日野の日奉氏史跡巡り | 幕末ヤ撃団

幕末ヤ撃団

勝者に都合の良い歴史を作ることは許さないが、敗者に都合良い歴史を作ることも許しません!。
勝者だろうが敗者だろうが”歴史を作ったら、単なる捏造”。
それを正していくのが歴史学の使命ですから。

 夏のコミケットが本日最終日を迎えました。そして、我がサークル「幕末ヤ撃団」は、昨日サークル参加でブースを出しておりました。来て頂いた方々、ありがとうございます。

 我がサークルの新刊は「永倉新八」ということで、剣士が志士となって歴史を動かしていくひとつのエネルギーとしての永倉新八。そして、永倉新八をテーマにしつつ、同時に志士と呼ばれた人々の武士精神と運命共同体としての諸隊というものを論じさせて頂きました。如何だったでしょうか。そして、次回は「伊東甲子太郎」を主軸に置いて、攘夷派志士が倒幕派志士になっていく課程と思想、そしてその場合の武士道精神との整合性といったものを論じたいと思っています。乞うご期待ください。

 とはいえ、伊東甲子太郎の一派は新選組から離脱し、敵対勢力たる倒幕派になっていくということで、調べたり考えたりするのが少々手こずるかと思われます。なので、今年の夏から来年の夏コミケ(オリンピックの関係で、春コミケになるはずですが)までの時間を頂きたいと思います。なので、今年の冬コミケに受かっていた場合は、一回新選組から離れて、譜代大名の戊辰戦争「武州金沢藩」を新刊として出したいと思っております。まぁ、そんな感じの予定で考えております。

 

 ということで、今日がコミケの最終日で、最も激烈な戦いが行われていたはずですが、何気に私の行きたいサークルが3つしかなく、このサークルさんは、同人誌専門店でも新刊を卸してくれているので、ムリしてコミケに行かずともいいだろうということで、コミケに行かなかったです(苦笑)。家でまったりと疲れを取りたいと思っていたのですが、なんか台風の影響で夏期休暇後半の天候が読めない。長期連休の間に、一日ぐらいは史跡巡りしたいと思ってましたので、行くなら天気の良い今日か明日だなと。だったら、今日行っちゃおうということで日野に行きました。

 まぁ、コミケ疲れもあって、あまり遠出はしたくないし、日野だったら30分ぐらいで行けちゃうしということで。

 

 午後から日野駅に向かい下車。日野駅から市役所などがある方へ行くと新選組関連史跡のメッカなわけですが、今日は逆方向へ歩き出します。ターゲットは「日奉氏」なんですね。

 

 日奉氏というのは、日本における太陽(日)信仰を担う役目を持った一族です。『日本書紀』の敏達天皇の時代(飛鳥時代)に「詔により日祀部と私部を置いた」とあり、朝廷が日を祀る役所を設け、そのに人員を配置しています。この日奉連を祖とする日奉宗頼が武蔵守になり、武蔵国府に下向します。任期が終わっても京都に帰らず、武蔵国府の西側の地域に勢力を張って土着。この日奉氏から分家が発生していきました。国府の西側に勢力を張ったので「西党」と呼ばれ、後に武蔵七党と言われた武蔵武士団中最大勢力を誇る武士団へと成長しました。この日奉氏の本拠地が日野なんですね。「日野」という地名も「日」を奉ることからついた名です。いわば、日野の氏神さんとして、現在も「日野宮神社」の祭神になっております。

 

 ということで、まず日野駅から一番近い「姫宮公園」に行ってみました。

この公園の中に、小さな祠があります。これが日奉氏に関係する「姫宮権現」です。

昔は大きな社もあったらしいです。下に説明版を載せます。

 ということで、日奉宗頼の妻を奉っているとの伝承があるのだそうです。史料的に確認されているわけではないので確証はないのですが、時代がもう古代ですからね。紙もなく木簡の時代で、史料が全然ありません。通説として伝承を信じる他無いのです。そこが史料がいっぱいある近代史と違うところ。

 ただし、このあたりの発掘調査で、いろいろなものが発掘されており、古代から中世にかけて、このあたりに発展した集落があったことは間違いないということでした。

 

 次に行った場所が「日奉宗頼」を祀っている「日野宮神社」です。

 この神社の周辺からも、いろいろな物が出土しており、やはり古代から中世にかけて大きな集落があったことが立証されております。そうしたことから、このあたりに「日奉氏館があっただろう」と推定されている場所です。ただし、推定地はもう一カ所有り、個人的にはそっちの方が有力かなと思っていますけども。

 

 次に行った場所が「東光寺薬師堂」です。下記に説明版を掲載します。

 日奉氏館の鬼門の方角に東光寺が建てられたとされており、それがこの地の地名「東光寺村」として残っているということです。東光寺そのものは廃寺になってしまいました。薬師堂は、戦国期に再建されたらしいです。

 

 そして、次に目指す場所が私個人的には本命じゃないかと思っている「日奉氏館跡」の場所。

ここが、日奉氏館跡推定地とされている「東光寺西公園」です。

上記の説明版にもある通り、多摩川が削った台地の上にあります。

台地上から日野市中心部を眺めます。台地の高低差がお解り頂けるだろうか。中世の武家館のある場所のパターンとして、台地の上というのがありますので、なんの変化も無い平地にある日野宮神社よりは、こちらの方が武家館を作るなら可能性が高いかなと個人的に思っているのですが、なにせ史料がないので想像するほか手がありません。

この台地の突出部に「明神社」がありました。

上記写真が「明神社」です。由緒など書かれたものがないので、成立などよくわからないです。

 

この台地周辺の地形を把握しようとうろうろしていたところ、カブトムシの死骸を発見!。

東京日野市はカブトムシが生息しているのだなぁ!。スーパーで買うカブトムシより、やはり自分で野生カブトムシを捕まえる方がいいのです。ということで、日野市の子供たちは、カブトムシ取りができるんじゃないかなと思いますぞ。この台地の林に「西瓜」を一晩置いて、翌日早朝か夜に見に行けば、運が良ければカブトムシがいるはず。

 

そして、最後に日奉氏の史跡ではありませんが「東光寺大橋の碑」がありますので、見学します。

いまはもう、橋はありません。ただ、ここに橋があったことを示す石碑があるだけです。

上記が説明版です。

 

こんな感じで、さすがに平安時代以前の古代、飛鳥時代や奈良時代の話しですから、遺構というものはありません。あったとしても地中に埋まっていますので、見ることはできないというやつで。ただ、発掘調査記録がありますので、それを手がかりにしての史跡巡りでした。

以上、日奉氏関連の史跡を一通りみて、プチ史跡巡りを終了して帰った次第です。

幕末の新選組で有名な日野ですが、中世以前に目を向ければ、近くに武蔵国衙があり国分寺もある。その西側に日野がある。つまり、武蔵国の中心部がここらへん一帯なんですね。巡ってみるといろいろな痕跡だけはありますので、ちょっと史跡巡りする分にはよろしいかと思われデス。