イロハ歌留多の解説。 「札高し、愛宕さんには月詣り」 「連絡(つなぎ)は、三つ葉の 枯れアオイ」 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

イロハ歌留多の解説。
 「札高し、愛宕さんには月詣り」
 
 これは関西に広まった歌留多で、その意味としては以下に記す。
昭和になってから映画が盛んになり、中でも時代劇が全盛で、多くの男優が綺羅星の如く活躍したが、中で小林重四郎は映画「国定忠治」の劇中歌を唄い評判を得、ポリドールよりレコードも発売。歌う映画スターのはしりとなった。
 
 そして「飴屋の唄」として江戸時代には良く歌われていたこの唄を劇中で復活させ、
「伊勢にゃ七度、熊野にゃ三度、愛宕様には、さあ月詣り」と
頭上に棒つきの飴を並べ、小太鼓打っての唄で、レコード化され、当時は大いにこの唄は流行した。
 しかしその歌の意味の事実は全く伝わっていない。
テレビの大岡政談などで、「年に一割八分までが、お上の法定利子だ」などと真面目くさって越前守の台詞があったが、あれはとんでもない間違いである。
 
 
 時代考証の人間も、脚本家も、ましてや現場のプロジューサーも全くの歴史音痴だからこんなとんでもない間違いを平気で犯す。
江戸時代には、現代のような「利息制限法」のような法律は無く、施行されたのは明治になってからである。
井原西鶴や近松門左衛門ものには「死に二倍」「死に三倍」といったものも書き残されている。
これの意味は、江戸時代商家の道楽息子が、
「親父が死んで自分が跡目を継いだ節には、二倍にして返すとか三倍にして戻す」という博打のようなものだが、江戸のようにその日暮しの貧乏人が多い庶民の間では「鳥金」ていって、夜が明けて鳥が鳴き、やがて鳥が飛んでいく午前十時から昼までには返金するという約束が定まっていた。
 つまり元金が倍々と跳ね上がって行くのだから、十日で一割などといった生易しいものでなく、連日午前から昼までに返さなければ、一日十割で一ヶ月滞納すれば元金は三百倍に、これは複利計算でなくてもなってしまう。
 これではとても払えないから仕方なく娘を吉原の女郎にでも売るはめになってしまう。
 
そもそも金融業というのは、一般からは年五分ぐらいで預かって、それを7分、八分の効率の良い処に貸しての
利鞘稼ぎだから、銀行やサラ金の無かった江戸時代は、こうした過酷な利息がまかり通っていた。
 
 それに担保にしたくても、肝心な土地というものは、これ全て徳川家の物だった。これの例証として、
三田村鳶魚の時代考証では、質屋とか札差は、隅田川向こうの新地にある弾左衛門家を「親質」にして
大名でも借金する際は、大名の領内で収穫される米の引取り受取書を持っていって金を借りたとある。
しかし庶民は、盲人金融の座当金というものを借りたり、更に一般の商店では信心借りといって、熊野神社や伊勢神宮で借りていて、これは同じ信心の者にだけ便宜が図られていたのである。
 だから熊野さんには年に三回だけ期日前に利息を納めれば良かったし、お伊勢さんには、
閏月も計算されるから、年に七回つまり隔月も利息の奉納だけで済んだ。
処が吉田神道だけは、ここは朝鮮系の神社だから厳しかったのである。
 そしてこうした金融制度は戦国時代から続いていて、織田信長は配下の武将に「播磨を攻めよ」と
命令した場合、軍資金は全く出さず、命令を受けた武将は攻め取ったその土地から略奪するため、それまでの諸掛軍費は借金して出征したのである。
 次の秀吉となると、出征費は派遣軍に出されるようになった。
さらに徳川家康は、出すには出してやったがケチで証文を取って、後で返済させていたものである。
それゆえ、先の信長時代には出征の費用が賄える秀吉のような金策の上手い者が立身出世できた。
 そうでない者は、一ヶ月の期限付きでしか貸さない銀を借りるために、勝軍地蔵も祭ってある、
愛宕山へやむなく借銀に登山したのである。
勿論この山には吉田神道の貸し出し用の銀や銭は山と積んであったが、即座に貸し付けては有り難味が無いと、金の掛からぬ接待として「連歌」の席を設けて、勿体をつけて待たせたのである。
 だから信長殺しと間違えられている明智光秀も、信長に毛利攻めを言いつけられていた秀吉の
応援のため、備中へ向かう途中で愛宕山へ登り、金策している。
 ここで詠んだ有名な連歌が「時は今雨が下知る皐月かな」である。
 
 
 「連絡(つなぎ)は、三つ葉の 枯れアオイ」
この歌はサンカ族に使われている。
現在「三つ葉葵」の紋所と言えば、テレビの「水戸黄門」が有名で、助さんが、一話が終わる三分ぐらい前に必ずといって良い定番の見せ場の立ち回りをやった後で突き出す印籠の紋所で、
「これなるお方をどなたと心得おるか。畏れ多くも天下の副将軍水戸光圀公であらせられるぞ、
 一同の者、頭が高い」と一喝する際の小道具で有名である。
この映画は最初、日活映画の撮影所が向島にあって、老齢となった山本喜一が、どうしても役者を続けたくて、当時の二枚目のスター河部五郎を助さん役に使って自分が水戸黄門役を演じたのが初めなのである。
 
 その後月形龍之介、東野英治郎、西村昇、佐野浅夫、石坂浩二、里見浩太郎と続く。
そして綿々と同じパターンの繰返しで、視聴者はよくも飽きないものと感嘆するが、これは後段で触れるが葵の紋に関係が有るらしい。
 
さて、水戸光圀の時代、水戸家は権中納言だったのが本当のところ。
光圀は元和八年に実子を額田藩に二万石分与して水戸藩は二十五万石になった。
しかし徳川綱吉の子で養嗣子として水戸家を継いだ綱条が、隠居した光圀を虐待した褒美として七万石加増される。
 ついで額田藩も光圀の子を始末(毒殺)して統合して三十五万石となったのである。
しかし副将軍などという制度は徳川体制では実際に存在しない。
実際は五代将軍に綱吉を立てる際、光圀と時の大老酒井が反対した。
その結果、綱吉が将軍になると、光圀は閉門処分となり、水戸に返され、当時の特殊地帯西山部落に閉じ込められて、ここで生涯を終えることになる。
 なにしろ、光圀は、サンカ葵族出身の徳川家康の血を引く直曾孫である。
即ち生粋のサンカ族で、綱吉というのは朝鮮(百済)系、済州島生まれの女於玉の腹より生まれている。
だから将軍綱吉に虐待されたことに同情して、もし諸国を気楽に旅でもして・・・・といった想いが
大正時代の立川文庫の「水戸黄門漫遊記」に書かれ、大いにこれは売れた。そして映画にもなったのである。
  東野英治郎がテレビドラマの主役だった頃、東映撮影所の小道具部屋が火事になったことがあって、
この時、撮影所には連日「三つ葉葵の紋は大丈夫だったか、助かったか」という問い合わせの電話が殺到したという逸話が残っている。
 これの意味するところは、現代にもサンカ系(日本原住民系)民族の末裔が多く暮らしている証拠である。