『日本税金残酷史』(第二部) 日本酒の製法は唐から伝来 何故「税金」と呼ぶのか | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

『日本税金残酷史』(第二部) 

  元祖・養老の滝
 

日本酒の製法は唐から伝来


 九州では防衛上、おおいに人心を勇気づけようというので、太宰府管轄区域では、田柤はとるが、庸の方は免除されていた。
 しかし養老二年(七一八)になると、他の地方と同じようにまたも、庸が掛るようになった。ということは、何も、
 「ひとしからざるを憂うのみ」といったヒーユーマニズムによるようなものではない。これは前年の十一月八日の藤原氏の発令で、
 「大陸よりおびただしく流入してくる人士に対し、その生活をまったくさせるため、終身その保証をなさんことを命ず」という進駐軍の非常命令になったので、またも税法が改正されたのだ。
【注】表向き「奈良朝」として百済人を表面に立てて治世をしていた唐から来た「藤原氏」共が、国元からくるあぶれ者が「倭の国は人心穏やかで気候もいい。酒も女もやりたい放題で桃源郷(藤原京)だ」と続々とやってきた。
   これらも同じ唐国人で、統治には人手が必要なので彼らの生活保障の為税を掛けたのである。 

つまり九州のような全廃地域から、旧に戻して収納する程ゆえ各地は旧に倍して苛税となった。そのため岐阜の山の中でさえ、えらい亊になった。
「まともに酒造りしていては、税にみな持って行かれてしまう」と、各地で酒呑み達のドブロクの密造が盛んになった。ところが元正帝が美濃行幸を、仰せ出されたので、
「収税吏はもたもたするな」と国司の命令で彼らは山から山へと嗅ぎまわって密造所を摘発した。そこで、「証拠湮滅のため」に密造者は川へたれ流しに放りこんだ。
 そこで白くぶつぶつしたものの流れてくる滝をみて奇異に想った男が、これをすくって呑んでみたら、「やや、酒くさい……」と、びっくりしてしまった。
 まさか自分が呑んでみたともいえないから、老父に呑ませたらと訴え出たのである。そこで収税吏は山奥のドブロク密造部落の一斉手入をなし、密告者の彼には、「よく知らせてくれた」と孝子の名のりと、
「やき烏屋」の営業権でも許しだのかも知れない。
 
というのは、この酒造技術というのは、唐からのもので、今でも酒造りの職人のことを、「唐氏」から転じた「杜氏」という当て字をしてごまかしているのでも判るが、きわめて日本では酒造を大切にして税をかける。
 たにしろ唐からの藤原氏が公家となって王朝を作りだしてから、主税(ちから)とよぶ税吏に酒にかける税を集めさせたり、「酒家税」という特別税を設けた。

現代でも外国では一本数百円のワインや、千数百円程度のウイスキーなどに高い税率をかけ、国内酒造業は過保護にされている。
 さて、源の義経の頃でさえ、「それ奥州の平泉は、住民みな穴をうがちて暮す土地柄なり、久しく京にありし判官(義経)が、また舞い戻れて過せる所とは覚えそうらわず」といった理由で、
「かつて住まっていた土地とはいえ、あんな未開地の平泉へはまさか行っていまい」と、源の頼朝が平泉以外の各地を懸命にみずから、現代でいえば「逃亡犯専門逮捕庁長官」ともいえる総追捕使とたっていたくらいゆえ、
 「金色堂や黄金の器物があったのだから、その頃の平泉は京ぐらいの繁栄さであったろう」とするような、藤原三代の栄華とか豪華さをとく説は、事実誤認で間違いであるのはいうまでもない。
 縄文土器から弥生式に変わっても、鉄や銅のように農具や武器に使える硬質金属には、大切にされたろうが、ぴかぴか光るだけで柔かく延ばして叩けば、紙よりも薄くなるようなものが、実質本位の未開時代に尊ばれるわけはない。

