かつて私は、土屋休丘の、  

   絶滅ときまれば鶴の煌煌と     土屋休丘

の句に触れながら、次のように書いたことがある。

       

 佐渡の日本トキ(学名ニッポニア・ニッポン)の最後の一羽「キン」が死んだのは、昨年(註・平成十五年)の十月十日であった。死因は老衰だと思っていた、が、飼育されていた部屋の中で突然飛び立ち、アルミ製の扉に衝突したことによる頭部挫傷によるとあとで知った。日本を象徴する国際保護鳥の悲惨な最期といえよう。     

 丹鳥鶴も今は千羽近くに殖えていると聞くが、明治時代には乱獲と湿原の開拓により、絶滅したと思われていたそうだ。しかし、大正の終わりに数羽の丹頂鶴が発見され、戦後、釧路湿原などの給餌によって徐々に殖え始め今日に至ったわけだ。だが、見方によっては純野生の丹頂鶴は、すでに明治に絶滅していたといえるのではないか。いうなれば、今釧路湿原で生き続けている丹頂鶴は、その絶滅した鶴の残像である。

 これら絶滅種の増加の道は、そのまま、その風土とそこに住む人間そのものの絶滅の道であろう。 

   山河荒涼狼の絶えしより        佐藤鬼房

 山の神狼の絶滅以後、日本の山河は荒み衰え続けるばかりであるように鶴の絶滅は、日本の湖沼湿原の喪失のみを意味しているのではない。「煌煌と」輝く鶴の姿は、絶滅の元凶、人間に対する実にささやかな、しかし、痛烈な糾弾なのである。     

               「小熊座」平成十六年三月号より

 私は今般、土屋休丘の句集『につぽにあ・につぽん』が上梓されると聞き及んで、この拙い文章を跋に代えて載せて頂けるよう著者に申し出た。それは、この鶴の句が、本集を貫く、生きとし生けるものはすべて親族であり、血族であるという著者の愛とそれら愛するものすべての滅びに対する今日的詩精神とを、なによりもよく象徴していると確信したからである。 

        平成十七年立秋

                                                           高野ムツオ