「フゥ…電車に乗るのも久々だな」
程好く揺れる車内で、座ったまま窓からぼんやりと過ぎていく景色を観て、彼はそう思った。
彼の暮らす町はその土地柄、車での移動が多い。
また、その町に駅もないため、電車に乗る機会は皆無に近いのだ。
この日は朝から少し遠くに出る用事があって、効率の良い電車での移動を選択したのだった。
彼の向かい側の列の、彼からはいくらか遠い位置に、一人の老人が座って本を読んでいた。
その老人は視力が弱いようで、年期の入った銀縁の眼鏡をかけて、眉間にシワを寄せている。
何だか彼はその老人が気になって、気付くとボーッと見つめてしまっていた。
しかし老人は彼の視線には全く気付かない様子で、じっと書物とにらめっこをしている。
やがてその老人は本を眼から近付けたり、遠ざけたりという動作を始めた。
どうやら近視と遠視、両方の症状が静かに闘いのゴングを鳴らしたようだ。
なかなかピントが合わない老人。
しばらくその動作を繰り返した後、老人はかけていた眼鏡を外し、頭頂部にかけ直した。
裸眼で勝負しようという魂胆である。
すると少し本の字を追うのが楽になったのか、老人は良い姿勢を保ったまま動かなくなってしまった。
…と思ったらまた慌ただしく動き始めた。
死んでしまった訳ではなかったようだ。
彼は少し安心してまた見守る。
しかし、今度はどうしたというのだろう。
老人はまた眉間にシワを寄せながら本を前後に動かしている。
どうやら、またピントが合わなくなってしまったらしい。
窓の外に流れる自然豊かな風景を背に、不自然な程に動く老人。
彼はフッと微笑を浮かべながら、老人の様子を観察し続けた。
眼鏡を外したら、やはり本の字が見えなかったのだな。
そんな彼の予想を綺麗に辿るように、今度はさっき外した眼鏡を探す老人。
頭頂部にかけたコトを忘れているのか、必死に上着のポケットや周りの座席を探している。
終いには「あなたが盗ったのか」と言わんばかりに、周りの客を睨みつけているではないか。
彼の微笑が普通よりも大きな笑みに変わったのは言うまでもない。
更には
「アンタ頭頂部の髪が決して多い訳では無いんだから、眼鏡の存在に気付けよ笑」
という感想文が頭の中を、ぐるぐると駆け巡る。
彼が必死に笑い声を抑えながら観ていると、老人は睨み付けるのを止め、足元に置いてある鞄の中を漁り始めた。
「なんだ…?」
老人の不可解な行動に疑問を抱き、彼は笑っていた口元を押さえるために上げていた手をふと下げた。
ガサゴソ…
ガサゴソ…
スッ…
老人が取り出したのものは、そう、スペアの眼鏡である。
失くしてしまった時の為にいつも持ち歩いているのだろうか。
まさか…
彼は一瞬にしてこれから起こるであろう事の重大さを悟ったが、いや待て、と首を横に振る。
まさかスペアの眼鏡をかけるハズがない。
今あの老人の頭頂部には眼鏡がかかっている。
その状態で別の眼鏡をかけてしまったら…。
彼の推測は完璧だった。
老人は彼の推測通りに、眼鏡を目元へと運んでいく。
止めてくれ!
彼はそう叫びたかった。
しかし、これから起こる事態を想像すると、そんな言葉を発することは非常に困難であった。
顔がにやけてしまって、声が出せないのだ。
スッ…
カチャッ…
スペア眼鏡のツルが老人の耳元へと収まっていく。
「ゴホンッ…」
御本を読もうとする老人がそう咳払いをすると同時に、その頭部で眼鏡のダブルブッキングが完成してしまった。
それを見た彼の口から溢れ出す、自制の効かない笑みを含んだ言の葉“ハッハッハ”。
結局老人は、誰もが通るコトを恐れてきた禁断の道へと足を踏み入れていった。
彼には老人を止める力がまだ無かった。
くそぉ…
救いの手を伸ばすコトが出来ずに、一人の老人を犠牲にしてしまった。
彼は悔やんだ。
でも悔やみきれなかった。
こうなってしまったのは事実だ。
現実を受け入れる他に、彼に選択の余地は残されていないのだ。
ちくしょう!!
彼はそう叫びたい衝動を抱えたままふと顔を上げた。
「や、やっぱりダブルブッキング…笑」
彼の懺悔は、一瞬にして腹筋の震えへと姿を変えてしまったのだった。