何故「税金」と呼ぶのか
 
 つまり金歯や金時計もなかった当時としては、この軟派の金属は、まったくどうしようもなく、しかし細工はしやすいから物を作ったり、延ばせば延びるから今日のカラートタンの代用に、堂の外側へ貼りつけるなどして使っていたものだろう。
 しかし穴居して、食におわれていた哀れな東北の日本原住民に比べると、海外からの綺麗な布を服にし、カラフルなカラーモードを競っていた都の大宮人にとっては、「金のアクセサリーなど如何ぞや」ということになったのだろう。
 「天平勝宝四年二月」をもち、「陸奥多賀(現在の茨城県)以北の諸郡にあっては、この後は銭や布や米などでなく、その産するところの金をもって換えてよろしい」の発令が出された。

 現代の感覚でゆくと、鉄や銅の銭の代りに、黄金を払えというのは、一寸法外な感じがしないでもない。が、その当時としては山金や自然金として、東北の山にごろごろしていても、まったく何の役にも立たぬもので、
それで税、が払えるというのは、これは当時にあっては有難い亊だったらしい。だから、おおいに、おかみの善政を讃えて、今日でも、「税銭」「税布」「税米」といわず、ぴったりそのものずばり、「税金」とよぶのも、これからきているのである。

 さて、この時の定めは、「正丁四人に一両」とある。しかし一両といっても、これは唐の国の「一テール」とよばれる単位で、日本式の一両ではなく、約百六十匁に当るゆえ、当今の相場なら公定で二百四十万。
 つまり、東北健児一人の身代金が。六十万円の人頭税の勘定になる。【注】現在金の価格は高騰しすぎの為ここではグラム四千円での計算。

それまで米以外は、糸にしろ綿布にしろどれも国産品はなく、銭でさえも、「和銅開珎」を鋳造したといっても、それは真似事程度で、後世の足利時代と同様に、向こう製の銭を用いていたのが実態である。
 それゆえ、国内で出来るもので徴税というのは、きわめて画期的な政策だったといえる。しかし真相は、当時、奈良の大仏を、奴隷の日本原住民を使って作らせていた時なので、
 「向こうから輸入するより、此方のタダの山金を用いよう。金であれば出所はどこでも同じだ」と言ったとこだったらしいとも想える。
 だからせっかく東北地方で、「税に黄金が、ええなり代る」とすっかり喜んでゴールドラッシュになったのに、大仏さまが出来てしまうと、またしても税は金でなくてしまい、米や銭で集められるようになる。
それで金は放り出したが使い途がなくて冷遇されて金色堂や金仏に廃物利用されたらしい。しかし、この税金の名残りは、「四人で一両」が江戸時代に、「一両の四つ分けは一分、その一分の四つ分けが一朱」という、世にも珍らしい四進法の貨幣制度をうんだ。

  女体が税対象

むしり取るの意味


「衣食足って礼節を知る」というが、布や米をとった後は、礼節などは税に取っても始まらぬ。そこで、次は女をとなった。しかし今も昔もブスは困る。もちろんこれは日本古来の制度ではなく、もちろん向こうからのもので、『後漢書』に、
 「美人宮を置き、采女(うねめ)を集計、爵位や扶持は与えず年に何回かの賞を賜るのみ」とあるのが、『日本書紀』十一の仁徳帝の時にも、高殿からのぞまれ、民のかまどが賑わっているのをみて安心されてからのことか、
「采女磐坂媛」の名も、その側近にはみえる。
 
 大化の改新における孝徳天皇の詔にも、「郡少領以上の者は その姉妹や子女で眉目よき者を差し出すようにせよ。もし容姿端正な娘であるならば、それに付けて寄越す従丁一名侍女二名の分として、百戸分の貢を免除する」の条文が、
大化二年の発令には書かれている。しかし、その後は、「女狩り」が烈しくなって、「よき美女を貢いた国は、兵衛の為の壮丁を貢かなくても可」とか、または、それでも困るので、一国よりの貢進は、
 「兵術用の壮丁が三分の二で、采女が三分の一の割合いなり」とも改めて、天平十四年五月には、とうとうこれが、「一郡一女」というわけになり、ミス播磨とかミス尾張というのが選抜されて送られてきたのである。
 こうして中国とまったく同じシステムになったのは、藤原氏なるものが、「トウ」と発音され「唐」を意味しているのでも、よく判ろうというものである。
 
