滝川クリステル嬢から見える「タ」姓の考察 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

 
滝川クリステル嬢から見える「タ」姓の考察

前回は小泉進次郎からの「コ」の付く姓の考察をしました。
今回は彼の伴侶となった滝川嬢の姓を日本史から考察してみます。
先ず彼女はフランス人の父を持ち、母親は「滝川」姓の日本人である。


滝川の「タ」はアカサタナハマヤラワのア横姓に入っている。
このア横列は、原住東北系(八幡国群・天<海>の朝系)になる。

 神話にでてくる天ノ何々のミコトというのが今日の天野さんと呼ばれる人の先祖です。
 ですから現在でも天野さんという姓が学校の先生や宗教関係に多いのもこのためです。
 紀元前九十七年頃に、現在の沿海州から満州を抜け、北鮮の羅津あたりから、裏日本へ入ってきた扶余族が、騎馬民族として入ってきたとき、「仲よくしよう」と結びついたのは、
崇神帝の御孫の景行帝の妃になられたのがこの系統の八坂姫だったことでも判ります。
 今日でも生まれつき肉食できないという人がいますが、それがこの流れの末孫なのです。
 そして毎年四月から五月に初鰹を祝う風習を、この人たちは「目に青葉山ほととぎす初鰹」と部族の祝いとして江戸時代まで伝えていた魚食人種だったのです。

 つまり、明治まで日本橋にあった魚河岸のことを「あま店」と呼んだり、≪万葉集≫などで漁師のことを「あま」と呼び、今も海女を、「アマ」というのもこのためです。
 しかし六世紀の継体王朝成立の後からは、次第に彼らは唐ぶりの藤原氏から蕃人扱いをされ、捕えられた者は、防人にされたり守戸にされ差別されだしたのです。

 それゆえ、その時からの怨念が体内に脈うっているせいか、いくら日本史が、「天の朝→天孫民族」といった扱いをしても、北海道のユーカラにも似た親から子への口伝で、
天照大神の直系の彼らの末孫には体制に順応を示したくないという人が今でもいます。
 特に、アカサタナハマヤラワの中で、カとヤとマの三つの姓を上につけた人には、「天の邪気」というか、その傾向が今でも強く伝わっています。 

 しかし、人口比率はそれでも多くて、現在でも三千万人以上の多数を占めていることからして、これを、「庶民」と呼ぶのです。が、一般庶民といっても、大衆といったような意味ではありません。
 現行法で摘出子でない、つまり父親だけが認めた子を「庶民」と区別するのと、それは同じことで、つまり一般庶民とは被占領地の末裔の意味なのです。

 

 ① 姓は、横に結びつく。
  ◆例えば、アカサタナハマヤラワのア姓列にしても、ウクスツヌフムユルウのウ姓列にしても、姓は横に結びあって、一つの集団、関連部族を形成していたということです。
 これは、江戸時代までは、姓氏の横のつながりが、「同姓」と呼称され、それが相互扶助や縁組や仕官の取り持ちをしていたという実例によって解明できます。

(1)ア姓列の場合、アカサタナ・・・・・の横列のリズムに動く例証。
 <四代将軍家綱の生母於楽の弟に産まれ、のちに、三州西尾城主になった増山正利の≪増山家記≫という由緒書が伝わっているのを引用してみましょう>
  
◆姉妹の母は仙光院といい下野在の女で、丹冶比姓といい父親はアの青木源兵衛といったとある。そこでまず、アカサタナハマの増山姓を新設し正利に名乗らせた。
  そして、その弟の資利は″ナの那須〟へ養子にゆき、那須遠江守と号すとでている。
  さて、このアカサタナのリズムで、この列のカ、サ、ハが空いているが、この新しく作られた増山の親類扱いにと台命で決められたのが、
″カは加藤右衛門佐忠〟″サは酒井讃岐守忠勝〟″ハは林羅山〟と いう具合にして埋められています。
 
そして、増山が西尾城主になる迄の間これを幕命で面倒を見るよう指図された者も、ナのつく永井信濃 守尚政であって、まず初めに彼より五十人扶持を贈られ、
そしてナの成瀬隼人正正虎が、その江戸邸を贈っている。「正保四年十一月五日相州新戸の郷に新邑一万石を賜るまで愚す」とあるように、同姓列が面倒をみることに決まっていて、
その生母が青木と離別後再嫁したのも「ナの七沢清宗」という姓の家であった。が、そこで産んだ異父弟の清宗の四男だけは、リズムから外れた。そのため、

 「他氏の女を娶る。よって尊重院に弟子入りす」ということも家記にでています。
  つまり、アカサタナハマヤラワ以外の発音のつく姓の女を嫁にしたために、罰としてお寺へ入れられたと いうのです。昔は姓列から外れると厳しかったようです。

