第二次大戦とイ姓列勃興の関係
第二次大戦に脈うつ<血>の方則
ヒトラーはマイン・カンプ『わが闘争』の中で、
「わが民族の歴史を振り返ろう。かつての神聖ローマ帝国を、西暦四七年に滅ぼしたわがゲルマンは、スペインに西ゴート王国。ガリヤにフランス国。半島にイタリア国。スカンジナビアに北欧三国。
ブリタニア島にイングランド国。そしてババリアにドイツ総本部を建国し、ヨーロッパの全支配をなしていた。しかるに千五百年の後、われわれはベルサイユ条約によって、不当な弾圧をうけ領土も削られた。
かっての主人であるゲルマンが、今は鎖につながれている。この辱しめをわれわれは忍ぼうとしても、わが体内に脈々と流れるゲルマンの血の誇りはこれを許さないのである……
われわれを毒しているものは、異民族による雑血の混入だった。わがゲルマン民族は、今こそここに血の粛清を求め、純血の尊さを確保せねばならない」と宣言した。
大戦が始まると、彼らは次々の占領区域のユダヤ人をとらえて、アウシュビッツの処理場へ送った。そして異血民族は大量にあの世へ送られた。
戦後ユダヤ人は憤った。生き残った連中が『アンネの日記』を出版し、映画「夜と霧」を製作して、その残虐性を世界に訴えた。
だが、これに同調して「ナチス・ドイツは残酷無惨だ」と、知識階級までが、その宣伝に踊ったのは、雑種国家のアメリカと、わが親愛なる東洋のニッポン国だけだそうだ。
「なにしろ原爆を落とされ数十万の同胞を殺されたくせに、『過ちはくりかえしません』と、てめえでおわびするバカな国民性もあろうが、なぜユダヤに同情するかわからん」
と、R・H・ブーツの『ユダヤ人問題』にはでている。とはいえ日本には、「拳々服膺する」というむずかしい言葉があるが、純血種を守るためセイリされたユダヤ人の血潮をしのんで、
これを「股々(ここ)服用」の紙ナプキンに「アンネ」と命名するお国柄である。なんでユダヤ人との血のつながりを、無縁の日本女性が身をもって肌で確かめあう必要があるのか、
男の私などは下腹に手を当てていくら考えたって理解に苦しむ。
なにしろ本場のヨーロッパでは、ゲルマンのドイツ人はもちろんのこと、ユダヤ系以外は、「民族の血を守るのは、正当なことだ」と女までが、決して大量虐殺を非難していない。
これは国旗をみれば敬礼し、ストリップーホールでさえ国歌を演奏する異国の人民どもと、「『君が代』って大相撲のフィナーレだろ」という子供のいる国民性との相違であろう。
情報社会に適応したイ列
とはいうものの大局的にみれば、第二次大戦は、純血主義と雑血主義の争いで、雑の方が勝ってしまったのだ。だから日本でも、第二次姓のイキシチニの頭文宇のつく連中が<列姓遺伝>で、
逞しく戦後五十年間に成長し、今や彼らの黄金時代になっているのだということが判る。なにしろ現代では「血統」なんていうと、「ああ、犬ですか」と答えられてしまう。
不公平な話だが、犬屋の商売上の謀略によって、犬の世界だけは、血統書付きという権威によって、国産ア列の秋田犬や、舶来ウ列のウールーコステリアの珍種から、
フのブルドッグまでが威張っている。
だが、これは仕方がない。なにしろ現代の人間社会は、イ横列の時代だから、昔みたいに毛並みの良し悪しをいうよりも実力本位ということになっているし、頑固な大人物型より、
「情報社会」というのは、こまわりのきく頭の廻転のはやいのを求めているから彼らがもてるのだが、また講談や浪花節の流行するような世相に逆転すると、
今度は、またもっともらしいことのいえる型が大切にされて、ウクスツヌ型の時代がカムバックしてきて、「復古ムード」ともなろうともいえる。
さて、今でこそ、「この世の中に神も仏もないものか」という芝居のせりふから、神仏を一つに考えるが、江戸元禄時代までは違っていた。
