高松塚古墳と桃源郷(藤原京) 藤原系女帝の残虐性 唐勢力に帰化したのは百済、高句麗 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。


   高松塚古墳と桃源郷(藤原京)

唐勢力に帰化したのは百済、高句麗


 高松塚古墳が発見されて、その壁画の美人像が顔は唐様の下ぶくれたのに、着衣がチョマやチゴリで朝鮮風俗なので問題になっているが、あの古墳が作られる以前の日本列島の様相はどうだったのかを考えてみなければならない。
それは当時、「クダラにあらざれば人にあらず」とされ、日本原住民を蔑み「彼奴はクダラではないのか」とするのが縮まり、クダラねえといった言葉を今日に残すような状態で、これは「史学会雑誌」にも、
 「韓国と日本の二国はもと一域にして他境にあらず、そのまったく別国に変ぜしは、天智帝以後のことである」との一文を、日韓併合を前に明治の史学者星野恆は、御用学者として発表している。
 
 さて、その天智帝の代に世の中が変ったというのは、大化の改新の黒幕であった藤原鎌足が、その八年十月に大織冠となって大臣になり、それまでの百済の勢力を追って、「桃源境」をもじった「藤原京」を建てんとし、権力の座が移りかけていたからである。
 が、ここで注意しなければならないのは、「藤」は「唐」であるということである。たにしろ『日本書紀』以下の六国史は、この藤原氏によって編されたものゆえ、順序が逆になってしまって、それまでの崇神王朝の北鮮高句麗系や、
仁徳王の南鮮百済系をもって、「帰化人」として記録している。
しかし、白村江の戦いに破れて日本からの援軍が敗退し、勝ち誇って唐軍が百済や高句麗を滅ぼした際、そこから日本列島へ百済人らが亡命してきて帰化する程の強大国が、当時厳然として存在していたと前にも述べたが、常識としてまったく考えられない。
 
 亡命してきた者達を庇護して、唐国と互角に渡り合えるには、それだけの武力がなくてはならないが、敗退してきた日本には、百済人を追って進駐してきた彼らを防ぐだけの実力はなかったろうと想われる。
だから当時の唐軍は、辮髪といって長いお下げ髪をしてきた彼らに対しやむなく、「長い物には捲かれろ」と原住民たちは、それまで威張り散らしていた百済人でさえ、ぺこぺこして帰順降伏しているのに、自分らが敵うわけはないと、
すっかり畏縮しておとなしくなった。だから当時の日本列島は、地球温暖化の影響もなく気候温暖で四季のはっきりした水も空気も奇麗な土地柄だったから前述のごとく、
「桃源境」とよび、そこから桃源、これに同発音の他の文字を当てて、藤原氏(とうげん)となったのである。
 そこで、藤原氏はおおいに勢力をふるいだし、やがて己が系統の聖武帝を御位に立てるようにまでなった。
 
 さて帝も藤原不比等の娘の光明子を夫人にたて、皇后の御位につけようとしたけれど、高市皇子の御子の長屋王が、百済系の血をひく御生れゆえ、
 「古来、臣下よりの子女を治めて立后の先例なし」と表むきは大義名分を主張し蔭では、「帝も妃も藤の出身にかためられるは……」と称して、あくまでも反対した。    ゛
 そこで、これを不快に思われた光明子は、すぐさま、「わが立后に立つを妨げるとは何であるか」と、かねて腹心の同族の藤原宇合同と、藤原武智麻呂の両名をよび、


「なんとかして長屋王をのぞき奉れ」といいつけた。そこで二人も拝礼して、「藤一門のためにてござれば……」と、すぐさまやはり同族の中臣の東人なる者をよび、
「其方が、長屋王が帝位を徂って謀叛を企てている旨を、いいふらして廻れ」と命じた。
 今でいえば、でっちあげてあるが、この風評をもとに藤原宇合同と藤原武智麻呂は、「御伺いしたきことがございますから」と、言葉巧みに長屋王をよびだし、「ご謀叛の噂が広まっていますが……本当でございましょうか?」と詰問をした。
 もとより根も葉もないことゆえ長屋王は、
「絶対に身に覚えのないことである」と、これを否定なさった処、両名の者は、「それでは、探湯(くがたち)されませ」と申しでた。これは煮え沸った熱湯の中へ己の片腕を入れ、もし無実の罪であるならば、
天佑神助によって絶対に火傷をしない、とされる極めて非科学的な裁きだったが、長屋王にしてみれば、(絶対に自分は無実ゆえ間違いはあるまい)とする気負いだった想いから承諾をした。

 光明子はこれをきくと、すぐさま両名へ、(熱湯の代りに油を煮沸させて、手を入れさせてみせたら……)と、残忍なことを口にした。
 普通の熱湯でさえ、その中へ手を入れたら皮がむけただれるのに火の上へのせた鉄壺の中は、沸騰した油である。だから、
 「……あっ」と手を入れたが、途端に失神しかけた。すると、その拍子に鉄壺が仕掛けがあったのか傾いた。
そのため長屋王は全身火達磨とたって焼死してしまった。

この事を日本史では、実像は怖しく残忍な光明皇后を、蒸し風呂にレプラ患者を入れ洗ってやられた仁慈のおひととされ美化している。
 さはさりながら『国史纂論』には、このことを、「君権の臣下に侈れるぱ、この時からであって、決して文徳、清和の時からではない」と、明治の史家丸山正彦は説明し、
それに、「女権もって歴史を変え得るは、この一事をもっても知るべきなり」とも附記している。
    
