相馬郡衙跡と我孫子史跡巡り | 幕末ヤ撃団

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勝者だろうが敗者だろうが”歴史を作ったら、単なる捏造”。
それを正していくのが歴史学の使命ですから。

 今日は、下総は我孫子の史跡を巡ってきました。お目当ては「相馬郡衙跡」です。

 上記写真が「相馬郡衙跡」です。現在は「湖北特別支援学校」になっていますが、それ以前には高校だったようです。その高校を建てる前に発掘調査が行われ、平安時代の遺跡多数が発掘されたことで、ココが相馬郡衙跡の可能性が非常に高まったということです。

 

 上記は、案内版の写真。

 学校敷地内の発掘状態だそうです。

 郡衙復元図です。

 相馬郡衙跡の全景。

 

 郡衙とは、平安時代の役所です。現在で言う市役所に当たります。ちなみに県庁に相当するのが国府(国衙)となります。国府は国司が管理し、その下に郡衙を管理する郡司がいます。彼らは在庁官人と言われる役人でした。しかし、武士の誕生という観点から見た場合、国司は朝廷の公家や軍事貴族が務め、その下にいる郡司は各地方の有力豪族、つまり武士が務めているパターンが多い。そして、郡司は租庸調といった朝廷の税金を集め、朝廷などに収める担当者でもありました。

 

 さて、上記の「相馬郡衙」に着目しているのには理由があり、この相馬郡にあった荘園を伊勢神宮に寄進して相馬御厨を成立させたのは、このとき下総権介だった大椎常重でした。そして常重の子が千葉常胤です。つまり、相馬郡こそ常重のいう「相伝の私地」であり、千葉氏の荘園なのです。こうして伊勢神宮に寄進された荘園は相馬御厨になり、伊勢神宮が領主になるわけですが、伊勢神宮が直接支配するわけじゃありません。常重が伊勢神宮のかわりに統括するわけです。それを条件に寄進したわけですね。荘園といえども、朝廷に税金を払わねばならなかったし、場合によっては朝廷の役人がやってきてしまう場合もある。朝廷の介入を排除しようとする時、こうした寄進という方法が取られました。大寺院や大神社、権勢を誇る上級公家に寄進された荘園には「不輸不入の権」があります。朝廷に税金を納めず、朝廷の役人の立入をも拒めました。そのかわり、領主となった社寺や公家に、一定量の年貢を納めるわけです。つまり、一定の年貢を納めて寺院や公家の名を貸して貰い、朝廷からの介入を防ぐことで自身の荘園支配を完全なものにする。寄進型荘園とよばれるタイプです。

 大椎常重は、この寄進型荘園を相馬の地で行ったわけです。ところが、下総国司から公田官物未払いを理由に国司に支配権を取り上げられてしまいます。当時の国司は、難癖を付けて荘園を取り上げたり、税金を横取りするのが常だったのです。さらに、今度は源義朝(頼朝の父)が常重から「相馬郡の譲状」を責め取り、その支配権を奪ってしまいます。

 こうした状況の中で、千葉常胤は国司に未払いの税金を支払い、また義朝の侵略的行為に対しても政治的に対抗、先に相馬郡の領主となっていた神官荒木田延明の奔走もあり、源義朝は改めて伊勢神宮に相馬郡を寄進します。つまり、相馬郡が義朝と常重の二重支配状態になり、しかも後発の義朝の方の寄進も認められた時点で、支配圏を子孫へ相続できる権利は義朝側になってしまいます。父の支配圏を奪われまいと、千葉常胤は朝廷に働きかけ、相馬郡司に就任。在庁官人として相馬郡を仕切れる権限を手に入れました。その上で、改めて再び相馬郡を伊勢神宮に寄進しました。義朝との寄進合戦になった相馬郡ですが、当の伊勢神宮にしてみれば”入札値の高い方を取るだけ”なので、常胤も義朝も不満バリバリだったと思います。平安時代の支配の正当性なんてそんな”あやふや”なもので、元々の支配者は俺だとか先祖伝来の土地だといった武士としての正当性は、寄進される公家、社寺の側は考えていません。利の良い方を取る。これが貴人たちの利益のあげ方だったのです。後に源頼朝が挙兵した時、坂東武者たちはこぞって源氏に味方し、官軍たる平家に戦いを挑んだもの、こうしたあやふやで不安定な体制をなんとかしたかったからだと思います。実際、鎌倉幕府はこうした朝廷と大社寺、公家のご都合主義的支配の在り方を否定し、武家政権として支配の在り方を一元化して武士の支持を得ていくのですが、さもありなんと思うばかりです。っていうか、そもそも朝廷や天皇から政治を奪い取っていく武家政権の存在意義がそこにあるとしか言いようがない。鎌倉幕府以後、室町幕府、徳川幕府と武家政権が日本の歴史に登場し、長きに渡る武士政権によって日本の歴史が作られてきた遠因と言えましょう。

