私本野鳥歳時記のためのモノローグ
1994年4月
歳時記は俳人の季節観・自然観が投影されたものだから、逆に歳時記から、俳人の季節観・自然観を推し測ることもできるわけである。
さて、その歳時記には実に多種多様な動物名が季語として収録されているが、今もなお、その扱い方には適切さを欠くもの、つまりその季節区分には納得できないものが多い。例えば、熊は冬季に入れられているが、なぜ冬季なのか理解に苦しむのである。ひょっとして、熊は冬眠するのではなかったか。そしてその不適切な納得のできない季語は、なぜか鳥類に集中しているようである。
歳時記以外の俳句関係の著書にも、まちがった記述が目立つ。「俳句用語用例小事典⑦動物の俳句を詠むために」(大野雑草子編 博友社1990)の「かわがらす」の項を見ると、ミソサザエ科の鳥と書いてある。かわがらすはカワガラス科である。知らない人が見ると鵜のみにしてしまうだろう。また、「秀句三五〇選2 鳥」(伊藤通明編 蝸牛社 1989)には、驚いたことに蝙蝠の句が四句も入っている。ここではあの鳥獣戦争が未だ尾を曳いていて、今しも幅幅は鳥の陣営に馳せ参じたというわけか。しかし総勢三五〇の軍勢に一パーセントの加勢では何とも心もとない。この本は鳥の俳句を四季に分類して鑑賞文を付けてあるが、春の部に
初声の雀の中の四十雀 青柳志解樹
の句があって、四十雀は秋と注がある。そして夏の部には
四十雀つれ渡りつつ鳴きにけり 原 石鼎
があって、四十雀は夏になっている。しかしこの句は、たとえ季語がなくても一読して秋の句だと判るのである。四十雀がこういう群れ行動を見せるのは、秋から冬にかけてだからである。夏の部に入れる句ではない。さらにその囀りには目白の句が並んでいて、目白は夏。ところが巻末の関連用語のところを見ると、四十雀も目白も秋に入っている。一書の中で同じ種の鳥が季語をめぐって、どうしてこうもさまようのか、不可解である。哺乳類に比べて、鳥類はもっと身近かな動物であると思っている私には、これはとまどい以外の何物でもない。
これら(動物名)の季語は、それ自体は詩でもなければ詩語でもない。素材として在るのだが、もちろん素材である前に命ある生物のれっきとした種名であり、自然の生熊系の中にきっちり組み込まれて生きているのだから、やはり科学的に処遇されなければならぬだろう。
歳時記に収録された野の鳥たちからは、歎きの声が聞こえてきそうである。その野の鳥たちに季語としての正しい地位を与えてやるために、自然科学の立場から考察を試みたいとかねてから思っていたのである。ただ、俳壇がどこまでそれを容認するか、野の鳥たちに報いてやりたい私の気持がどこまで通じるかは、全くもって不明である。
今だから白状するが、私は人の名前と顔は覚えられない方の天才で(鹿の顔ならすぐ見分けがつくのに)、仕方がないから鳥の名前でも覚えてみようかとこの道に入ったのだが、この世界もなかなかどうして一すじなわではいかぬ。ハグロシロハラミズナギドリとか、ハシグロクロハラアジサシなどという厄介者がぞろぞろいて、未だに困惑の域を脱出できないでいる。それでも、俳人なら「ああ」と感動すると、ぱっと俯いて句帖を開くところを、「ああ」というと、ぱっと空を見上げてしまう習性がすっかり身についてしまっているので、歳時記に登場する鳥たちについてなら、何とか言及できるのではないかと思うのである。
実のところ、これから私がやろうとしていることは二番煎じである。
「野鳥歳時記」これを半世紀も前に世に問うた人がいる。山谷春潮がその人である。
春潮は水原秋桜子門の俳人で、日本野鳥の会の創始者中西悟堂にも師事していた。悟堂は周知の通り、野鳥の研究家であったが、いっぼう僧籍をもつ歌人でもあった。文人たちとの交遊もひろく北原白秋、窪田空穂、柳田国男、金田一京助、春彦、若山喜志子、杉村楚人冠等を、富士山麓の須走へ誘っては探鳥会を行なっていた。「野鳥」や「探鳥」は悟堂の造語である。秋桜子も悟堂の探鳥会に参加するようになって、野鳥に対して関心を強め野鳥俳句を実作・発表するようになるが、野鳥に関する今までの歳時記が非常に不備だということを感じ、かなりの大きな誤りがあることを発見するようになる。そこに春潮がいたのである。
春潮もかねてから、それらの矛盾、誤りを強く感じていた一人で、秋桜子の勧めもあって「馬酔木」に約一年にわたって野鳥歳時記を連載し、昭和十八年(1943)に一冊にまとめあげた。