 女帝拷問

藤原系女帝の残虐性

塩焼王暗殺事件


 さて光明皇后の実子ではないが、やはり藤原系の女性と聖武帝との間に生れた孝謙帝が次に立たれた。女帝であらせられるが、「悍戻の資(かんれいのし)」であったと書かれている。相当に凶暴で御気象の烈しい女帝であったのだろう。 
 初めは同族の藤仲麻呂を、恵美押勝と改名させて、これを日夜お側へはべらせ肉欲を堪能し、「えみ、えみ」と大変に寵愛なさっていた。
 ところが、その内に江戸の古川柳にあるごとき、「道鏡は太くてよい」「道鏡は座ると膝が三っあり」と男の一物でのし上がったといわれる僧だが、こうした事実の真偽は不明だが、弓削の道鏡なる者を溺愛なされだした。
 
 こうなると、かつて御寵愛をうけた恵美押勝が、指をくわえじっとして居るわけはなかった。あちらこちらへ不満をぶちまけて歩いた。この結果が、橘の奈良麻呂事件となった。
 表向きは帝の悪口をいいふらす恵美押勝を誅殺せんと企てし罪によるとされているが、「帝の廃立を志した謀叛」として女帝は、生きながらこれを地に埋めて、首だけ出させて燻して拷問をなし結局は死罪にしてしまった。
 ついで起きたのが、「塩焼王暗殺事件」なる皇族誅殺である。
 
その名の示すごとく、王は天の朝の血脈を伝える御方の生み奉った方ゆえ、かねて藤原氏には煙たがられてはいたのだが、一応は、「王」の位を有される方ゆえ手を出しかねていた。しかし女帝はそれにお構いなしに、
「斬」の命令を出されてしまった。よって、まさか正面からは討手も出せずに、秘かに闇討にして処分してしまった。
 なにしろ次々と密告のあるたびに、女帝が情け容赦もあらばこそで、ろくに取調べもせずにすぐ殺戮されるので、この時代のことは、「告密、羅織の獄」といった熟語でさえ、今も残っているくらいである。
 あまりにも女帝が甚だしく、獄へ投じては片っ端から殺してしまわれるので、宮中の人心は互いに疑心暗鬼となり、自分が先に密告せねば他人に陥れられてしまおうというので、争って告げ口や投書ばかりするようになったから、
これではどうにもたらないことになり、帝もしぶしぶ淳仁帝を立てられて身をひかれた。
 
しかし権力の座について居た方が、そうあっさりと穏やかになられるものではない。「それ、まつりごとは古来これ女人の司るところにして、これ慣わしなり」と仰せられ、せっかく立てられた淳仁帝をすぐやめさせ、
またしてもご白身が御位につかれたのである。

 そして、それに対して、
 「重祚(じゅうそ)したまうは、かまえて目出度き例にはなるまじく」と、これを極力諌めた兵部・和気王を、また新しく帝位についた女帝は、
 「汝その女人を軽視し恥しむるは、その罪まことに許し誰きものがある」と叱責。和気王一人のみでなくその一門の表だつ者を捕えさせて、これを樹に逆さ吊りにした。
 そして鴉が啄むまで放っておいて、みな穴だらけにして殺してしまった。
 
「それ女人には天性まことに残忍なる性質あり、よってこの帝をのみ特殊にみるべからず」なにしろ淳仁帝在世の頃は、藤原不比等にはその死後に近江十二郡の追封あり、県犬養橘の宿禰へは正一位を追贈されるのも、
これ二公の忠烈によるものとはいえ、それら夫人連の勤労による結果であることは、当時の詔旨をみても理解できる。
 
 さて、藤原氏は男子のみでなく妻女までが宮中へあけくれ参内し御奉公し、俗にいうごとく、切っても切れぬ仲となって王室に仕えたから共に栄え得たのである。
「つまり藤氏の女人といっても孝謙女帝のように血をみることに何ともない剛気の方もあれば、世話やき型の者もあって、日本の歴史は、この頃から女人によって塗り換えられてゆくのである」とは
同じく「史学会雑誌」所載の久米幹之の『藤原氏論』の一部である。
 
 つまり恵美押勝や弓削道鏡をご寵愛なさるだけでなく、御側近くに仕える者から、「何某が怪しゅうございます」と訴えられると、女帝はすぐそれを御信用になって、
 「不届きなり、すぐ捕えて獄へつなげ」と仰せられて、翌日には斬の命令を出される有様で、橘奈良麻呂処罰の時でも、
「小野、大伴姓の崇神王朝頃のより名家の裔にて、この巻き添えとなって罪に坐し誅される者は二百六十余人に及ぶ」といった有様ゆえ、藤原氏の妻女たちは己の夫が巻き添えにされぬように、エスコートのつもり
で御所へ出かけて行ったものとする見方もあるが、
 
 「孝謙女帝の代の誅殺多きは、唐ぶりの藤原氏が逆に百済系の韓の字に、あやとか、からの名称を故意につけただけでなく、それらの者の子孫さえも取り除かんとする深謀にて、これを謀叛騒ぎで次々と粛清した感もある」
 とする丸山正彦説もある。故に、がやがやと藤原系の妻女が宮中へ押しかけ日参していたのは、夫を庇護するためとか現代のような共働き的なものではなくて、
他部族を追払おうとざん訴の為とみるのが正しいようである。つまりこうなると、この時代の歴史は、まったく女人によって作られていた事になろう。いつの世でも、女人とは恐ろしいものなのである。