つまり神を信ずるのは原住民。仏信仰は大陸からの外来民と決まっていて互いに敵視しあった仲である。
戦国時代など「出陣にあたって神仏に祈り」などと書く輩もいるが、そうしたてあいは歴史を本当に知らない寝言の類であって、「神を信ずる者」と「仏信心」が衝突したのが戦国時代である。
<加越闘争記>などでは、「仏法こそ、武士の仇敵なり」と一向門徒によって奪われた加賀の国を取り戻そうと、武士が集まって仏家の寺や道場を焼討ちする次第が書かれている。つまり、
「織田信長は、本願寺を攻め延暦寺を焼き払い、高野山の僧侶何千人を、みな殺しにした凶悪無惨な武将だった」というが、神信心の信長が、外来系である仏信信心の敵をうつのは当然のことだし、
中世紀はヨーロッパだって、
「百年戦争」「三十年戦争」とカトリックと、ルーテル派の新教国との争いが激しかった。そして異教徒であるサラセンの回教徒に対する十字軍の、宗教戦争の時代だった。
そして、この戦国時代に各地から、新興プロレタリアートとして勃興した武者階級が、出身地を名のって姓を広めたのである。
例えば常陸の国、多賀谷から出れば「多賀谷長兵衛」を名乗り、信濃の日根野から出ると「日根野高広」と名乗ったように、その出身地を姓にした戦国武者や大名が多く、
<濃飛両国通史>や<摂戦実録>等に書かれているように豊臣秀吉の馬回りにもこれは多い。
江戸期に入ると「家名」とか「家門」という形になったもので、もともとが集団集落の地名からでている姓とというものが、横つながりの連係をもっていたのも、このためである。
【契丹も、日本史では「宋」となっているが、唐に代って中国大陸を支配した国ゆえ、同じとしておくが、厳密にはキの付く姓とスは、フの藤原系の傘下に入ってしまう。
公家ではなく庶民として扱われてきている点を注意しなければならない】
二十一世紀の主導権を握る者
片仮名が純日本系のわけ
アイウエオは「インドの声字学」つまり<悉曇・しったん>によるという説がある。たとえば、インド語のカースト。
(caste)という階級を意味する言葉が、ラテン語の純血、
(Castus)からでて、ポルトガル語の家系、(血統のcaste)になり、今は英語になっている。
このように言葉というものは、国から国へと変わるから、あえて否定もできない。
さてこの、インドのカースト制というのは、
① ブラーフマナ(バラモン=僧侶)
② クシャトリヤ(王侯貴族と武士階級)
③ ヴァイシャ (平民=町人)
④ シュードラ (被占領民=奴隷。賎民)
と厳然と最近まで階級制をしき結婚も交際も許さなかった。そして日本にもそれに似た階級制の、②、③、④がそのまま、百年前まであったし、今もすこし残っている。
さて、アイウエオというのは縦読みすれば、インドできのような疑いもあるが、この方則みたいな横読みに直せば、これまた日本式に意味が通ずる。
つまり、
「赤沙汰な(赤い模様の)浜矢羅わ(はまなす、はまなしともよぶ赤い花。実は古代の食料)(わ=は)
生き死ちにひみいりゐ浮くすつぬ(人の生き死に関係なく花は咲き実も浮き漂う)
踏むゆるう(固い実を足で柔らかく殼をふむ)えけせてね(良くしてね)へめえれゑ(めでたい)
烏滸外(おこそと)の頬(ほ)もよろを(つまらぬ民草たちも木の実か食え満腹でき頬をほころばせ満足する)」となる。ただし、(おご)は海髪(おごのり)という海草の意もある。
だから、こういう解明がつけば、どうにか判ってくるというものである。
そもそも縦書きしだしたのは、明治に入って発音記号が輸入され、アイウエオを縦にして母音にすれば、あとは力行はK、サ行はSと分離できたからである。そして、
