本当は江戸が朝廷だった | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

         本当は江戸が朝廷だった
 
現代では京に天皇が居て、公家も住んでいて、だから朝廷で、江戸は征夷大将軍が施政をとっていた幕府だ、といった画一的な見方を、学校歴史でもとっている。
   
だが実際はそうではなかったという事が「赤穂義人纂書」にも明確に出ている。
 江戸時代「大陸人は貴種ゆえ、大和で誰が王となっても差し支えないが、大和の者は賤ゆえそれは出来ぬものである」と書いたのは熊沢蕃山である。 だがこれが幕府の逆鱗に触れ熊沢は流罪にされた。
 弟子である山鹿素行も「聖教要録」に当時の儒学者としてやはり大陸崇拝を説き、これも筆禍事件を巻起こし、幕府にとがめられて播州赤穂へ流され、閉じ込められた。
 
だが、(時の将軍徳川綱吉の生母於玉の方が、実は朝鮮済州島出身の朝鮮人であったから水戸光圀や大老酒井忠清が大反対し、それならいっそ京の有栖川宮幸仁親王を将軍に立て家康直系の血を引く由緒正しい光圀が、武家を代表して天下の副将軍として徳川の純潔を護ろうとした。しかしこの企ては春日局の孫やその一族が反対し、強引に、上州館林十万石だった家光の子の綱吉を立てた。
故に下馬将軍とまで呼ばれていた酒井忠清も失脚。一方光圀は御三家であり、権現様の孫に当たるため、この件ではどうにも出来ず、当時謀叛容疑で見せしめのために幽閉中の後西院に夥しい用紙や筆墨を水戸の京屋敷より差し入れたので、これが不届きの名目で水戸の西山に隠居処分にされた)
 この事を聞き知った山鹿素行は「関東にてあれ、大陸の血脈なれば貴種である。よって王たらんとするも先賢の教えには反せず正しい」と綱吉の方が京側より大陸系の血が新しく濃いと、今言う体制便乗迎合説を唱えた。
だから直ぐに配流処分は許され、逆にこの説が将軍家で用いられるようになったのである。
 これには世の人々は仰天、あきれ果てた。学者が師の教えを護り、例えそれで獄に繋がれようとも共に戦い説を全うするものなのに、己の命助かりたさに、さっさと変身裏切るとは、学者の風上にも 置けないと、だから陰で体制にゴマすりのことを「山鹿の太鼓持ち」とか「山鹿流太鼓叩き」と 云うようになったのである。
 
現代でもこうした体制迎合型の学者や文化人、マスコミ人は多く、当初は庶民よりの説を 称えていても、政府に睨まれたり、懐柔策で政府の何とか委員会の委員などに取り込まれるところっと変わる輩である。
 
 さて、こうしたわけで忠臣蔵の芝居でも、江戸の庶民は、背景の陰謀臭は薄々理解していて 皮肉たっぷりに、山鹿流の陣太鼓なるものまでが舞台で使われている。
 
 そしてこの山鹿のやり方を見習う者も出てきた。その名は現代も有名な「養生訓」を著した貝原益軒である。この男は筑前黒田藩で禄高30石のうだつの上がらぬ不遇な男だったが、時の将軍綱吉が男色好みで、
(将軍家は女人を子供を産ませるため止む無く用いているのは形ばかりで、締めくくりは側に侍らせて いる美童を用いている)
 という風評を耳にするや、すぐさま彼は「女人に接しても、洩らさず排泄しないのは可」とする処の「養生訓」なる一冊を実費で二百冊ばかり木版刷で刊行し、主君である黒田綱勝に願い出て、将軍家へ乙夜の覧に供して頂きたいと提出した。
  
 (注)乙夜とは==昔、中国で、天子は昼間政務で忙しいので乙夜になってから読書をしたところから》天子の読書。
 
黒田綱勝も、これなら男色好みの将軍の御覚えめでたかろうと、すぐさま十部程を桐箱に入れ、参勤交代の際に持参したが、まさか三十石の軽い身分の者の本とも言えず、九州では名を知られた 学者ですと将軍には言上した。
 だから綱吉は「左様か、わしが女を押し付けられても洩らさぬのは、養生のために良いと学会でも認められたのか」大いに満足されて、黒田綱勝は大いに面目を施した。
 
 次の出府の際にはその者を同道せいと申し付けられ、まさか三十石の身分では重みがないと国許へ戻るなり三百石と十倍に加増した。
 
そこで貝原益軒と、従来の損を取り戻したと損軒を「益軒」と改名したのである。 これは角川日本史辞典にも詳しく出ている話である。
 
 つまり自己顕示欲が人の何倍も強かった綱吉のことだから、朝鮮生まれの出自を自慢し、 江戸の八百屋の娘だとされている於玉より生まれた出自を、己が貴族の証拠だとして、千代田城を朝廷と呼ばせるようにした。
 
 そして柳沢吉保以下の老中は「公家」と自称した。 この事は<赤穂義人纂書>に出ている。
  其の為に京から公卿が東下りして江戸に来る時には、遠慮して官を辞任し無官となっていたゆえ、「前大納言」とか「前侍従」といった冠称になっていたのである。
 
 無論京へ帰れば自動的に前の官職に復帰していた。
 だから芝居の元禄忠臣蔵等では、真面目腐って戯作者の真山青果あたりが、
 (勅使下向の際に、殿中にて刃傷沙汰は、かしこき辺りに対し奉り・・・・恐れ多き極みである)
  といった意味の台詞が多く見かけるのも、恐らくは皇国史観の影響だったのだろう。
 
 何故なら実際は千代田城が朝廷だったのだから、京からはご機嫌伺いに参上してきたのである。
  こういうのを論語読みの論語知らずという。
 徳川は三代将軍家光の代までは、京へ行き小御所で征夷大将軍の官位と節刀を受けていた、重大な儀式があったが、立場が逆になってからは、京から挨拶に来ていたのが本当の処。
 十四代家茂になって初めて上洛するが、病死してしまい、最後の十五代には水戸の慶喜がなる。

明治維新で「王政復古」という意味は、江戸の将軍が王となっていたのを、京の朝廷が「王の称号を取り戻した」という事。