つまり西暦七四二年からは「貢進」などという形式ではなくなって、完全に「女税」という形になって、美しき女性のセックスは、税そのものにまでなってきたのである。今日の「ミス日本コンクール」とは訳が違うようだ。
 しかし、その女性が素直に御役に立てばよいが、「……そればっかりは」などといおうものなら、「むしり」とよぶ拷問がおこなわれた。これは今でも、「この女むしってやろうか」とか「むしり取る」とも使われるが、
語源は、女性自身を覆って生えている陰毛を一本ずつむしり抜く拷問なのである。

何故寺や坊主に「さん」をつけるのか


奴百姓のいわれ


 さて、われわれの観念では、寺へは寄進したり銭を供養料にもってゆくのだから、自分らの方がスポンサーであり旦那だと思うのが普通である。
 しかし今でも地方へゆくと百姓の人などは、あべこべに、「だんだ寺」とか「お寺さま」といった呼び方をする。これは江戸時代に、彼らは寺に備えつけの人別帳に、生れた時から名を書かきこまれ、年貢や助郷と呼ばれる課役も、
その戸籍台帳によって割り当てられていたので、もし寺の人別帳から名を抜かれてしまうと、いわゆる「無宿者」になってしまうから、それで寺を尊敬していたのだと、歴史屋はこれまで説明してきた。
しかし、本当は違うのである。

 「九月九日、諸寺が近在の百姓の耕やす田畑を、むりやりに寺有地としてしまうことへの禁」というのさえ、聖武天皇の十八年の勅に、出されている。
 これは仏教というのは南鮮系のクダラ人によって、初めは日本へ持ちこまれたが、本格的に輸入されたのは、隋を亡ぼした唐が、仏教をもって国教とし、それを日本へもちこみ、本格的に布教しだしてからである。
 だから『大日本古文書』の一つも、そうした唐から渡ってきた僧侶の衣食を安定させるため、奴婢として捕えた日本原住民を寄進した記録がでている。
 これが「寺百姓」とよばれる者になって、寺の周辺を開墾して収穫物を納めた。そして反仏ゲリラの日本原住民の群れが襲来してきた際は、「警報用」に山門に吊された梵鐘をゴーンゴン乱打されるや、手に手に鍬などを持ち、

「それッ、お寺さまの一大事だ」と、かけ集ってきて、防衛に当っていたのが慣わしで、「奴隷百姓」を略して、「ど百姓」「どんびゃくしょう」というのは藤原氏が名付けた名前である。
 さて、初めは仏教興降のため、奴婢を供物としておくり、彼らが荒地を開拓した頃はよかった。しかし段々それに味をしめた寺の坊主共が、既に年貢を納めている百姓の田畑まで、
「御仏へ寄進して、寺百姓になれば、税は払わんと寺への上納だけで済み、その身が極楽浄土へ行けることは問違いなしじゃ」と、寺百姓でもない普通の百姓まで口説き、自分らの寺へと勧誘しだした。
こうなるとこれは国家の対税上おおいに差支えがある。そこで、これまで、すでに寺に附属している百姓に限って、「従来通りに寺へ上納するのみでよろしい」だが、新たに耕された田畑を寺どうしが競買しあうことは禁止令が、
主税大司から発令されたのである。これは弓削道鏡が女帝称徳帝に召され、寵愛されていた十八年前の事である。
 

しかし称徳帝の孫光仁帝の宝亀七年五月二日の現存の秋田志波の、天の朝の残党である日本原住民系が叛乱を起した。
 緒戦は向こうが強かったが、半年後の十一月二十九日にはついに討伐が功を奏し三百五十八人の俘囚が捕らえられてきて、九州や四国へ男は防衛用に配置されたが、女七十八人には、
 「諸司及び参議に斑賜し、これを賤となす」とあるが、女といっても、若い娘ばかりでなく、盛りをすぎた女人もいたらしく寺へ寄進した者もありと出ている。しかし、当時の寺へ、お婆さんでも女が貢進というのは変だから、
「農奴」の中へ入れられたのだろう。
 さて、こうした関係で、江戸時代に入っても、百姓の年貢は庄屋や名主でも仕切れず、「課役」である伝馬役などの人足すら、彼らは免れていた。寺百姓がなくなって誰も彼もが、収穫にではなく、
みんな地租として税をとられるようになったのは明治からである。
 「税」というものは、人民から税をとる体制をその基盤にして成立するものだから、従来の税制を変えようとするのには、その首都(京)を遠く離れた土地(東京)に別個に作るしかなかったのである。