(いろは)は大陸のサンスクリットの変型文字だが(アイウ)は日本原住民用とした意味もあるが、日本原住民が固まって隔離されていた堺の茶人たちは、平仮名は使わなかった。
その一例として、
「サシスセ列の千利休」へ「アカサ列の奈良商人の松屋久松」が、天文六年九月十三日に出した手紙あたりからしか手掛りは今は実存しない。
それは、茶席のメニューであるが、
「シヲヒキ、汁菜、引汁ススキアメナマス、飯、アユ、ヤキテクワシ、イモモチ、ヤキクリ」
と、当時一般に使われていた、(いろは)の平仮名をさけ、わざと(アイウ)の片仮名が用いられている特殊性などである。
何故かとこれをもとにして、戦国時代から秀吉時代までの茶湯関係を調べてみると、
「わびの茶」をもって従来の中国風の唐茶に対抗した堺の皮革商の武野紹鴎や千利休の一派は、公文書には、
(いろは)を用いたが、相互の通信や自分の日記には、みな(アイウ)を使っていることが判ってくる。
<宋湛日記>や<利休百会記><宗及他会記><松屋全記><天王寺茶会記><山上宗二記>にもことごとく、原文は(いろは)を用いず、わざと(アイウエオ)で書いている。
つまり大陸から輸入された茶は南北朝から足利期にかけては「書見台子のばさら茶」と呼ばれ、
茶碗は唐渡り、茶びしゃくや茶せんも唐金ときまって中国風に卓をかこんで蓋つきの茶が飮まれていた。
それを当時の被圧迫階級の純原住系の連中が提携し、
「サ」の(ささら衆)に竹の茶せん、
「カ」の(かとう衆)に上がまで碗、
「マ」の(まつばら衆)に静岡で茶、
(サの狭山衆にも茶を栽培させた)が、こうしてオール純国産の青いグリーンティーの時代をつくり、そして(まつ)から名をとって、「まっ茶」とよんだ。
こうして青茶は従来の大陸から入っていた赤や黒っぽいブラックーティーを追い払ったのが彼らの歴史なのである。
今でこそ、茶は自由栽培だが、江戸中期まではそうではない。この植えつけの地域は限定されていて、
「久野別所」のあった清水とか、善枝ちゃん殺しで有名な狭山といったような旧別所の特別区域に定っていたし、また岡山から広島へゆくと、
「茶せん」とよぶのが、限定地域の人への侮称になっているのでも、これは判りうるというものである。
だが、当時とは違い、現在はリプトン紅茶が大手をふって入ってきて、日本に植えられた方は、
「唐茶ですみません」と断わりをいってさしだされるくらい、赤い茶は、肩身を狭くしている。
しかし、これを誤ってしまい、お茶受けのつまみなしでだすのを、(茶オンリー)の意味かと、
「空茶ですみません」式にいうが、それは間違いで元来は唐の茶のことをいうのである。
しかしこれがエスカレートして近頃では昔の川柳クラスでさえ、如何なるわけか青っぽい色がでるようになっている。
さて、そうした後世のまやかしは別にして、その時代の、「まっ茶グループ」が、ことさらに(アイウエオ)を用いるからには、これぞ純日本系の文字であろうと推測したのが、
この<姓の方則>なのである。
だが、この話は、これまで『茶湯古典全集』にも残っていないし、今まで書いた人もない。
「わびの茶の極意が、幽玄枯淡」とあるのを考えれば、
「これは大陸から進注してきたウクスツの連中に山奥へ追い込まれた逃亡奴隷の日本原住民のインデオ族が、
戦国時代に山から出てきて武者として働き、目出度く一城の主となって美服美食に恵まれながら、時として郷愁にやるせなくなって、山中の暮らしを追慕して、
そのほろ苦さを嗜んだんだもなのだ」と解明すれば、すぐ判るのだが、そうなると、茶湯の歴史がみみっちいものになって、茶湯の道具が高価に売れなくなるから、
よって勿体をつけるために頬冠りされているのだろう。