 結局、千葉常胤は源義朝の家臣になることでよしみを結び、相馬郡の支配権をある程度取り返すという形になります。以後、千葉氏は源氏の有力家臣になりました。この後、源義朝は平治の乱を起こし、千葉常胤も義朝方として参戦、敗北してしまいます。源氏は朝敵となり、義朝所領の没収が始まります。相馬御厨も又その対象となって没収されました。常胤は「義朝の所領では無い」と叫びましたが聞いて貰えず、最終的に佐竹昌義の子、源義宗が相馬御厨の支配権を主張し始めます。佐竹は常陸権介の役にあり、平家と深い関係を結んでいます。平治の乱で勝利を得た平清盛の権勢は凄まじく、「平家にあらずんば人にあらず」とまで言われた平家方の権勢の元で、佐竹は勢力を関東へ伸ばしていたのです。この源義宗が相馬御厨を伊勢神宮へ寄進します。伊勢神宮は「年貢を沢山くれる方の味方」ですから、最後に寄進した義宗が”あと出しジャンケン”よろしく相馬御厨の支配権を得てしまいます。そして、今度ばかりは背後に平家がいる以上、どうしようもありません。ここで千葉氏は相伝の地とされる相馬郡の支配権を完全に失うことになりました。

 

 後に、伊豆で源頼朝が”打倒平家”の籏をあげたとき、千葉常胤は一も二も無く飛び付いています。そして、源氏によって平家が滅び去ったとき、千葉氏は再び下総の支配権を”下総守護”の名の下に確立していくことになります。

 

 つまり、この「相馬郡衙」は平安時代の武士同士の争いを克明に語っている史跡でもあるのです。余談ですが、この相馬郡は千葉氏の子孫にあたる相馬家が出てきた土地であり、相馬家はのちに東北に移って陸奥相馬氏になります。有名な「相馬野馬追」も、この相馬郡が発祥の地です。

 

 以上、見てきたように千葉氏の歴史上で、相馬郡は重要な意味をもっております。千葉常胤も相馬郡司になっていますから、郡衙と無関係じゃ有りません。一度は見ておきたいと思っていたのです。

 とはいえ、遺構は学校の下に埋まっておりますから地上にあるのは案内版だけなのですけども。

 

 さて、これだけでは食い足りないので、我孫子にある史跡をちょこちょこ巡ってみました。

 

近くに「将門神社」があります。

さらに、「将門の井戸」もありました。

 神社の由来によると「神社の由来は、天慶三年(940)将門が戦没するや、その霊は遺臣等と対岸手賀沼村明神下より手賀沼を騎馬にて乗り切り、湖畔の岡陵に登り朝日の昇天するを拝したということから、村人がその地に一字を奉祀したのが将門神社の起こりであるという」ということだそうです。

 伝承なので、何とも言えないところですが相馬氏が将門の子孫だという伝承との関わりもあろうかと思います。余談ですが、相馬氏は明らかに千葉氏とのつながりが強く、逆に平将門とのつながりは史料的には証明されていないようです。

 

 あと、我孫子市湖北に残る鎌倉街道の跡っぽい「かまくら道」なる史跡もありました。

 距離は短いですが、古道の雰囲気をよく伝えている道だと思います。

 逆サイドから見た「かまくら道」です。

 

 ここから、成田線湖北駅に戻り、我孫子駅を経由して常磐線北柏駅で下車します。

   

 上記写真は、中世初期の相馬一族・根戸氏の居館跡と推定されている場所です。現在は公園になっており、まわりはすべて宅地として開発されておりますので、遺構というものは何もありませんでした。

 そして、この居館跡からほど近い場所に根戸城跡がありますので、行ってみることに。

 根戸城址を見上げます。尾根の先端に作られたコンパクトな城という感じです。

 上記が案内版です。図をみると小さな城のなかに城の遺構が凝縮されているような感じで、非常に見応えがありそうな感じです。情報でも保存状態が良いということで大期待できる城址と言えましょう。が……。

 城への入り口が……何重もの蜘蛛の巣が張られ、かつヤブ蚊が制空権を取っています(汗)。無理ッス……。真冬に出直すことにしまス。

 

ということで、今日の史跡巡りは相馬郡衙と相馬氏関連の史跡を巡ってきました。相馬郡衙は、単に学校があるだけですので見応えはさほどありませんが、根戸城はなかなか良いと確信を得られたのが収穫かなと~。