今日は朝から暇だったので、このまま寝正月というのもつまらんなぁと思い、前々から行ってみたかった史跡を巡りに行って来ました。まずは、「六浦陣屋」です。
六浦陣屋は、江戸時代は(武州)金沢藩米倉家の陣屋でした。加賀の金沢藩と混同されてしまうため、明治頃に六浦藩に藩名を変更しています。ここでは”六浦藩”で統一して記述しますね。
京急金沢八景駅を下車し、その裏山的なところに六浦藩の藩庁たる六浦陣屋はありました。幕末期の藩主は米倉昌言で、譜代一万二千石の小藩ながら、藩主が幕府大番頭の役だったので第一次、第二次長州征伐に参加しております。参加といっても藩兵を率いてというイメージではなく、大番頭として本営に詰めてたんじゃないかなと思う。
現在の陣屋跡には民家が建ち並び、住宅地化が進んでしまって遺構というものはほとんどありません。ただ、この陣屋跡には現在もご子孫の米倉さんが住んでいるそうで、その家へと続く石段が唯一の遺構となっています(上記写真)。
ノミの跡でもないかなと見てみましたが、もうすり減ってて何も無かったですねぇ。残念。
上記写真のあたりに、六浦陣屋の「やしき」があったと思われる場所で、道の奥側に長屋があったらしい。
残念ながら、江戸時代の面影は何も残っていない感じでした。
陣屋の奥側にある「笠森稲荷神社」。六浦藩士達もお参りしたであろう稲荷社にお参りします。正月ですしね。
っていうか、私……今年は稲荷神社ばっかり行ってますわ(苦笑)。元旦は「試衛館稲荷神社」で、二日は新宿にある「皆中稲荷神社」。この神社は、今住んでるところから近く、江戸時代は「鉄砲組百人隊」の氏神さま。毎年お参りしているのです。そして、今日はこの「笠森稲荷神社」(苦笑)。
上記写真は、六浦陣屋の全景です。六浦陣屋は、金沢八景にあることからも解る通り、江戸湾に入ってくる船の監視などを行っていました。地形的には面白い所にありまして、三方向を山に囲まれた”谷戸”形状の中にあります。ネットの情報の中には、三方を山に囲まれた天然の要害と紹介されている場合もあります。意味は解りますけども腑に落ちない。兵法の原則は”高地に陣取る”ことなのですから、高地ではなく低地に陣屋を構えるというのはどんなもんよ?と、思う訳です。お城ファンならご理解頂けるかと思うのだが。
でもまぁ、時代は天下太平の江戸時代であり、陣屋の主たる任務は海の監視なのですから、陣屋の防禦は度外視していたのかもしれませんなぁ。
以上、六浦陣屋の史跡は非常に少ない。あっという間に見終わってしまった(苦笑)。なので、このまま横浜方面に向かい、外国人居留地を見て回ることにします。
横浜ベイスターズで有名な関内駅を降り、まずは「横浜町会所跡」を見ます。ぶっちゃけ「開港記念会館」のところにある碑ですw。
開港記念会館は、お正月なのでお休みです。まぁ、解ってて来たんですけども(苦笑)。
他にも色々な、資料館や博物館があるんですが、お正月ですからね。当然全部お休みです。そんなわけで、今日は逆に割り切って”史跡だけ見てやる”という思いで横浜に来ました。それに、館内は大抵”撮影禁止”ですしね。
開港記念会館の外観です。そして「横浜町会所跡」ということになります。明治七年に2階建ての建物として作られ、横浜市政が始まるまでの間、行政機関の中心地でした。その後、一度消失し、大正時代に再建されたようです。
このあと、「神奈川運上所跡」に行きました。日米修好通商条約によって日本は貿易を本格的に行うことになったわけですが、そのための関税と外交事務を行う場所として設置されました。のちに「横浜税関」に業務を引き継いでいます。
なんか碑石ばっかりが続いています(苦笑)。気を取り直して、ココが「英一番館跡」になります。英国の「ジャーディン・マジソン商会」があったところですね。長州ファイブで有名な、伊藤博文や井上馨がジャーディン・マジソン商会を仲介役に英国に留学しています。また、坂本龍馬と深い関係がある「グラバー商会」は、ジャーディン・マジソン商会の長崎支店でもありました。そんな訳で、日本には”良いイメージ”なんですが、これが中国に行くと「アヘンを中国に売り、絹を英国本国へ」という貿易を行っており、当然アヘン戦争にも関わっている大企業です。機動戦士ガンダム世界における「アナハイム社」ですよ。怖い怖い……。