 ② ア姓列とオ姓列は緊密系列
 これは何故かといいますと、前にもふれましたが徳川家康が天下をとるため、原住日本系を大同団結させるために、仏法僧で名高い三河の
〝ホの鳳来寺〟に巣くっていた猿女部族の〝オの小野〟姓の女比丘たちを動員して、
「自分は薬師寺十二神将の一人の生れ変りであって、光は東にありという原住民達にとって素晴らしい政治を青空のもとに公約しよう」と触れまわさせたとき、
彼はかねて徳川姓の他松平姓ももっていましたから、このオ姓列の徳川のトと、松平姓のマ、つまりアカサタナハマのア姓列を同一系列とし強化をはかったからなのです。
 
したがって、ア姓列とオ姓列は、江戸期から明治期、そして今も結ばれあっています。
 ですから、あなたの御両親が、自分らで勝手に結びつきあったものでないならば、もしあなたの父方がアカサタナハマヤの一つの姓なら、
母方の旧姓も同じか、必ずオコソトノホモヨの一つのどれかであるわけです。
・・・・・どうです。ぴったり当っているでしょう。
 これは徳川時代から、ア姓列に対しては、オ姓列は絶対緊密の掟があったからであり、その反対も、また同じだったからであります。
 <たとえば〝忠臣蔵〟を例にとってみましょう>
  
 ◆元禄十四年三月十四日に千代田城内松の廊下における浅野内匠頭の刃傷事件に関して、
   「吉良上野の怪我軽微なるを以って、浅野の処分保留方を願わしゅう」と申しでたのは、同じア姓の老中職の阿部豊後守正成と、秋元但馬守喬朝でした。
そして、オ姓の小笠原佐渡守も、「てまえも同然、よしなに願いまする」と、ア姓の老中に従っていることが、≪徳川実紀≫にも詳しくでています。
つまり、オ姓はこの時代では同じ老中職として肩を並べていても、まだアの浅野を処罰するなどということは、姓の序列が厳しくて思いもよらなかったもののようです。
    
ところが、このとき朝鮮系の生母於玉の方をもつ五代将軍綱吉は、こうした因習を打破してア姓列を潰そうとする意思があったゆえ、閣議を無視し、即日浅野内匠頭を切腹にさせました。
この結果が翌年翌年十二月の本所松坂町への討入りですが、その、赤穂義士討入事件で切腹したものの中から、オのつく姓を拾いだしてみまと、
   
<細川越中邸にて屠腹の者>大石良雄、小野寺十内、奥田孫太夫、大石瀬左衛門。
<松平隠岐守邸にて屠腹の者>小野寺幸右衛門、岡島八十右衛門。
<水野監物邸にて屠腹の者>奥田貞右衛門。
   
 この他に大石と江戸へきたが、病気や事故などで当日の討入に参加できなかった者。小山田庄左衛門、岡本次郎左衛門、奥野将監、小山弥六,奥野源五、小山源五右衛門、
これだけでもオのつく姓の者は十六名もいるのです。
僅か五万石の浅野家では、≪赤穂分限侍名帖≫によりますと、士分百二十八名、卒族二百四十三名と、書き出しがでていますが、そこから数えだしても、オのつく姓は百近くもいるのです。
だからこそ討入も決行できたのでしょう。
つまり、アのつく大名には、オのつく家臣がずらりと並んでいたという、これは切っても切れないアとオの緊密関係の姓の絆を示す一例だったともいえるでしょう。

 関東生まれの人のイ姓は、ア姓と同一にみる。
 これは、本辞と修辞の関係で、関東では、「イケマセン」が関西になると「アキマヘン」、同じく「イカン」が「アカン」となるように変わるのは前述しましたが、
発音を基準とする昔にあっては、姓も同様に、関東のイ姓はア姓と同一に扱わなくてはならないのです。
つまり下北半島の恐山のイタコ信仰が西へゆけば、「愛宕信仰」となったのと同じなのです。

 

