『朝敵の武士道 甲陽鎮撫隊 隊長近藤勇の最後』 | 幕末ヤ撃団

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勝者に都合の良い歴史を作ることは許さないが、敗者に都合良い歴史を作ることも許しません!。
勝者だろうが敗者だろうが”歴史を作ったら、単なる捏造”。
それを正していくのが歴史学の使命ですから。

2023年夏のコミックマーケットで発行した同人誌『朝敵の武士道 甲陽鎮撫隊隊長近藤勇の最後』の通信販売開始のおしらせです。

 

 遅くなりましたが遅くなりましたが、去年の夏コミで発行した同人誌『朝敵の武士道 甲陽鎮撫隊隊長近藤勇の最後』の通販を開始致します。遅くなったことの言い訳になりますが、この同人誌の原稿完成がコミケ二日前になってしまい、コミケ前日にコピーと製本作業を行う予定にしていました。ところが、その日からコピーセンターが盆連休に入ってしまってコピー不能に……。焦ってあちこちのコピーセンターを探ってみたものの、多くがすでに盆連休……やむなく、近くのホームセンターでコピーしようとするも、連休中に改装するとのことで食品売り場しか営業しておらず、コピー機は撤去しているということで……。残されたのは少し歩くものの5円コピーができるスーパーに期待するも、今度は両面コピーができない設定にされており、設定変更する操作をスーパー定員が知らないという……(号泣)。こうなると5円コピーは絶望的。最終手段はコンビニの10円コピーです。しかし、10円コピーだと原価が倍になり、定価200円据え置きだと赤字になる……。で、背に腹はかえられずコンビニで30冊だけコピーし、コミケの新刊にしていたのですね。なので、初期製作部数が30冊というごく少数発行になってました。

 夏コミケ終了後は、あさくら先生の件や冬コミケの新刊作成に追われて、夏コミケ新刊たるこの本の増産をする暇がなかったのですよ。なので、なかなか通販も開始できなかったというオチでございます。申し訳ない。

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↑『朝敵の武士道』本文

 

官軍と賊軍

 古来から合戦や戦争は多く行われてきた。なかでも戊辰戦争は、特異な戦争だったと私は思う。戦国期以前に行われた争乱や合戦は、多くの場合利権や領地争い、権力闘争に端を発している。それは自力救済(公権力に頼らず、自身の力を頼みに問題を解決すること)の原理に従い、起こった現象とも言えよう。
 中世、自分の領地や荘園などが他者から奪われそうな時は、武力でこれを追い払った。そのためには自分が強くなくてはならない。強い武士と自分の名が広まれば、これに戦いを挑もうとする敵対者も減る。これを「武威を広める」と言う。武士の強さへの信仰はこうして生まれた。そして武士個人の名声は家名にも転化され、子々孫々家が続く限り受け継がれていく。かくして武士個人の強さは、一家一族の強さとなる。これを「武名」という。武名を高めること、武威を広めることが武士にとって至上命題になった。逆に武士にとって「恥」は、こうした武名や武威の効果をを失わせてしまう働きをする。だから武士は恥を嫌い、恥を与えられたらこれを放置せず、必ず報復などの手段によって回復をはかる。
 強い家の元には、庇護を求めて人が集まった。これが郎党となり家臣団が形成される。強くなるためには、さらに多くの兵や資源資金が必要だ。それらを生み出す基盤が利権や領地である。武士たちは、強さを求めて利権や領地の拡大をはかった。そのために他者の領地や利権を奪うのである。合戦は武士にとって、武名を高めるハレの場になった。煌びやかな鎧で武装し、目立つ旗指物を掲げ、名乗りをあげて戦う行為は、自身の武名を世に知らしめる絶好の機会である。
 かくして武名は、単なる名誉ではなく家名存続のための防御機能まで獲得した。こうなると、武名のために死ぬことも肯定されていく。いわゆる「命を惜しむな、名こそ惜しめ」という名句も、こうした武士道精神のなかから生まれた。これが古来からある戦闘者の精神だ。このような精神を、思想史家は便宜上「武士道」と呼んでいる。
 また力のある有力者に奉公するかわりに、自身の領地や利権を保証してもらうといった行動も、自力救済の論理に従っている。いわゆる中世武家社会における「ご恩と奉公」の関係がこれだ。そして、この家同士の君臣関係が長く続けば、君臣の間に心情的な信頼関係も芽生えてくる。主家の滅びが自身の滅びになるほど密接な関係になれば、もはや一体化した運命共同体と言えよう。これが武士団とか家臣団と言われるものだ。
 逆に自身の利権や領地の安全を保証できない、あるいは心情的に信頼できず、自身の将来に不安のあるような主君に忠勤を励む理由はない。この場合、新しい主君を探して乗り換えるか、弱き主君を倒して力ある主君を新たに立てる。あるいは自身が主君に取って代わる「下克上」が行われた。
 戦国期の武士たちは、自身の家や領地などの既得権益を守るために主君を選び、忠勤を行うかどうかもその都度判断した。主君と家臣の関係も、このように恩義の有無や心情的関係が重視されている。これが戦国時代の武士道精神であったろう。
 これが江戸時代になると、まったく違ってくる。自身の利得に左右されることなく、主君に忠勤を励むことが美徳とされた。主君の命令が道義に反していれば、これに従わず諫言して正す。これが臣下の道とされたのである。このような武士精神に至った理由は、江戸時代を通じて一般常識、通俗道徳となっていった儒学、朱子学に求められよう。
 江戸時代、儒学や朱子学などが十分に広まったことで、儒教道徳が武士精神に加えられる。その結果、武士とは領民の安寧を守るために徳を身に付け、善政を行うことを職分とする者と理解されるようになった。社会を乱す悪に対して、武士は武力を用いてこれを討伐し、不正を正す。そのために武士は武装するのだ。これが天下泰平時代の武士の存在理由となる。
 「泰平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)、たった四杯で夜も寝られず」と言われた黒船の来航からはじまる幕末の混乱期、朱子学をはじめとする経世学や水戸学など学問から攘夷論が提唱された。これも泰平を脅かす異国の脅威を払いのけることが、為政者たる武士階級の職分、使命とされたからだ。
 このように朱子学や儒学が武士精神に与えた影響は大きい。なかでも武士の間で語られる忠孝の道といった精神、倫理道徳は、まさに儒学朱子学道徳そのものだ。これを思想史家は便宜上「士道」と呼んでいる。

