2012年12月3日───。


“ただの”後輩だったはずのあの娘が、“大切な”彼女に変わった…。



僕は勇気を出して伝えた。



ただ、それだけで胸がはち切れそうになった。



こんな経験は初めてかもしれない。



普段のオレではない、だけど素の状態であるオレ──。



彼女はそんな自分の気持ちに気付かせてくれた。



感謝。


そして、これからは恩返し。


さぁ、何処まで歩みを止めずに歩いて行けるだろうか。


周りの皆には、惜しくも干渉できない位置まで下がってもらい、生温い目で見守っていただきたい。



あー、マンモスうれぴー。

「フゥ…電車に乗るのも久々だな」


程好く揺れる車内で、座ったまま窓からぼんやりと過ぎていく景色を観て、彼はそう思った。


彼の暮らす町はその土地柄、車での移動が多い。


また、その町に駅もないため、電車に乗る機会は皆無に近いのだ。


この日は朝から少し遠くに出る用事があって、効率の良い電車での移動を選択したのだった。


彼の向かい側の列の、彼からはいくらか遠い位置に、一人の老人が座って本を読んでいた。


その老人は視力が弱いようで、年期の入った銀縁の眼鏡をかけて、眉間にシワを寄せている。


何だか彼はその老人が気になって、気付くとボーッと見つめてしまっていた。


しかし老人は彼の視線には全く気付かない様子で、じっと書物とにらめっこをしている。


やがてその老人は本を眼から近付けたり、遠ざけたりという動作を始めた。


どうやら近視と遠視、両方の症状が静かに闘いのゴングを鳴らしたようだ。


なかなかピントが合わない老人。


しばらくその動作を繰り返した後、老人はかけていた眼鏡を外し、頭頂部にかけ直した。


裸眼で勝負しようという魂胆である。


すると少し本の字を追うのが楽になったのか、老人は良い姿勢を保ったまま動かなくなってしまった。


…と思ったらまた慌ただしく動き始めた。


死んでしまった訳ではなかったようだ。


彼は少し安心してまた見守る。


しかし、今度はどうしたというのだろう。


老人はまた眉間にシワを寄せながら本を前後に動かしている。


どうやら、またピントが合わなくなってしまったらしい。


窓の外に流れる自然豊かな風景を背に、不自然な程に動く老人。


彼はフッと微笑を浮かべながら、老人の様子を観察し続けた。


眼鏡を外したら、やはり本の字が見えなかったのだな。


そんな彼の予想を綺麗に辿るように、今度はさっき外した眼鏡を探す老人。


頭頂部にかけたコトを忘れているのか、必死に上着のポケットや周りの座席を探している。


終いには「あなたが盗ったのか」と言わんばかりに、周りの客を睨みつけているではないか。


彼の微笑が普通よりも大きな笑みに変わったのは言うまでもない。


更には
「アンタ頭頂部の髪が決して多い訳では無いんだから、眼鏡の存在に気付けよ笑」
という感想文が頭の中を、ぐるぐると駆け巡る。


彼が必死に笑い声を抑えながら観ていると、老人は睨み付けるのを止め、足元に置いてある鞄の中を漁り始めた。


「なんだ…?」
老人の不可解な行動に疑問を抱き、彼は笑っていた口元を押さえるために上げていた手をふと下げた。


ガサゴソ…


ガサゴソ…


スッ…



老人が取り出したのものは、そう、スペアの眼鏡である。


失くしてしまった時の為にいつも持ち歩いているのだろうか。


まさか…


彼は一瞬にしてこれから起こるであろう事の重大さを悟ったが、いや待て、と首を横に振る。


まさかスペアの眼鏡をかけるハズがない。


今あの老人の頭頂部には眼鏡がかかっている。


その状態で別の眼鏡をかけてしまったら…。


彼の推測は完璧だった。


老人は彼の推測通りに、眼鏡を目元へと運んでいく。


止めてくれ!


