帝国主義下での武士道・特攻玉砕の精神はどこで生まれたのか | 幕末ヤ撃団

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勝者に都合の良い歴史を作ることは許さないが、敗者に都合良い歴史を作ることも許しません!。
勝者だろうが敗者だろうが”歴史を作ったら、単なる捏造”。
それを正していくのが歴史学の使命ですから。

↑特攻勇士の像

↑説明

 

 前回の靖国神社・就遊館見学以降、ちょろちょろと近現代史のなかの武士道を調べつつあるところ。その結果、なんとなく大雑把だが、戦前の日本の中で武士道がどのように変化してきたのか見えてきた。ただ、あくまでもまだ調べている途中だし、私の専門はどちらかと言えば幕末史なので専門外でわからないことも多いから、なにか間違っていたらご指摘願いたい。

 

 明治維新以降で、武士道的な要素を有するものとして庶民や兵隊に示されたものとしては、明治十五年に出された『軍人勅諭』と昭和十六年に陸軍大臣東条英機が全陸軍に発した『戦陣訓』が極めて重要な軍人精神として受容されたと考えられる。

 

『軍人勅諭』

 

 軍人勅諭は、西周(岩見津和野藩・徳川慶喜の側近)が起草。福地源一郎(幕臣)や井上毅(熊本藩士)、山県有朋(長州藩士)らで考案されたという。元になったのは明治十一年に陸軍卿山県有朋が発した『軍人訓誡』だ。

 

 「軍人勅諭」と共に「教育勅語」も同時期に出されている。内容は非常に儒教道徳に満ちた内容だと言えよう。これは洋学派に対する反動でもあったから当然だ。明治維新後、日本は文明開化政策に取りかかった。武士階級は解体されて消滅、兵はあらたに庶民を徴兵する形となる。学問教育面でも西洋に追い付き、追い越せとばかりに洋学重視の姿勢を取り、逆に江戸時代の主要学問だった儒学漢学は時代遅れとされて衰退の一途を辿った。実は、武士道も同様で文明開化が進むにつれて一旦廃れている。

 苦境に立たされた漢学(儒学)派も巻き返しをはかるなか、なんでもかんでも洋学という世の中を良しとしない山県有朋と結びついていったという。こうして出された「軍人勅諭」と「教育勅語」は、儒学道徳を大いに取り込んだ精神として発布され、同時に漢学や儒学の見直し再評価へとつながっていく。

 

 さて、「軍人勅諭」の内容だが、大きく五条となっており、それぞれ「忠節」「礼儀」「武勇」「信義」「質素」について書かれている。冒頭の全文では、明治維新の精神が語られていることも重要で、つまり水戸学的な太平記史観の影響も感じ取れる。そこには、もともとは天皇が国の全権を持っていたが、文弱に陥ったために兵権を武家(幕府)に奪われたこと。明治維新によってふたたび天皇に全権が戻ったことが記されていた。つまり、武士という存在を全面的に賛美していない一方で、庶民を徴兵して兵隊にすることから、天皇は主君、兵は家臣という位置づけがなされている。

 江戸時代以前は、戦闘を行うのは武士であり、庶民は戦闘から逃げることが許される存在だった。しかし、明治時代は庶民を徴兵して兵とすることから、庶民に戦闘者としての心構えや精神を植え付けなければならなかったのだろう。武士ならば、戦うことが職分なのだから、子供のころからそうした教育を受けて育つ。だが、庶民は武士ほどの覚悟はないと当時は考えられたからだ。西南戦争の際も、士族の薩摩兵に対して、徴兵で集められた庶民出身兵主力の明治政府軍は精神面でどうしても弱く、ついには士族中心で編成された「抜刀隊」が投入されている。

