍を握ったままで転っていたりして、可笑しいが、実説の方は、さらにもっと奇怪である。
 どうして細川忠興は少斎の兄弟二人へ、己の妹の子らをそれぞれ嫁にやって、姻戚関係を作り更に、その伜にまで養女を縁づけて、蜘蛛の巣みたいに雁字搦めにする必要があったのであろうか。
 
 のち耶蘇禁令が慶長十九年正月、家康によって発令された時、ガブリエル・デ・マット師父は、『一六一四年年報』の中で、
 「小笠原長基の弟(少斎の三男)与三郎玄也は、信仰を守るため異常な勇敢さをもち棄教しなかった。主君忠興も、身内の者ゆえ許しつかわせと仰せられて、彼は捕縛を免れた」とある。
 しかし片岡弥吉氏の、『小笠原玄也一件』によれば、二十三人扶持を秘かに与えられ匿われていたが、寛永十一年十二月二十四日に、町人の訴えが公儀の知るところとなり、やむなくその妻子や召使ら十五名と共に、処刑された顛末が詳細にでている。

しかし、これを片岡氏も、(於玉の死が武人の妻として、度にかなった美しい最期であり、そのため細川家の武門の誉れを担ったので、細川忠興は亡き夫人に対する愛惜の念を愈々深くすると共に、
小笠原少斎を徳として、その遺族に報ゆること甚だ厚かった)と解釈し、まるで細川が十万石から五十四万石になれたのも、そのせいのような説明をしているが、はたしてどうだったろうか。
 
 忠興と於玉は夫婦であったから子供がいた。長子は忠隆といい、次子は興秋とよんだ。
十万石から五十四万石になってゆく過程であっても普通は、忠興の跡目は、長子か次子が選ばれるべきが妥当である。しかし現実は違った。忠興は於玉が死ぬとまず長子を追放した。
 そして、忠隆は、山城北野に草庵を結び、世を棄て生涯をすごした。
 では次子興秋が跡目をついだかといえば、これも違う。山城の東林院へ追いこまれ、そこで殺害されている。『戦国人名辞典』では、
 (人質として江戸へやられる途中で脱走し大坂城に入り、父忠興の軍と戦い、敗れて東林院にて自決)となっているが、落武者狩りの烈しい中で、そこまで死ぬのに逃げて行くこともない。
 恐らく匿れている処を細川勢に囲まれ、徳川家康へのいいわけに討ち取られたのであろう。つまり忠興がその跡目に選んで肥後五十四万石の当主にしたのは、於玉のうんだ子でなくて、別の腹から生れた細川忠利だった                                  

第三部へ続く