辻に立っている高札とは何だったのか?? 『文をやるには書く手をもたぬ』 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

辻に立っている高札とは何だったのか??

 『文をやるには書く手をもたぬ』
 サンカが伝えたというコトツ(口頭、口伝え)の意味は・・・・・・・・
 現在、テレビの時代劇で、江戸の街中で瓦版売りが登場し、まるで現代の新聞の号外のような
設定で辻ごとに立ち売りしている様子を放映している。
そしてその瓦版なるものを庶民共が群がって銭を払って購入している。
 しかし、当時一般庶民は文字など書けもしないし、読めもしなかったのである。
だから瓦版などを買う訳がないのである。
現代では誰もが義務教育制度のため、読み書きの出来ない人間はおよそ居ない。
だから昔もそうだと思い込んでいて、テレビを見て誰もが不思議にも思わないし、疑問も感じない。
文政時代の実際の瓦版を見たことがあるが、現代の人間にはとても読みこなせはしない。
 また江戸時代は貸本が流行っていて、庶民には人気があった黄表紙本となると「読み本」
と呼ばれるだけに、もっと字が混み合っていて、文字の読める者でも、果たして読み通す事が
出来るかと自信が持てないから、文字の読める者に読んでもらったり、料金は十日で二十文
だったから、何人もの仲間とぐるぐる廻しにして読んだものなのである。
   だからここに「将門記」、筆記者柳亭徳枡の文政版の本のコピーを掲載するので
読めたら読んでみるのも一興である。
 さて、江戸も幕末に近い文化文政時代となると、大衆読物の黄表紙本は何版と出て、
おおいに読まれたが、崩し文字の文章で、当時の"文を書く手"を持つくらいの人には
読めたとしても、現代人では一行も読めはせぬ。
 
 
 書道をやっていて草書に堪能な人でもなくては、一般ではとても読めない。
つまり貸本として出回った黄表紙のベストセラーが「春本壇ノ浦合戦」とか「女忠臣蔵」といった
ポルノ本だったのも、これだけ読み難いものを、借り賃を払ってまでも首っぴきで懸命に
かじりつかせるには、やはりそれなりの、意味深長な内容があるせいだろう。
 神田神保町の紀陽銀行の先に古書店の源喜堂があるが、ここには江戸時代の貸本類が
積んであるから一見をお勧めする。
 
 
   さて、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」ときたら、他の同種の物はポルノばかりなのに、
道中に宿場があり、飯盛り女郎が次々に客を引いていたのに、壮年のヤジキタが何故か
酒も飲まず、女にも触れずに旅をしている、全く面白くもない読物なのに、何故に大流行した
のかという疑問が残る。これが明治維新の原動力となったのである。
 徳川幕府の政治的立場というのは、源氏と平氏が団結して徳川に反乱するのを怖れ、
中華思想の夷をもって夷を制する、これを真似て、源氏と平氏を交互に組み入れ、互いに
反目させあっていたのが実際のところなのである。
 喜多(キタ)、つまり北へ北へと追いやられていた騎馬民族系の、民族色は白で、動物の四本足から
とって四っと呼ばれる民族と、七世紀からアラブ方面から黒潮に乗って逃れてきた、海洋渡来系の
 弥次(ヤジ)、民族色は赤の平氏、この二大民族の相互牽制政策である。
 東の江戸には四っの弾佐衛門側と、西の八っの水上の隠坊側を、日本各地で双方を
睨み合わせ噛み付かせていたのを、双方を代表するヤジとキタが一緒に仲良く旅をする・・・・・・
 というそれまでには考えられもしなかった世直し(革命)の読物のおかげで、やがて明治の御一新に
なるのだから、たいしたものである。
 十返舎一九にヤジキタのストーリーを考えて書かせた陰の演出者は誰だったのか判らずじまい
であるが、恐らく薩、長、土の誰かであろうが、当時の日本人には実に飛び抜けて頭の良い
策士がいたものであると感心する。
 
 
   さて、京等寺院の足利尊氏の木像の首をはねたのに、付けられていた立て札や、
安政の大獄の仕返しに、髪結いや呉服屋の手代たちまで贈収賄罪で捕らえて斬首させた
目明しや、井伊大老の為に働いた村山こうを、捕らえて私刑にして始末した死体に
添え立てかけた斬奸状こそが、本物の高札なのである。
 
 
 テレビでは、奉行所などのオカミは高いところからから命令するものと解釈して、だからこれを
高札としてしてしまい、製作小道具部に作らせて、画面に放映している。
そして時代考証○○と権威付けているが全く何も判ってない輩である。
 
 
  しかし考えてもみるがいい。明治維新後に諸政一新のため、義務教育制度が出来るまでは、
テレビのように寺子屋などに義務教育でもないのに、子供を通わせるような家は、表通りの
大店ぐらいのものだったのである。
 
 
   文化文政の幕末近くになってコウゾの製紙原料を石臼で引き、マスプロ化されて、
美濃武儀川で開発されてから、紙の値段がぐっと安くなった。
 それでも「日本紙業史」によれば、文政七年の相場では「美濃半紙一帖四百二十文」
と出ている。一帖は二十枚だから一枚の単価は二十一文となる。

江戸時代二八そばというようにそばが拾六文だから半紙一枚分にもならない。
なのに高価な白紙を積んでいろはを書かせるような勿体無いことを日銭暮らしの庶民が
出来る訳はない。
 
 
   昭和三十年ごろでさえ、小学校の習字の時間は、習字用の白紙は高いので、練習用には
古新聞を使っていたものである。
つまり江戸幕府の政策として「民は由らしむべし、知らしむべからず」だったから、お上が
  町人達に読めもしない角ばった漢字で布告などする筈がないのである。
 つまり、今言う高札とは、奉行所の役人は読めるので、逆に過激派の不逞浪士の中で
筆の立つ者がいて、それが書いて立てたものが高札なのである。