春潮の野鳥歳時記は実に画期的なものであった。自然科学的見解と俳句的季節観が美事に融合して、野鳥と俳句は結びついたのである。これで野鳥に対する知識や関心が、俳人たちの間にもひろまったことは特筆すべきだろう。これを機にして「馬酔木」では野鳥俳句が盛んになる。とまあ、この辺のことは実際には知らない。その頃の私は連日、野山で狐や鴉を追いまわして薄汚れた悪餓鬼だったのだから。
野鳥歳時記を編むに当って春潮が留意したことを要約すると、主要な鳥が殆ど秋に入っている、鳥の囀りは「囀り」の一語で包括されている、重要な鳥が脱落し意味曖昧なものが入っている、鳥の習性からみた科学的な季節区分(つまり渡りの区分で留鳥、漂鳥、夏鳥、冬鳥、旅鳥など)と季語が関連づけられていない等であるが、これらの趣旨はよく見ると互いにかかわりあっている。
そこで細かい点は省くが、ルリビタキ、ヒガラ、ゴジュウカラ、ホオジロや夏鳥のコルリ、クロツグミ、オオルリ、サンコウチョウなどは秋から春又は夏へ、ミソサザイは冬から春へ移され、アオバズク、マミジロ、メボソムシクイ、センダイムシクイ、キビタキなどが新たに季語に加えられた。
「囀り」についてはすばらしい季語として全面肯定しながらも、ヒバリ、コマドリ、ウグイス以外の鳥のそれは十把一からげにされているのは実に惜しいといっている。まさに春潮がいうとおりで、ミミズやミノムシの声に耳をそばだてる俳人が、鳥のなかでも名うての歌の名手たちを黙殺する手はないのである。これは飼鳥の伝統、つまり篭の鳥の愛玩が主流で野の鳥に目を向けようとはしなかった因習が、俳諧の世界にも根強く影響していたからであろう。野の鳥を篭に封じこめるような盆栽趣味を廃し「野の鳥は野で」ということこそ悟堂が最初の主張であったのである。囀りは「囀り」として、繁殖に命をかけて囀る鳥たちを、その名をもって呼んでやるべきであろう。そして春潮は、留鳥又は漂鳥で一定の季節に決定できないものに対しては、「無季の鳥」として従来の歳時記にはない一項を設けた。これはけだし卓見であった。スズメやカラス類はもともと俳句的には無季の鳥であるからもちろんだが、カイツブリ、ミサゴ、トビ、キジバト、キツツキ類、カワガラス、エナガ、シジュウカラ、メジロなどが入っている。
さて、いま手許に「カラー版俳句歳時記 四季の鳥」(例句選・鳥解説 志摩芳次郎 世界文化社 1980)がある。春潮の野鳥歳時記とは実に四十年の隔りがある。この新旧二つの歳時記をつき合せてみると、そこにはやはり春潮の影響は大きい。
しかしながらその新しい歳時記には、夏鳥のイワツバメ、コマドリ、ヤブサメ、センダイムシクイなどがはやばやと春にまぎれこんでいるし、春か夏がふさわしいと思われるルリビタキ、コガラ、ゴジュウカラ、ホオアカなどは依然として秋にふみとどまっている。そしておどろくまいことか、ミソサザイは冬の片隅で息をひそめているではないか。
これはまたどうしたことだろうか。「―ミソサザイは冬の季語としてあり、これが妥当であろうが、(略)春のミソサザイを詠む場合には鳴いていると分かる詞か、春の季語を補うかによって特徴を出すのがよいのである(堀口星眠 鳥のすべてが俳句の対象になる「野鳥」通巻四二七号 1985・12・P21)」。つまりはこういうことであったのだ。しかしこれはまた、のっけから断定的で俳句的因習に盲従的で、したがってミソサザイがなぜ冬が妥当なのか、その辺のことはわからない。ミソサザイが冬季に定着するのは何時からのことか。
こういう詮索は苦手だが、ものの本によると延宝八年(1680)の俳諧・田舎の句合―二二番に「雪おもしろ軒の掛菜にみそさざい」があるというから、江戸初期末の頃から中期へかけてのことだろうか。されば、江戸市井の宗匠たちには、納屋の軒下のがらくたの隙間へとびこんだり、生垣の暗がりへ潜ったりしているだんまりの冬のミソサザイが一般的で、その鳥が江戸の生活圏から遠く離れた渓谷で、朗朗と他の鳥どもを圧した歌いっぷりで、春を告げる美声の持ち主であったとは知る由もなかったであろう。ミソサザイの本質を知らなかったのである。
今は野性動物の生活圏を侵すほど人間の生活圏行動圏がひろがった。登山もブームの域を脱してすでに久しい。山岳をめざす俳人もかなりの数にのぼる筈であるが、ミソサザイの囀りには心を動かさないのだろうか。ルリビタキもミソサザイ同様の扱いをいまだに受けているが、これこそ俳壇のもつ頑迷さそのものであろう。