彼はそう叫びたかった。


しかし、これから起こる事態を想像すると、そんな言葉を発することは非常に困難であった。


顔がにやけてしまって、声が出せないのだ。


スッ…

カチャッ…

スペア眼鏡のツルが老人の耳元へと収まっていく。


「ゴホンッ…」


御本を読もうとする老人がそう咳払いをすると同時に、その頭部で眼鏡のダブルブッキングが完成してしまった。


それを見た彼の口から溢れ出す、自制の効かない笑みを含んだ言の葉“ハッハッハ”。


結局老人は、誰もが通るコトを恐れてきた禁断の道へと足を踏み入れていった。


彼には老人を止める力がまだ無かった。


くそぉ…


救いの手を伸ばすコトが出来ずに、一人の老人を犠牲にしてしまった。


彼は悔やんだ。


でも悔やみきれなかった。


こうなってしまったのは事実だ。


現実を受け入れる他に、彼に選択の余地は残されていないのだ。


ちくしょう!!


彼はそう叫びたい衝動を抱えたままふと顔を上げた。



「や、やっぱりダブルブッキング…笑」





彼の懺悔は、一瞬にして腹筋の震えへと姿を変えてしまったのだった。


それは、まるで田舎の山道を走るかの様だった。



…いや、僕は本当に田舎の山道を走っていた。


もうすぐ冬だというのに、車内は燦々と降り注ぐ陽の光のせいで少し蒸し暑い程だった。


何気なく過ごした連休の最終日、僕は彼女…ではなく、高校からの知り合いである“ただの”後輩と動物園へ向かっていたのだ。


リア充ではないが、淋しくはない。


しかしリア充でない分、虚しくなくはない。




動物園では、様々な動物を見て回った。


キリンやサイ、ライオンにホワイトタイガー等、普段目にするコトのないような珍しい動物を間近で観察できる場所が動物園であり、それが醍醐味なのである。

…皆が知っているコトだとは思うが。



そういった“当たり前”という位置付けをされた事実を説明してしまうくらい、私は親切なのだ。


それは時として慕われる要因でもあり、時として他人をダメにする要因でもあるらしい。


以前、その“ただの”後輩から、そう言われたコトがあった。


自分で自分のコトを理解しようとするのは、意外に難しいコトなのかもしれない。


他人に言われて初めて己の発言や行為の異常に気付いたり、省みたりするものなのだ。


つまり、自分を理解するためにはそういった点を指摘してくれる他人の存在が大切なのだろう。


果たしてオレは、一体何者なのか。


これから、皆の力を借りながらそれを見つけていきたい。


ただ、今は「善い人」でもありたいし、「悪い人」でもありたいという欲求が僕の中で渦巻いている。


それは栓を抜いた排水口の様に小さくも勢いよく渦巻いている。


弱い僕は、やはりこの欲求には敵わなかった。


僕は今日、たった一つの、悪いコトをしてしまった。


僕はウソをついたのだ。


“ただの”後輩を思いやり、やるせない気持ちのままについたウソだ。


そう、僕は“善い悪人”なのだ、


僕は自分を犠牲にするのには慣れている。


だが、その後にいつも僕の心を虚空が襲ってくる。


きっと、僕は彼女にとって“ただの”先輩であり、所詮“ただの”人間なのだ。


ならば僕はその“ただの”人間らしく、ありきたりに彼女の背中を押そうではないか。


彼女はこのウソに気付くだろうか。


しかし、その時にはきっと干渉できない程遠い存在になってしまうのだろう。


彼女は今まで苦労してきた人だ。


だから、今回ばかりは楽をして幸を掴んで欲しい。


そのためなら、僕は自分の気持ちを圧し殺すコトだって惜しまずやってみせる。


もしかすると、「調整役」という言葉が僕には一番似合うのかもしれない。


時には誰かと誰かの歯車になって、またある時には潤滑油となろう。


そうやって生きていくコトこそが、この機械化された世の中で見つけた、僕の唯一の生き甲斐なのかもしれない。




僕は今日、傷付きながらも飼い慣らされた動物達を見て、まるで今の僕の様だと感じた。


動物園を彩るピースとして檻に入れられた動物達と、相互関係を巧く保つためのピースとしてこの世の基盤に組み込まれた自分とを重ね合わせてしまったのだ。


あぁ、何とも酷な物語だ。


しかし、その限られたページの中でも幸せを探し続けている僕は、ある意味“ただ者”ではないのかもしれない。


僕は彼女を送り届けた後、いつもの様にカーステから流れるお気に入りの曲を全力で歌いながら、ただただ帰路につくのであった。





言えないよ 好きだなんて。