タ姓・・・藤原氏に追われて身を潜めた温厚な部族

(滝川、滝田、田中、田村、田島、丹野、田尾、龍田、丹下、田畑、館山、等日本には多い姓)
 このタ姓は日本全国に散らばっています。それは、このタ姓をもつ人の先祖が原住系で、陽成帝が藤原氏に追われたとき各地に逃げ、身をひそめていたからなのです。
  ですからこの血がそのまま現代にも受け継がれているためか、タのつく姓は、よくいえば人がいいというのか、事なかれ主義の人が多く、あまり社会的に活躍しているというか、
知名度の高い人は人口の占める比率としては少ないようです。またこのタ姓をもつ人々は今でも血の流れを尊重する傾向が強いところがありますので、
一面では真面目だが、その半面きわめて頑固にすぎるようです。ですから、この姓の上役をもつと部下は苦労することになるようです。
  しかし、家へ戻っても、そうだろうと想像すると間違いで、この姓の人々は案外ぶすっとして,妻が自分にではなく子供にばかり話しかけるといったことを気にしたりします。
  演出家の武智鉄二とか建築家の丹下健三といった鼻っ柱の強そうな人もいますが、一般に案外に真面目人間で小心なところもあるようです。
なにしろこの姓は非常に多い割りには、目立った存在がないというのは、この姓をよくいうならば従順、つまり順応性がありすぎるのです。
なんでもすぐ右へならえをしてしまい、間違っても特異な存在にならないからです。が、その反面、凶暴性をもった人もいるようですから用心すべきでしょう。

  また、この姓には講談本で有名な竹中半兵衛がいます。
  木下藤吉郎時代の秀吉と知り合って、その軍師となって、おおいに蔭の人物となり後の太閤秀吉を作り上げたとする重要人物です。
ですから若い時に単身で、今は鵜飼で名高い金華山の上にあった井口の城を奪ったとか、いろいろ面白く話は作られています。
  しかし、タのつく者がそんなに勇猛果敢だったりやり手であるのは可笑しいというのか、講談では、藤吉郎と知りあった頃は、もう呼吸器疾患で枕も上がらぬ病人ということにしてしまっています。
そして、単に唯のブレントラストの一人といった具合にしてしまっているのです。つまり滝口入道にしろ、現在の佐藤愛子さんの前夫で作家だった田畑麦彦にしろ、みな、きれるという型ではなくて、
温厚な善人型ということに、この姓をもつ男性は決まっているようなものですが、なにしろタのつく姓の人は多いので、これではいけないと発奮して田中角栄のように大をなす人も、その反面にはいるようです。

  例をあげますと、日本石油社長の滝口丈夫、朝日麦酒社長の高橋吉隆、クラリオン社長の滝沢左内、日本無線社長の竹内雄一、立石電機社長の立石一真、日本セメント社長の竹安千春、
王子製紙社長の田中文雄、武田薬品工業社長の武田長兵衛、石川島播磨工業社長の田口連三、ミノルタカメラ社長の田嶋一雄といったように華やかな社会のフットライトをあびている人も多いのですから、
タのつく人でも温厚善良型に納まっているのを潔しとしない人は、男は度胸と覚悟をして、「なにくそッ」とここ一番、胸をはって大成を期すべきでしょう。
  また、姓列でみますと、三菱銀行の会長が田実渉、頭取が中村俊男、副頭取が加藤武彦とまさしくア姓列で首脳陣を固め、その結びつきで都銀のトップをいっています。

さらにこのタ姓は熱しやすく冷めやすい自己埋没人間でもあります。

 このタ姓のつく人は、不思議とアカサタナハマヤワか、オコソトノホモヨの発音姓の相手と恋愛したり同棲したり、結婚しています。
  タのつく男性は、一般に真面目人間が多く、ただの真面目というのでもなく、その裏に頑なまでの頑固さを秘めています。
自己をまず一番に守るといった露骨なところを持っていますから打ち解けそうで馴染めません
つまり、あまり出しゃばらない性質で、人目につかず、自分の生活に埋没する人が多いようです。おとなしいといえばおとなしいのですが、
自己埋没型といえるため結婚しても家へ帰って来た時など案外ブスッとしていたりします。また欠点として熱しやすく冷めやすい面を男女共にもっています。

したがって、タ姓を伴侶にもつ人は浮気に気をつける必要があるといえます。
  女性の場合は、内面が悪く外面の良いいわゆる八方美人型のようです。今は松山姓になっている高峰秀子とか作家の竹西寛子、デザイナーの田中千代といったような並の男より遥かに頭が良く、
それで美人という才色兼備の人が多く、男性としてはこの手の女性の美貌にひかれて結婚すると、あとで後悔するような結果になりかねませんから注意を要します。
それは、前にも述べましたように内面があ まり良くない、つまり家にあっては鼻っ柱の強くなる女性が多いからです。そこで、男性の方が関白亭主になろうなどと思っていると、
まずうまくいかないといっていいでしょう。
タ姓をもつ女性と結婚しようとしている男性は、女性操縦法に自信があるかどうか、自問してからにした方がいいようです。

こうして見ると、滝川姓が上位で小泉姓は従属しなければならないことが理解できるでしょう。
進次郎氏は、独身時代の女関係は大いに結構だが、結婚後に浮気をしたら大変なことになる。
だから彼は、美人で容姿端麗、才女の嫁さんの云う事をよく聞き、尻に敷かれても「嫁さん一筋」を貫いて政治に邁進すれば、何れ総理の椅子も取れるだろう。