頑迷さといえば、この新しい歳時記にして「色鳥」や「小鳥来る」という化石みたいな季語がまだ生きていることである。スズメ目からカラス科を除けばあとは皆小鳥と呼べる鳥ばかりで、特に秋に限って目につくようになるわけではないし、色の美しさをいうなら、秋に現れる冬鳥にひけを取らない夏鳥が種類の上でも多いのである。これらの季語は必然性のない唯のこじつけにすぎないだろう。
整理しなければならぬことはまだあって、クイナ、ミヤコドリ、ヤマバト、ジヒシンチョウなどの俗称が季語に混在していることで、これはやはり大部分の鳥の季語のように標準和名(種名)に統一すべきだろう。これらの中には別種を指すものが含まれているからである。
たとえば、クイナ。この鳥は夏の季語とされるが正体はヒクイナであることは、俳人なら誰知らぬ者はいないと思っていた。ところがそうでもないらしい。クイナがコツコツと鳴くとする、例の「戸を叩く」という俗諺からの、実態を知らぬ空想の産物は論外として、こんな解説を見つけた。「戸を叩くような声で鳴く。秋、北方から渡来し、水辺の葦原や田圃近くの渓流などにすむ。哀愁をおびた鳴き声は特色がある。」これも戦後出版された俳句歳時記のものであるが、一文の中でヒクイナとクイナが渾然一体となっている。それにしても俳人は戸を叩くのがよほど好きらしい。古人は「鳴き方」を戸を叩く様子にたとえた。現在の俳人は戸を叩く音から「鳴き声」を想像する。近代の都市文明はそれだけ自然を遠ざけてしまったのである。ヒクイナは南方系、クイナは北方系の鳥で、日本に渡来する時季も夏と冬で全く正反対なのである。クイナは日本ではほとんど鳴くことはない。あの仏法僧も「ブッポウソウ」と鳴く夜行性の鳥をコノハズク、姿は美しいがそうは鳴かない昼行性の鳥はブッポウソウと区別することが、俳壇でも定着しつつある。クイナもこうした混乱をさけるために、夏のクイナはヒクイナ、冬のクイナはクイナとしてそれぞれを正しく独立させるべきではなかろうか。いつまでもノックみたいにコツコツでは俳壇の名誉にもかかわるだろう。ヒクイナという言葉の響きも悪くはないし、緋水鶏と表記する字面もすてがたい。同様にミヤコドリもユリカモメが正しい。そろそろ決断なさってはいかがなものでしょうか。
春潮は鬱然たる俳壇の権威に対して遠慮したと思われる節も見受けられるし、また逆に少しやりすぎたきらいがなくもない。それがいま、鳥たちをめぐる季語にさまざまな混迷をもたらす遠因になっているとしたら、俳壇の頑迷さばかりに矛先をむけるわけにもいかぬだろう。
春潮からすでに半世紀の時間が流れすぎた。その間に、鳥たちをとり巻く自然環境は想像を絶する荒廃ぶりを見た。鳥たちもまた、その習性を変えたものが少なからずいる。それにもまして鳥学界の学識経験も飛躍したのである。春潮の二番煎じは承知の上で、いま改めてこれらの鳥の季語を見直して整理してみるのも、あながち無駄な行為とも思えない。
しかしながら、鳥は実にすばらしい生き物である。色の美しさ、声のすばらしさ、しかも空を飛ぶことができる。この愛すべき動物は我々の最も近しい隣人として生きてきた。いやいや、我々がこの地球上に出現する、そのずっと昔、気の遠くなるような長い時間を生きてきた先住者であったことを知れば、限りない畏敬の念を棒げずにはおられないだろう。国を挙げての開発志向の中で、彼らの重要な生息地が破壊されるとき、彼らのために我を忘れて立ちあがっては「鳥か人か」とそしりを受け、「鳥も人も」と応じたり、時には “Today Birds,Tomorrow Men”と警告を発したりもしてきた。
しかし、そんな乾燥しきった世界から脱けだして、清浄な山の大気を吸い、清冽な山の水を飲んで、降るような鳥の囀りを全身に浴びる時、思わず大自然のめぐみの前にひれ伏すのである。そしてあれはメボソムシクイ、こっちはルリビタキなどと一つ一つそれを聞きわける時のあの心のふるえ、その心のふるえを俳句に定着させることができるならば…。
こんなよろこびを一人でも多くの人とわかち合えることができれば、この上ない幸せである。
筆者・土屋休丘(つちやきゅうく)
日本鳥学会会員
日本野鳥の会会員、 同 評議員(1981年)
「七曜」誌 1994年4月
なお、土屋休丘さんは2016年4月1日に永眠されました。