 こうしたことから、兵隊教育にも戦闘者の精神として明治時代に合った新しい武士道として「軍人勅諭」が示された。このなかで注目点は、「忠節」の部分で語られる「世論に惑はず、政治に拘らず、只々一途に己が本分の忠節を守り、義は山嶽よりも重く、死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ」の部分だろう。軍人たる者は政治に関わるなという部分が有名だが、同時に「義は山嶽よりも重く、死は鴻毛よりも軽し」の部分が、後に曲解されて「兵を死地へ向かわせる精神」に変化していく。ただし、この明治十五年の段階では「死ぬための精神」ではなく、戦場で敵前逃亡などせぬよう「死の覚悟」をさせるためであったと思われる。

 また、後に「統帥権」を作った山県有朋らしさも出ており、軍人は政治に関わらず天皇へ忠義すること、尽忠報国の精神もここで説かれた。「一君万民」思想を軍隊に持ち込んだ形で、軍人が忠勤を励む対象は天皇一人なのだ。昭和には、こうした考えを悪用した軍閥が「我々は天皇陛下の軍隊である」という論理で「統帥権の悪用」へつながっていく。

 

 また「武勇」の部分では、「武勇は我国にては古よりいとも貴べる所なれば、我国の臣民たらんもの、武勇なくては叶ふまじ」とある。これは江戸時代を通じて「明・清(大陸・現在の中国)は文の国。日本は武の国」という「武国」思想がある。清は文国だから文弱になり、他国の侵略を受けたが、日本は武士(その長が幕府)が治める武の国だから夷狄に負けないという思想だ。これが幕末期の「攘夷」思想の根底にある。文明開化のなかで一旦は欧米列強の強さにあこがれ、西洋文明を開化させようとするなかで日本は強い国だという考え方は一度は廃れ、日本は弱い国として認識された。それ故「富国強兵」が政治的スローガンになっている。だが、ここで再び「日本武国論」が再認識され、軍人の精神として復活している。なぜかと言えば、武士階級が解体されて職業的戦闘者の精神が忘れ去られていたからだろう。江戸時代は武士ではない庶民は、こうした精神と無縁でいられたが、明治時代はそうではないのだと徴兵で集められて兵になった庶民に教えている。これもまた、庶民を新たな時代の武士とするための精神であったと思われる。

 

 さらに「軍人勅諭」と「教育勅語」によって、儒学や漢学が見直され再評価される世情になると、当然ながら武士道もその対象となって復興してくる。時期を同じくして奥州盛岡藩士の子・新渡戸稲造が著した『武士道』が日本でも広まり、武士道ブームが起こってくる。同時に日清日露の両戦争に勝ったことで、日本人の意識は高揚され、日本独自の武の精神たる「武士道」を誇るブームは最高潮に達した。この時期が明治武士道が大いに浸透した時期だったろう。それは、民間からは新渡戸の「武士道」、軍隊においては「軍人勅諭」という形で両輪で起こり、官民一体となった形で行われた。

 

 大正時代に入ると、大正デモクラシーという現象が起こることで軍人が低く見られるということが起こる。さらに若手軍人の間で、長州閥の支配の元では、軍を近代化できないとして長州藩閥排斥の運動も起こった。そして、バーテンバーテン密約がなされ、長州出身者は陸軍大学校へ入学しないよう入試等の際に落とすといった手段が行われる。長州出身というだけで学校に入れないのならば、卒業生を士官とする軍隊でも長州人は減る。かくして長州藩閥は軍隊から緩やかかつ静かに駆逐され滅んでいくと同時に、逆に新しい勢力として軍閥が登場した。陸軍大臣もこうした勢力から就任し、政治勢力にもなっていくのだ。

 

↓東条英機とバーテンバーテン密約の概略に関しては、こちらを参照のこと

 
 
 昭和期に入ると、この軍閥の主要人物となっていた東条英機(奥州盛岡藩出身子弟)が昭和十六年に「戦陣訓」を発する。とかく一番最初に出された「軍人勅諭」ばかり注目が集まるが、戦争の時代たる昭和の武士道はこちらが主となる。
 

