特別展「一橋徳川家の幕末維新」とエンフィールド・スナイドル銃 | 幕末ヤ撃団

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それを正していくのが歴史学の使命ですから。

 先週の話しになりますが研究家あさくらゆう先生のお誘いで、茨城県立歴史館の特別展「一橋徳川家の幕末維新」展を見学して参りました。

 

 出発前に、あさくら先生宅にて幕末時代の洋銃エンフィールド・スナイドル後装銃を見させて頂いたので、その写真からご紹介しましょう。

↑エンフィールド・スナイドル銃

 

↑エンフィールド・スナイドル銃

 

 言わずと知れた戊辰戦争後半の明治政府の主力銃。江戸無血開城させた明治新政府軍は先込式の英式ミニェー銃「エンフィールド銃」から、この元込式の「エンフィールド・スナイドル銃」へと武装を転換し会津・東北戦争を戦っていくことになります。

 スナイドル銃は、先込式のエンフィールド銃を元込式に改造した形式の銃で、改造のし易さもあって新政府軍は時間を掛けずに武装転換させていたようです。あさくら先生のスナイドル銃もまた初期型スナイドル銃だそうで、基本的には薩長両藩が用いたスナイドル銃と同型式らしい。中古の美術品として売買されているそうで、あさくら先生の所持するこの銃もその一つ。美術品扱いなので私でも触れるみたいでした。

↑スナイドル銃の薬室を開いたところ

 

 スナイドル銃の特徴は、このように蝶番で薬室を開くことでしょう。ここに弾と発射火薬が一緒になっているカートリッジを押し込み、再び蝶番を締めます。

 

↑スナイドル銃の蝶番部

 

 上記写真は、スナイドル銃の蝶番の部分とハンマー部です。蝶番で接続されているフタ部分から突起(ニップル)が飛び出しており、ここをハンマーが強打すると撃針が飛び出す仕組みになっています。

 

↑丸いフタ部分の中央にあるのが撃針。ハンマーがニップルを強打するとこの撃針が飛び出し、カートリッジ(薬莢)の底部にある雷管を叩く。雷管が激発してカートリッジ内の発射火薬に点火激発し弾丸が発射されます。

 

↑カートリッジ(薬莢)

 

 カートリッジ(薬莢)は弾と発射火薬、発射火薬に点火するための雷管(かんしゃく玉のようなもの)がセットになっています。上記写真は金属薬莢で強度があります。

 

↑薬室内を上から見る

 

 こんな感じで蝶番を開き、弾を込めて撃ちます。撃った後の空薬莢を取り出して次の弾を込めるわけですが、意外にこれがメンドイかもしれない。銃を逆さまにして空薬莢を転がり落とさないといけない。この間は薬室のフタはブラブラしてしるわけでして。空薬莢が激発時に膨張して銃内部に張り付いてしまうと出てこなくなるらしく、その際には棒を銃口先端から入れて突っつきいて排莢するのだそうです。そのための棒も銃身の下に備え付けられていました。これは先込め銃時代は弾込め時に使用するさく杖を刺している部分をそのまま利用しているので、外見上では先込銃の備品そのまんまですな(汗)。

 先込銃のように立ったり、銃口の先からさく杖を突っ込んで……という面倒くささよりはマシなのでしょうが、一発撃つごとに銃の弾込め部を逆さまにして弾を転がり出さないといけないというのはなぁ~。今の銃みたいに空薬莢が次弾装填時に飛び出して行ってくれるという便利機能までは、この時代の銃には高望みなのでしょうなぁ(汗)。

 

↑銃口内部写真

 

 上記写真は銃口先端からなかを覗いた感じですが、当然ライフルがあります。解りにくいかもしれませんが、光りがライフルにそって斜めになっていることがお解り頂けるでしょうか。

 

 ということで、あさくら先生からスナイドル銃をじっくり見させて頂きました。あさくら先生はこれでゲベール銃、先込ミニェー銃(エンフィールド銃)、元込のエンフィールド・スナイドル銃、スペンサー七連発騎兵銃と幕末戊辰戦争期に実戦で使用された主要洋銃が一通り揃った形で所持しているというところでしょうか。唯一、幕府伝習歩兵が持っていたと言われるシャスポー銃がないですが、幕府伝習隊はシャスポー銃を装備せずに戊辰戦争を戦ったという有力説もあり、シャスポーに関しては実戦に使用されたかどうかが疑わしい。なので、シャスポーまで揃える必要はないと思われます♪。

 

 ということで、スナイドル銃を見せて頂いたあとに茨城方面へ出発しました。まずはあさくら先生の射撃練習のために射撃場へ。

 

↑あさくら先生の射撃練習

 