(『朝敵の武士道』本文より抜粋)

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 本書では、鳥羽伏見の戦いで徳川慶喜が大坂城を脱出し、江戸城へ帰還したところから、甲州勝沼の戦いを経て江戸城無血開城、近藤勇処刑までを扱います。丁度、以前発行した『大坂城の慶喜』が本書の前史に位置し、江戸城開城までの近藤勇や土方歳三等の動きから、朝敵になってしまった幕臣達の動揺と判断を近藤勇という人物を題材に探っていくという観じ。もちろん、近藤勇をはじめとする新選組隊士達の苦しみにも目を向けていきます。

 ただし、単なる人物史ではなく、あくまでも思想精神史として、朝敵になってしまった側の武士道を探るのが主題ですので、近藤勇の行動や言動から「朝敵になった者たちの武士道がどのようなものになっていったのか」を論じています。

 江戸時代末期の武士道は、儒学の普及隆盛によって「儒学の王道主義」が「尊王論」に生み、天皇と将軍を両立させた「尊王敬幕」思想を根底におく「士道精神」になっています。朝敵になったということは、日本の王たる天皇の敵になったということであり、朝敵の立場では士道思想の論理そのものが、学問的になりたたない。つまり、朝敵の者に士道などありえないんですね。朝敵は王道主義のとりようがないので。

 江戸時代の一般常識や一般的学問も儒学・朱子学であり共に覇道を否定して王道こそが正しいと教えています。ということは、武士だけに留まらず庶民もまた王道主義が常識なんです。ところが、朝敵の王道主義などありえず、朝敵になった者の士道精神は否定されてしまう。朝敵となった近藤勇をはじめとする幕臣たちは、この状況に苦しんだのです。なにしろ、それまでごく普通に持っていた自分の武士道が、ある日突然朝敵になった途端否定され、成立しなくなってしまったのですから。

 武士は庶民の手本となる身分職分です。庶民の手本たる武士が、天皇に逆らい天皇と戦うなどもってのほか。しかし、現実に徳川家や自分たち幕臣は朝敵にされている。錦旗を掲げる天皇軍と戦って武士の意地を見せるのか、戦いから逃げたと後ろ指を指されるような恥を受け入れてでも天皇との戦いを避けて恭順するのか。

 はたして幕臣達の武士道がどのように変化し、どのような判断を下すのか。そういった部分を近藤勇を例に探っていこうというのが本書の趣旨となります。

 

タイトル:『朝敵の武士道 甲陽鎮撫隊隊長近藤勇の最後』

発行日:2023年8月13日

価格:200円

体裁:28ページの手作りコピー本(私がコピーセンターでコピーし、折ってホッチキスで留めました)

 

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