↓戦陣訓 全文

 
 序文のおいて「軍人精神の根本義は、畏くも軍人に賜はりたる勅諭に炳乎として明かなり」としつつも、さらに詳細に軍人の精神を述べたものが「戦陣訓」だ。
 全体的に見た時、「軍人勅諭」のように儒教道徳のような道徳を説く部分もあるが、どちらかといえば明治時代に成立した「明治武士道」を、実際に昭和時代の戦場で活用する上での精神が述べていると言えようか。儒教道徳よりは、武士道精神に寄っている感じがする。特に第七条と第八条は見逃せない部分だ。
 
第七 死生観
死生を貫くものは崇高なる献身奉公の精神なり。
生死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし。身心一切の力を尽くし、従容として悠久の大義に生くることを悦びとすべし。

第八 名を惜しむ
恥を知るもの強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし。
生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。

 

 「軍人勅諭」では「死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ」とあった兵の命に関して「死は軽い」と兵の命を軽んじる文言は消えたものの、「死生を貫くものは崇高なる献身奉公の精神」となり「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」に変化した。特に後半の「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」が有名で、どこかで聞いたことのある文言だと思うが、これが出典となる。同時に、これこそが日本軍にかけられた”呪い”の文言なのだ。

 この「戦陣訓」は、江戸時代末期の戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に属し、賊軍の名を蒙った南部藩の藩士の子東条英機によって出されたものだが、当然東条は日本軍は負けないという信念の元に軍人精神を説いている。だから、こうした条文も力強く、日本軍人たる者は、こうあるべきという形で書かれた。日本軍は負けない。勝つ。だから”捕虜になる者などいない”のだという前提の元に書かれたと私は想像する。

 捕虜になるとは、戦闘を止めて敵に投降することだ。敵に投降するような弱者は日本兵にはいない。投降するぐらいなら戦って死ぬ方を選び、生き恥を晒すな。と言うのである。兵一人一人への訓戒だったならば、それも良いだろう。だが、日本軍そのものが負け始め、国家として勝ち目がなくなったとき、この文言は呪いの文言と化す。日本が本土決戦を覚悟した時、「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」の精神は命ある人を武器に変える特攻と、降伏するぐらいなら皆で玉砕するのだという玉砕戦法の論理に化けた。この文言が軍人精神を縛り、日本軍人から降伏の2文字を奪ってしまったのだろう。この苦しい戦いから逃れる方法はたった一つ。「死ぬ」ことになってしまった。

 まさか、こんなことになるとは、と東条自身も思ったことではなかっただろうか。

 

 日本の軍隊において、前述してきたように「武士道」を採用して庶民を兵とする新しい時代の武士道として明治武士道が創出されたが、武士道のデメリットとしてその精神が個人に向いており、国家の精神ではないという指摘がある。個人の倫理道徳である武士道精神を国家全体の精神に置き換えてしまったため、個人の責任の取り方である自刃が、国家に置き換えれば国家国民すべての自殺になってしまう。「武士道」が”生きていく”ための思想から”死ぬ”ための精神となったのは、もう戦争に勝てないと戦争指導部はもちろん、国家国民が自覚した時ではなったか。負ける。ではどうする?。と考えた時、思い出した文言はこの「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」だったのだろうから。私は幕末史が専門で、大正・昭和史は専門外で詳しくはないが、私にはそう思える。

 

参考に以下の論文も掲載しておく。この問題を考える参考にどうぞ。

「―日本の職業軍人意識 ―1500 年の軍事史を振り返って―(林吉永著)

http://www.nids.mod.go.jp/publication/senshi/pdf/200503/12.pdf

 

 神風特別攻撃隊の存在は、戦争の悲劇そのものである。出撃した兵はもちろんだが、「死んでこい」と命じなければならなかった指揮官たちも同様だ。終戦の日、特攻隊に命令を出してた指揮官の何人かは、終戦の日に天皇からの「玉音放送」を聞いた後で、自ら特攻機に乗り込み帰らぬ人となっている。

 

↑人間魚雷「回天」搭乗者たちの寄せ書き

↑説明