はい。そしてここが「日米修好通商条約締結の地」です。
現在は広場になっているこの場所に碑はたっているのですが、応接所は現在の「神奈川県庁」のある場所なんだそうです。
上記写真が、「神奈川県庁」です。この場所で、米国公使タウンゼント・ハリスを応接し、日米修好通商条約を結んだのでしょう。不平等条約で有名な条約なんですが、この条約には「アヘン禁止」の条項が盛り込まれていました。英国やフランスも米国に準じてこの条約を日本と締結しましたので、必然的に「アヘン貿易は禁止」となり、日本は中国のようは「アヘン地獄」には陥らなかったんですね。先に紹介したジャーディン・マジソン商会あたりは、アヘンを売りたかっただろうけど、それは条約で禁止されているという訳です。
あと、この広場には「発掘された大砲」も展示されていました。
上記写真が、発掘された「旧居留地90番地の大砲」です。戊辰戦争中、武器の売買を行っていたスイスの商社「シーベル・ブレンワルド商会」の跡地から、昭和34年に基礎工事中に発見された鋳鉄製の11ポンドカノン砲。オランダ東印度会社のエンクハイゼン商館所属船の備砲だそうです。使わなくなった大砲を錨に作りかえ、横浜を往来する船舶に売ろうと持っていたものが、関東大震災の際に埋まってしまったのだろうと言われています。
外国人貿易商人たちが往来した港を見ようと、海の方に行ってみました。
横浜港を波から守る防波堤「象の鼻」です。遺構もあるということでした。
上記写真は、たぶん幕府が作った「象の鼻防波堤」に使用されていたであろう石積みです。ノミの跡があるのでこれじゃないかなと。
あと、実際に今もそのままにしてある遺構もあるというので探したのですが見つからず、ふと海を覗いてみたら……
あー、えーっと……干潮の時に見ないとダメっぽい?(汗)。まー、こんな感じで使用されていたということで(苦笑)。
象の鼻防波堤から、横濱外国人居留地を見ます。上記写真の左側が居留地になります。そして、この場所こそ日本の国内経済を崩壊させた国際経済の震源地です。国内経済しか経験がない日本が、いきない国際経済に取り込まれたのですから、そりゃ大インフレや大不況にもなりましょう。
次は「旧英国七番館」です。
イギリスの貿易商社の支店として作られたそうです。関東大震災で全焼したものの、外観だけは残ったので再建したそうです。現在は「戸田平和記念館」になっており、創価学会が管理しています。関東大震災前に立てられた外国商館の中で、唯一現存しているものだそうです。
そして次は、「旧横濱居留地48番館」です。
明治十六年に建築されたものだそうで、大正15年から昭和元年までイギリス人貿易商人だったJ.P.モリソンが、日本茶やダイナマイト、外国商品の貿易を行っていたそうです。煉瓦の積み方に特徴がある珍しい洋館だったとのこと。フランス積みという煉瓦の積み方だったらしいです。さすがに建築技法には詳しくないんでw。説明看板の請け売りですけども(苦笑)。
そんなわけで、外観は大正から昭和まで使われていたことから、補強されて現在に至っていると思います。ガラス越しに内部を見る事ができるようになっており、内部には特徴的な煉瓦積みを見る事が出来ます。展示されているのは「小屋組トラス」で、関東大震災後に作られたものだそうです。
そして、これが創建当時から使い続けられた「キーストーン」。この建物の中で、一番古いものでしょうねぇ。
以上、半日程度でしたが、六浦陣屋と横濱外国人居留地の史跡を見学してきました。さすがに横濱は見所が多いです。他にも「鉄道の遺構」や「マンホールの遺構」などが現存しており、ガラス越しに見えるようになっていました。ガラスが汚すぎて、写真で撮影しましたがどうも上手くいかない(苦笑)。そんなわけで、この場での紹介は致しませんが、是非みなさんも行った時には自分の目で見てください。
資料館や博物館には一切入らなかったので、半日程度の見学で終わっちゃいましたが、入れる日だったら丸一日楽しめるかと思います。