坂東の平安時代源氏館跡巡り(鴻巣史跡巡り) | 幕末ヤ撃団

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勝者に都合の良い歴史を作ることは許さないが、敗者に都合良い歴史を作ることも許しません!。
勝者だろうが敗者だろうが”歴史を作ったら、単なる捏造”。
それを正していくのが歴史学の使命ですから。

 当ブログで連載中の「武士道論」ですが、ようやく平安時代に入り武士が登場してきたところです。

 いよいよ坂東八平氏と平将門という坂東中世史に欠かせない武士たちを扱っていくことになるわけですが、そのまえに坂東にやってきて平氏の後ろ盾になった勢力たる嵯峨源氏(坂東の箕田を拠点にしたので、箕田源氏とも言われます)について書かなきゃいけない。そういえば、箕田ってどこだ?。と調べてみたところ……なんと湘南新宿ライン一本乗れば、一時間程度で行ける場所にあった。行けるのに行かないのは精神衛生上良くないので、ちょっと行って写真撮影してこようと思ったわけですな。まー、まさか今日に限ってこの地域が「関東のなかで、今年一番の暑さを叩き出す」なんて思ってませんでしたから(汗)。いやぁ、暑さでへろへろになりましたわい。

 

 それはさておき、さっそく史跡紹介と参りましょう。

 

上記は、嵯峨源氏の源仕(みなもとのつこう)が武蔵守になり国司として関東に下ってきてから勧請したという氷川八幡社。源仕は、ここ箕田の地に土着し、関東における嵯峨源氏の勢力拡大の基盤を作った軍事貴族です。仕の子が宛(あつる)で、宛の子が源綱のちに羅生門の鬼退治で有名な摂津源氏の源頼光四天王の一人渡辺綱です。父である宛が若く21歳で死去してしまい、さらに母もすぐに死んでしまったため、綱は多田満仲と関係の深い源敦の養子となり、母方の実家である摂津渡辺で育ったという。そこから渡辺綱と名乗っているとのこと。

 まー、あの妖怪退治のヒーロー渡辺綱の生誕地ということです。

↑氷川八幡社にある案内版

↑境内にある「箕田碑」

 

 氷川八幡社の境内には、記念碑として「箕田碑」が置かれています。

↑箕田碑の案内版

 

 そして、この氷川八幡社の後ろにある「宝持寺」には、渡辺綱の位牌があるのだそうです。

↑宝持寺。創建には嵯峨源氏が絡んでいる。

 

さて、箕田源氏の館跡が氷川八幡社になったわけではなさそうで、江戸時代には館跡だという伝承のある場所に「山の神碑」が立てられたのだそうです。それがココ。

 すごく小さな碑です。このあたりはすでに開発されてしまい遺構はないようです。

↑箕田源氏館跡推定地の全景

 

 ただし、箕田館跡は伝承であり確定はできていません。ただ、このあたりには古墳群があり、古代からこの地域が近隣の中心的な土地であったことが窺われます。

 

 嵯峨源氏の坂東土着地の見学し終わったあとで、少々欲が出まして近くにある「石田堤」を見に行くことにしました。が、この時点で暑さにやられておりまして、まだ北鴻巣駅から徒歩15分の史跡を1箇所しか見てないのにへろへろ気味です。駅まで戻ってみたところ、タクシーが止まっていたのでお金は掛かりますが乗ることにしました。なにせ、石田堤までは駅から2.5キロ。往復で5キロです。炎天下のなかで歩いたら体力をかなり削られる。片道だけでも体力を温存したかったのですね。

 

 で、付いた場所が「石田堤史跡公園」です。そこに豊臣秀吉による小田原攻めの際、石田三成が忍城を水攻めにようとして作った堤(土手)の遺構がありました。

↑石田堤跡

↑石田堤の傾斜部(想像復元)です。

↑石田堤上部

↑石田堤案内版

 