 銃の免許を維持するためにも一定の時間数を射撃していなければいけないみたいで、午前中はあさくら先生の射撃練習を見学しました。この日は古銃の射撃はなしで現代の猟銃のみの射撃となりました。現代銃は美術品扱いではなく”銃”の扱いなので、私は一切触れることはできません。離れたところから”みーてーるーだーけー”です。でも、古銃の射撃と違って顔元で火花は散らないし、煙も無煙火薬なので少ない。ただ、音はスゴイのではやり威力は半端ないのでしょうなぁ。

 

 この後、特別展を見るために茨城県立歴史館へ。そこでお昼ご飯もという計画でしたが、併設されている喫茶店に食べ物がケーキしかなかったという。なので、某フランスの女王だかが言っていたように「食べるものがなければケーキを食べればいいのに」ということでケーキを食べて昼ご飯としました。

 まー、安物ケーキだとパン生地が多いので腹を満たせるんですが、ここは半分以上がクリームで……(苦笑)。とっても美味しいけどね(苦笑)。

 

 ということで、学芸員さんの案内が始まる14時に展示室に行き、特別展「一橋徳川家の幕末維新」を学芸員の研究者さまと共に見学しました。

 当初、さすがに撮影禁止だろうと思ったので解像度の高い一眼レフカメラはコインロッカーにしまってしまったのですが、なんと撮影OKだったのですね。唯一、徳川斉昭の陣羽織だけは撮影禁止なのですがそれ以外の展示品の多くが撮影可でした。一度は一眼レフを取りに戻ろうかとも思いましたが、ポケットの中に入れっぱなしにしていたコンパクトカメラがあったので、これでどうしても撮影しておきたかった2点の展示物だけ撮影してきました。

 

↑「戊午の密勅写し」

 

 一つ目はこの「戊午の密勅写し(重要文化財指定)」です。写しの本物。本物の本物は幕府が水戸藩から取り上げようとし、尊攘激派がこれに反発、水戸藩は朝廷へ返納するという方向で動きました。いわずとしれた「安政の大獄」の起爆剤であり、幕末史に与えた影響は極大に大きいものでした。

 

↑「大政奉還上書写(重要文化財)」

 

 二つ目は徳川慶喜が行った大政奉還の上書写です。こちらの本物の本物は朝廷に差し出してますので~、写しのみとなります。これもまた幕末史だけに留まらず、日本史上でも大きな出来事だった武家政治(幕府制)を終焉させた上書であり、それを平和裏に行った日本史上でも珍しい政権交代となったわけでして。鎌倉幕府にしても織田信長や豊臣秀吉にしても政権交代時には大きな戦争で血みどろでしたからなぁ。まー、室町幕府は?という声も聞こえてきそうですが、室町(足利)幕府もまた滅びるまでに応仁の乱から始まる戦国時代のなかで力を失って京都を追放されて……最後に織田信長包囲網とかやって藻掻いて……ということを考えるとそれなりに血は流れてますんで。それに比べて大政奉還は、この上書一つで政権を朝廷に帰したという点で画期的でした。もっとも、その後に戊辰戦争が起こって血は流れたじゃないかというとそのとおりですが、それらはもう政権を返してしまったあとの話しなのです。なので、政権を返した時点では「政権交代が平和裏に行われた」という事実に変わりはありません。

 

 ということで、一橋徳川家に伝えられてきた展示品を見学して堪能して参りました。また、何気に茨城県立歴史館は初めてでしたので、図録類は史料叢書類を数万円使って大人買いしたっすわ。水戸諸生党の手記などここでしか手に入りませんしねぇ。あと『弘道館史料1~4』もまとめてゲットです。

 

 ということで予定はすべて終わりましたが、少しだけ時間があるということで、水戸諸生党のお墓がある「祇園寺」へ。

 

↑祇園寺開山堂

 

↑諸生党慰霊碑

↑諸生党慰霊碑由来

 

 上記は戊辰戦争時に天狗党と戦った諸生党の慰霊碑です。同寺には諸生党の指導者だった市川三左衛門や最後まで戦って戦死した朝比奈弥太郎のお墓などもありましたので、それぞれお参りさせて頂きました。今回は必要がないので写真を掲載しませんけども。

 そして、最後の最後に桜田門外の変で井伊直弼を討ち取った十八烈士の一人、増子金八(大畠誠三郎)のお墓をお参りです。この人物は逃走と潜伏を繰り返して幕末期を何とか逃げ切り、明治まで生き延びた数少ない十八烈士とのこと。お墓の撮影をさせて頂きましたが、これも必要がなので写真掲載は致しませんが、墓碑側面には詳しく事績が掘られていました。

 

 以上、非常に内容の濃い一日で御座いました。あさくら先生もお疲れ様でした~。ということで、あさくら先生の次回同人誌「研究企画叢書」の話しもあり、私も記事一本を書くことが決まりましたので、また夏のコミケに向けても頑張りたいと思っております。乞うご期待ください。なお、次回「研究企画叢書」にはスペシャルゲストが参戦とのことでした。なので、内容が超ハイレベルになるはずなので、私もレベルをあげないとと覚悟を決めているところです(苦笑)。