 公園内の遺構は整備されており、かなり見応えがあります。また、公園の外にも遺構は続いており、けっこう長かったですな~。

↑公園外に延びる堤遺構

 

公園の北側には忍川が流れております。この石田三成による忍城水攻めは、結局堤が決壊したりして大失敗になるわけですが、その堤の決壊場所の一つだそうです。

↑忍川と堀切橋。ここが決壊したという。

↑堀切橋の案内版

 

 石田堤を見終わり、今度は徒歩で北鴻巣駅まで戻ります。30分ぐらい歩いたかな。ここでそーとー体力削られました(泣)。電車に一駅乗って鴻巣駅で降ります。今度は清和源氏初代の源経基館跡を見に行きます。

 

 

 上記写真が、伝源経基館跡です。先ほどの嵯峨源氏とは違う清和源氏で、源姓をもらって臣籍降下したばかりの経基が武蔵介として武蔵国に赴任した際の館とされておりますが、疑問も多く裏付けもないため伝承の域をでません。なお、この清和源氏が後の源頼朝や源義経が生まれてくる系統です。ともかく、遺構の保存状態は非常に良く。規模的には確かに中世武家館跡っぽいのですが……。

↑館の三方は土塁に囲まれており、その外側には空堀の遺構があります。

↑源経基館跡の案内版

↑土塁跡

↑土塁跡

↑土塁跡

↑土塁跡上部

↑源経基公館跡の碑

↑館跡中心部の平地

↑碑のある土塁上から、館跡全景を見渡す。

 

 という感じで、遺構の保存状態は良いのですが、なんとなく平安時代の防御遺構というより室町&戦国時代の防御構築物っぽいのよねぇ。でも、室町戦国期だとすると規模があまりにも小さすぎる。砦と考えてもまだ小さ過ぎなので、中世武家館だという説も捨て難い。うーむ……。

 何にせよ。館跡とも確定できていないので、なんとも言えないところでございます。

 

 この源経基は、武蔵介となって武蔵国に下ってきたわけですが、共に下ってきた武蔵権介興世王と組んで早速”収奪”を始めた。当時、国司などの在庁官人が朝廷役人をかさに着た不法な収奪で私腹を肥やすのが通例で、たぶん経基もそれをやろうとしたのだろうと思う。しかし、地元郡司武蔵武芝が反発し争いを起こしてしまいます。当然、経基は軍勢を差し向ける。ここで武芝側が平将門に仲裁を依頼し、将門が乗り込んでくると……。興世王の方は将門の仲裁を受け入れたものの、経基は仲裁に応じずじまい。そこで武芝は軍勢で、経基の営所(館)を取り囲んだといいます。この武芝の行動は将門の差し金だと思い、びびった経基は営所を脱出して京都へ帰って朝廷に「将門謀反」と報告します。ところが、一応将門は藤原家の家臣として活動していたことがあったため、藤原氏が「キチンと調べる」と言って待ったをかけます。結果、将門は仲裁をしたのであって謀反などしていないことが判明。今度は経基が罪に問われてしまう。しかし、その後で今度は女関係の問題が合戦に発展してしまった将門が、勢いとノリで国府を焼き払うという暴挙を犯し、将門が本当に謀反したということに……。経基は罪を許されて復帰するという展開となります。ここから、天慶の乱と言われる将門の乱がはじまるという感じ。なんだか本人が解らないうちに名誉回復してしまった経基は、このあと瀬戸内海で反乱を起こした藤原純友の乱に活躍し、武家貴族として地位名声を得て清和源氏が武家棟梁となる礎を築きます。

 

 ということで、これからブログで書こうと思っている坂東での武士の活動に欠かせない史跡を見て回ってきたわけですな~。さて、彼ら中世の武士の祖となった人々の活動は、このあとじっくりと武士道論の方で解説していこうと思っておりますので、しばしお待ち下さいませ。